こんにちは~^^
なるほど。「攀じれる」という言葉は初見でした。短い中にも、広く深みのある意味が込められている言葉を採用するのは、俳句・川柳を詠むにあたって強みとなりますね☆
岩山を人生や別の困難な出来事にイメージを転化させる事は、読み手としても容易かなと思います。岩登りの経験が無くても十分に伝わるのではないかなと^^
下五の「暖」は、「暖かい」のと「温かい」のを別解釈で考えてみると、さらに全体の句のイメージが変わって面白そうですね。
当初の「暖かい」ですと、気候のイメージが強いので、岩登り中でも高所による寒さで肌冷えしている頬に対し「暖が欲しい」という連想が……自分は最初に出てきました。
これが「温かい」になると、家族や日常の温かみを伝えるイメージにもなるのかなと……無事に生還できれば「温かい」ご褒美が待っている事を想定するならば……仮に、仮にですよ、家族が待っているという設定で、思い切って「家族の手」という下五にすると、「暖」より「温」というイメージが出てきそうな気がします。
勝手に一人で妄想を楽しんでしまい申し訳ありません。
俳句や川柳は、短い言葉の中でも大きな想像が後から後から出てくるものなので、妄想に歯止めが効きませんな^^;
作者からの返信
嬉しいコメントをありがとうございます。
一歩踏み込んだ感想をいただくと、感無量です。
「攀じれる」は登っている途中と言う意味で使いました。「○○る」を「○○れる」にすると、その最中と言うイメージがありました。
おっしゃるとおり、岩登りの経験がなければ、それに見合う経験に置き換えれば大丈夫と考えますね。
言われてみて気づきました。ありがとうございます。
冷と暖の対比(差)は私の意図するところでして、汲み取っていただき、ありがとうございます。
やった! という、想いです。
そして、「家族の手」という、更に一歩踏み込んだご提案をありがとうございます。
私はそこまで踏み込めませんでした。
踏み込めなかった理由を自分なりに考えました。岩壁登攀はチームで登るのですが、登攀中は声のアドバイスくらいで、誰も助けてくれません。自身の力や技量で登らなくてはなりません。
なので、弱気は禁物なんです。
少しならいいんですが、あまり家族や下界の友人のことを考えていると、岩壁と向き合えなくなってしまいます。
そんな自分なりの経験から、踏み込めなかったと推測します。自ら縛りを作っていたのかも知れません。
踏み込めるということは、ずっと感覚が豊かだと思います。
私も固定概念にとらわれないように、気をつけようと思います。
五七五は、非常に短いですよね。だから、想像の翼がどんどんと広がります。
伝えたい方向をある程度定めて、そちらへどこまで誘導するのか? 五七五には、そんな感覚を持っています。
でも、誘導した先はもう読み手の世界なんです。
そのまま真っ直ぐ進むのか?、曲がるのか?、はたまた来た道を戻るのか?
読み手の感覚にゆだねられます。
そういうところも、「なんか楽しいな」と思っています。
早くからのコメントをありがとうございました。
そして、その山は岩山です。
慣れている方は、例えば70代、80代の方々も日課で登るぐらい低い山なのですが、傾斜のキツい岩山で、まさに、まさに……というところです。
俳句、川柳…小説を書くのとは別種の才能が要りそうですね~。
作者からの返信
応援コメントをありがとうございます。
岩山のご経験をお持ちのようで、親近感を覚(おぼ)えました。
若い頃は、ザイルで確保されないと行けない所も登っておりましたが、体重も重くなってきて、もうとてもできそうにありません。
せいぜいが、きちんと鎖がある奥穂と西穂の間くらいです。(北アルプスにそびえる穂高岳の奥穂高岳と西穂高岳のことです)
なので、この句も思い出を詠んでおります。
岩を登っている時は個人の技術と体力の勝負で孤独なのですが、ザイルを使う登攀には仲間がいます。
危険な箇所に差し掛かっても、無事に帰れるんだと思い、下界の暖かいものを思い出したのでした。
その象徴として『居間の暖』を選びました。
この句は前の句よりも多くの時間を費やしました。私には才能が無いので、好きだから時間をかけて何とかできているって感じなのです。