第二部16幼児

 サナが、すうすうと寝息をたてている。

 少し冷え込んで来た気がして、真礼は自分の纏っていた綿入れをもう一枚サナの上にかけ、その傍らに滑り込んだ。幼子の体温はほこほこと温かく、その眠りは深い。

 真礼は穏やかで心地良い温もりにほっと息をついた。

 あの地震の日、真礼は籠もっていた邸から、揺れがおさまるやいなや飛び出した。ギイギイと音をたてながらも、真礼の邸は崩れることはなかったが、里の少なくない家が崩れた。

 最近は地震が多い。だから真礼が地震に合うのは初めてではなかった。大きな揺れに斎庭ゆにわで神器を守って過ごした事もある。しかし、久しぶりの故郷で見たのは、もっとずっと生々しい、災害の姿だった。

 地震が起きたのは夜。人が寝付いたあとの時間だった。だから煮炊きなどしている家はなく、地震後すぐの火事はなかった。

 幸い、月の明るい夜でもあった。

 ただ、十月も半ばの深更は寒かった。

 それに崩れた家には閉じ込められた者も多く、助け出された怪我人を夜寒に晒してはおけなかった。誰かが火を焚くと、次々に皆が焚火をおこした。

 揺り返しは幾度もあり、誰かの焚火の火が遅れて倒れた家に移った。一度燃えだせば崩れた家々は薪と変わらない。火は次々に燃え移った。

 真礼は一軒の家の下敷きになったサヨのそばにいた。サヨは身体の下に幼い娘のサナを庇っており、まずサナが引き出されたのを真礼が預かり、男たちがサヨを引き出そうとしていた。サヨは太い柱に足を挟まれて、中々引き出すことができず、そこに火が迫った。

 「真礼さま、サナを。」

 サヨがささやく。火を消そうと砂をかけ、水をかけ、火を叩いても広がってゆくのを止めることはできない。真礼はサナを抱いて、なすすべもなくサヨが炎に呑まれるのを見ていた。

 結局火は里の半分ほども焼いた。

 崩れていなかった家までも焼いたせいで、多くの者が焼け出された。もっとも揺れが落ち着かないことには、屋内で落ち着いて暮らすことはできない。真礼は邸の庭木に天幕をかけて過ごすことになった。

 お婆も前にそうしていたとかで、低い台を組んだ上に敷物を敷いたお陰で湿気が上ってくるのは随分とマシだったが、日に日にきつくなる夜寒はどうしようもない。添い寝する幼子の暖かさに、むしろ真礼が救われている。手持ちの衣類のほとんどは里人に分けてしまったが、都の他の猿女からの荷が届いたお陰で随分と助かった。

 何やら遠出しているとかで、荷を運んできたのは阿礼や安麻呂ではなかったが、そのことに少し落胆するのと同時に、少し安堵するような気持ちもある。阿礼が比売田の名乗りを捨てると言ったあの日から、真礼は自分が混乱していることを知っていた。

 阿礼は真礼の理想だ。

 ずっと、そうだった。

 一度聞けば歌を完璧に覚えられる記憶力。

 舞うまでもなく美しい身のこなし。

 声変わりをするまでは、天の果てまでも響いてゆく無類の美声を誇ってもいた。

 阿礼こそが真礼がかくあるべき理想の猿女で、真礼はずっとその理想をなぞって生きてきた。

 でも、それは違ったのだ。

 当たり前の話だ。阿礼は男で、猿女ではない。

 自分たちはまだ似ているのだろうか。

 十一年ぶりに見た阿礼は、鏡の中にいつも見る真礼自身とはあまりに違った。

 ゴツゴツとした体つきに、日に焼けた肌。

 別れる日までは本当によく似ていたのに。

 それでも所作は美しく、声は心地よい響きを持っていた。その声で、真礼に告げたのだ。自分は比売田を名乗ることをやめようと。

 その衝撃を、今も処理することができない。衝撃は低い響きとなって、今も真礼を揺らしている。

 阿礼は変わった。

 その阿礼は、物語の墓を作るのだという。

 現に物語を受け継ぐ真礼にとって、それはひどい違和感を感じる行動だった。比売田は、猿女は物語の担い手だ。墓守ではない。

 では比売田の名を捨てて稗田と名乗ろう。

 そう阿礼が言い出したときに真礼の脳裏に広がったのは、サキだった。

 稗田などどこにでもある。それこそ比売田の里にも。けれど働き手の少ないサキの里では、幾分手のかかりが少なく、寒さにも強い稗が多く育てられていた。むしろ租に必要な米以外は、ほとんど稗を育てていたはずだ。だから口の悪い者はあの里を、稗食いとか稗田とか呼んでいた。

 結局、サキに阿礼を奪われてしまった。

 あの死の影の濃い殯の場でさえ、感じ取ることのできる死の気配が、阿礼に纏わりついていた。

 あれはサキだ。

 生死の違いさえも越えて、阿礼とサキは結びつき寄り添っている。普通なら共に黄泉に下ってもおかしくないところを、どうしてかこの世にとどまっている。

 阿礼は墓守になってしまったのだ。サキの、稗田の、失われゆく物語の。

 サナが寝返りをうち、真礼にすがりつく。

 真礼は温かな幼子をそっと抱きしめて、目を閉じた。

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