第3話

 翌日も、私は前日と同じことをしていた。結果は昨日と同じ。やっぱり日比野君を起こす事はできないのだ。

 そして、気がつけば私は月曜から木曜までそんなことを続けてしまった。もうそろそろランチタイムの途中で抜ける理由が難しくなってきている。最初の二日はトイレといっても何も疑問に思われなかった。実際、屋上に行っても挫折してすぐに戻って来た訳だし大して時間もかかっていない。その後はちょっと別のクラスの友達に用があると言ってみた。でも、これは教室に帰ってきたときにその友達のことを聞かれて、嘘をついたことに気まずさを覚えた。

 日比野君のことが気になるから、日比野君のことが知りたいから……そんな理由を、素直に使う事ができて、それを許される環境なら、どんなにこの教室は素晴らしいのだろうと、ふと虚しい空想をしてしまう。

 三日目からは、ちょっと読みたい本があるから図書室を探して来るという理由にした。運良く、ランチタイムのメンバーの中には読書好きという子が一人もいなかったので、この理由はとても助かった。

 そして、今日は金曜日。今日、日比野君に声をかけられなければ、もうこんなことはやめようと思った。きっと、それは私がダメな子だということの証明なんだ。

 私は屋上の昇降口の壁にもたれて、暫く日々野君が横になっているベンチを眺めていた。屋上では他にもちらほらと生徒が休んでいる。この日は、日比野君が寝そべるベンチの近くで、他のクラスの女子生徒が数人集まってバレーボールをしていた。誰かが高くトスしたボールが上手い具合に日比野君の顔に当たった。なんて彼はついていないのだろう。私は思わず吹き出した。トスした女の子がベンチに駆けよって頭をぺこりと下げる。日比野君は「いいの、いいの」という風に頭をかきながら薄ら笑って軽く手を振り、だるそうな体を起こしてこっちにやってきた。

 私は慌てて階段を下り、すぐ下の階の廊下を左に曲がって後から来るであろう日比野君の様子を窺った。

 じき下りてきた日比野君は更に階段を下りて行く。

 私も慌ててその後を追った。

 階下の踊り場を出て左に曲がれば、ちょうど日比野君が図書室に入っていくのが見えた。

 これなら自然な理由付けができるかも!

 そもそも、日比野君が昼休みに眠らないこと自体珍しいのだから! 

 私は足取り軽く図書室の扉を開けて中に入った。

 一番奥の席に日比野君が座っていた。

 チャンスだ。私は何気無く本棚に視線を巡らしながらその足を確実に日比野君の席に進めていった。でもその付近にある本と言えば辞書ばかり。私は取敢えず漢字辞典などを手にとり日比野君の正面の席を陣取った。

 日比野君は「眼で見る宇宙論」という何やら難しそうなハードカバーに見入っている。

 どうしよう、何て声を掛けようかな。こんなに接近したにも関わらず、何も行動に移せないことがもどかしい。私はでたらめに辞書のページをめくりながら頭を抱えていた。

「何調べてるの?」

 それはハードカバー越しからの声だった。

 それが日比野君だというのはすぐにわかった。だって、あの日聴いた声と同じだったから。

 私は答えるのも忘れてひたすら感動していた。訳のわからない感動だった。

「ゆ・う・う・つ……ていう字」

 とっさに出たそんな答え。誰かが言ってた。この漢字だけは何度見ても、書くことができないと。

「憂鬱か、随分難しい字を調べてんだなぁ」

 あっけらかんとした声が返ってきた。

「コタ……い、いや、日比野君こそ」

「いいよ、コタツでさ」

「そんな! いやよ、コタツなんて!」

 ここが図書室だということをすっかり忘れて叫んでしまった。

 コタツとは私のことではなかったけど、だからなおさらよくなかった。

「静かにっ! ここは教室じゃないのよ!」

 顧問の先生がヒステリックな怒声を飛ばす。

 あなたの声よりましよと思いながらも、私はしゅんと首をすくめた。押し殺した笑い声が前のハードカバーから漏れていた。

 突っ立てたハードカバーをそぉぉっと取り上げると、机に突っ伏して苦しそうに声を殺しながら日比野君が笑っていた。

「何がそんなに……おかしいの……で、しょうか」

 本当は私も一緒に笑いたい心境だったけど、その気持ちを抑えるように少し怒って言おうとしたら、言葉自体がおかしくなってしまった。

「いや……べ、別にね」

 ともすれば綻びそうな口許をしてそんなことを言い、再び日比野君は本を読み始めた。

 私はその後をどうしようかまた考えあぐねていたのだけど、思いがけず、日比野君の方から声をかけてきた。

「なぁ……屋上って好きなの?」

 一瞬、誰に言ってるのかと思った。私は辞書をよけておずおずと日比野君の方を見る。すると、日比野君も同じようにハードカバーの横から顔を覗かせていた。

「何か……悩み事でも、あんの?」

 その目は私を見て、私に言っていた。

「え……悩み?」

「ここんところ毎日屋上来てんだろ。何かさ、難しい顔して一人でゴチャゴチャ言いながら俺の寝てるベンチの前行ったり来たりして……んで、すぐに帰ってくじゃん。あれ、何?」

 その瞬間、私はまるで全身サウナ状態になった。体が熱くなって、一気に汗が吹き出たような気がする。日比野君は知っていたのだ。

「日比野君、寝てたんじゃないの?」

 そこで、日比野君は少し意外そうな顔をして「お」と言った。

「ああ、寝てたよ。でも、うたた寝程度だから、人の気配がすれば起きるよ。それにしても、よく俺の名前知ってたな、早瀬さん」

 日比野君は、屋上の私のことだけじゃなく、私の名前まで知っていた。

 私は一気にいろいろ考えてしまい、頭の中が真っ白になっていた。次に何を言っていいのかわからない。だから、思わず出し抜けに、当初の目的である質問なんかを口走ってしまった。

「日比野君、秋とか冬にも屋上で昼寝したいの?」

 これぞ支離滅裂かも。もっと他に言いようがあるはずなのに!

 でも、そんな私の内心のボヤキをよそに、日比野君は少し変な顔をしたけど、すぐにそうだなぁと続けた。

「……うん、まあ、気が向けば」

「寒いじゃん。冬とかめちゃくちゃ寒いよ、きっと」

「よっぽど寒くなりゃ、山岳部からテントとキャンプ道具一式借りて火でも炊くさ」

 完全に馬鹿にしているような答えが返ってきた。

「で、俺がいい気持ちで眠っている間に見る夢は南国のパラダイス。何だかぽかぽか日和でそれを通り越してやけに暑いなぁと思って眼を覚ます。すると俺は炎に包まれてる。俺は燃える男、なんて冗談もさておき、ヤベェ! と思ってももう遅い。俺は敢え無く焼死。学校は全焼。後の現場検証で屋上で焚火をしていた馬鹿な生徒の仕業だとわかる。犯人がわかったところで俺はその頃本当に楽園に旅立ってる。……嗚呼パラダイス、パラダイス」

「は? ……本当にそんなこと考えてるの?」

 彼は本を閉じてびっくりしたような顔を見せたが、改めて身を乗り出し、私を見つめた。

「まさか。……早瀬さんって、変な奴だな」

「そんなこと日比野君にい……!」

 日比野君が、「い」の形に開いた私の口の前に指を立てた。「静かに」と唇だけをを動かしてみせる。

「我を忘れて取り乱す。しかも二度目。変じゃないか? こんな奴ってさ。かなり危険だと思う」

 私を見つめる日比野君の目。不覚にも、私はその瞬間そんな日比野君の目に魅入ってしまった。普段ほとんど眠っている日比野君の目とはこんな目だったんだと。決して大きな目ではないけど、黒い瞳はしっかりと私を見据えていた。迷いのない目で、何も言わなくても何が言いたいのかわかるみたいな。私は慌てて目をそらした。

「いつも……いつも寝ている人の方がずっと変じゃない」

 そんな私の声はまるで囁きのように小さかった。

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