第三章
それからも
しばし欠席を重ねていた彼女であったが、一週間も経てば当たり前のように出席し、我が物顔で己の席に陣取った。いや、そもそもそこは間違いなく彼女の席であるのだから、我が物顔なのは当然だった。
昼休み、彼女――米座アカネは、何かから逃げるように教室を去ろうとした。しかし僕は先回りして、その前に立ちはだかる。
「なあ、米座アカネ。さすがにそろそろ、話くらいは聞いてくれても良いんじゃないか……?」
「……あたしに関わらないで、本当に、お願いだから」
一週間前のように、変質者に怯える顔ではない。純粋に、クラスメイトを突っぱねる顔だ。この一週間でどうにか関係性を前に進められたと考えるべきか、クラスメイトだと知っても態度が変わらないことを嘆くべきか。何はともあれ、落ち着いた会話は望めそうだ。
「なんでそこまで頑なに、僕と……いや違うな、クラスメイトと関わることを拒むんだ?」
彼女は所在なさげに視線を彷徨わせ、キッと僕を一瞥してその隣を通り過ぎようとする。「待っ、」「別に、拒んでるつもりはない」ぴたりとその足が止まった。
「他者を拒んでるのは、アンタ達の方」
「は?」
そう言い残して米座アカネは、早足で廊下を歩いて行った。弁当は手にしていなかったから、食堂か購買へと向かったのだろう。追いつこうと思えば追いつけるが、僕はそれができないでいた。
なぜなら。
――愛想悪いなあ、『根暗メガネ』。
「――っ」
教室を振り返る。そこには昼休みを有意義に過ごす、高校生らしい喧騒があるのみだ。……あるのみ、のはずだ。
だが僕は聞いてしまった。彼女を拒む声を。
それを知った途端、喧騒は違う側面を見せる。その一言一言を聞き分けるのは至難の技なのに、僕にはそれが全て、米座アカネを排斥する旨の声であるかのように聞こえてしまったのだ。
そして、それを裏付けるかのように、男子生徒の一人が僕に声をかけてくる。
「なあー、
ねっとりと絡みつくような、底意地の悪い声だ。相手を傷つけることに何の躊躇いも抱かない――クズの声だった。
椎堂が
ボクはそれが、心底嫌いだった。
◆
昼休みが明け、午後一発目の授業は自習となった。
本来ならば一年三組で教鞭を振るっているはずの我らが担任、御空スズメ先生は、僕を前に珍しく、険しい表情を見せていた。
生徒指導室。読んで字の如く、悪いことをした生徒に、清く正しい道を邁進するための指導を施す部屋だ。教室の四分の一ほどの広さに、長机が二つ並べられ、パイプ椅子が壁に立てかけられている。そのうちの二つに、僕と御空先生は座っていた。
「……えっと、美作くん?」
恐る恐る、先生は切り出した。
「こんな聞き方しかできないけれど……なぜ、あんなことをしたのですか?」
左手に残る鈍い感触。手の甲を見てみると、こびりついた鼻血が乾いてしまっていた。
僕の答えを待つ先生に、僕はあくまで軽く答えた。
「理由はわかりますけど、殴ったのは僕じゃありません」
「え、いや、あの……」
「でもきっと、僕でも殴ったと思います」
「……ちょっと、お茶を貰ってきますね」
気が動転している、とでも思われたのか、先生は優しい顔をしながら席を立った。
ばたん。閉じられた戸を見つめ、ため息を一つつく。
……久々の悪癖だった。左手を握ったり開いたりしながら、おぼろげな記憶の中に見る、クラスメイトの怯えた顔を思い出す。……思い出そうとして、ぼやけた映像しか浮かばないことに気づき諦めた。
「僕もまだまだ、子供だなあ……」
◆
あの後先生がお茶を持って帰ってきて、優しい取り調べのような何かが始まった。しかし、僕の要領を得ない説明やら弁明に、今はまだ話が難しいと思ったのか、「ひとまず、保健室で休んでてください。クラスのみなさんと顔を合わせるのも気まずいでしょうし、放課後になったら荷物を取りに行ってください。みなさんには早めに帰宅するよう、促しますので」と言って保健室へと放り込まれた。
「先生が持ってきてくれた方が手っ取り早いと思うんだけどな……」
まあ、それはそれで目立ってしまうし、また余計な波風を立ててしまうと判断したのかもしれない。そうなのだとしたら、御空先生、実はそれなりに頭が切れる人なのだろうか。普段の言動がアレなだけに、機転の効く先生というものをどうにも想像しづらい。
「あー、話は聞いてるから。テキトーにくつろいでて良いよ。怪我した彼も、もう教室に戻ってるし。誰か利用者が来たら、私は職員室にいるからって伝えてくれ。それじゃ」
「え、ちょ」
そう言って養護教諭は保健室を去ってしまった。……相変わらず弛いなあ、この学校。
これで担任教師と養護教諭お墨付きの公認おサボりが成り立ってしまった。遠慮することはない、思い切り暇を満喫してやろうではないか。
……しかし、そうなると今日は米座アカネへのアプローチは難しい。せっかくそろそろ別の手を、と思っていたのだが、僕が教室に戻る頃には既に帰宅しているだろう。
つまり、
「久々に、米座アカネのことを考える必要のない、退屈な放課後になるってわけか」
思えばこの二ヶ月半、ずっと彼女のことを考えていた。もちろん、中学までにも幾度となく、彼女のことを意識したことはあった。しかし、高校生になって彼女の出席率が良くなってから、つまりは彼女の姿を目にする機会が増えてからは、ホントもう、四六時中彼女のことを考えていたように思える。
これはもう認めてしまっていいだろう。僕は、米座アカネのことが好きなのだ。彼女とラブコメをしようというのだから、当然な話ではあるが。
「なのに、僕はどうやら彼女に嫌われているらしい」
第一印象が最悪だった、というのを踏まえても、妙に僕に対し態度が刺々しいように思える。もちろん、そうなるよう仕組んだのは僕自身だ。なんでも良い、まずは僕に感情を抱け。それが最悪、嫌悪であっても構わない、と。
こうして考えると、接点を持てたとはいっても、僕らのラブコメは前途多難に過ぎる。
まあそれでも、
「楽しいから、良いか」
それからテキトーにゴロゴロして時間を潰し、放課後。
授業終了の鐘が鳴り、三十分が経った頃。そろそろみんな帰っただろうと教室へ赴く。もしかしたら吹奏楽部が既に陣取っているかもしれないが、うちのクラスに吹奏楽部はほとんどいなかったはずだし、鉢合わせても特に気まずいなんてことはない。
そうして軽い気持ちで教室の戸を開いたら、爆弾が待っていた。
「――米座アカネ?」
まるでこれから授業が始まるのを待つかのように、彼女は自分の席に我が物顔で座っていた。彼女は僕が来たことに気づくと、どんな感情を抱いているのか読めない表情で言った。
「美作カエデ。――アンタと、話がしたい」
◆
学校から駅へ向かう道中、僕らは無言だった。僕が先を歩き、米坂アカネが一定距離を置いて僕の後ろをついてくる。そうしてバス停に辿り着き、バスを待っている間でさえ無言。話がしたいと言ってきたのは彼女のはずなのに、頑なに会話を為そうとはしない。
「なあ、お前……」
「――――」
視線すら合わせず、ただただ一定距離を保ち続ける。そんな米座アカネに疑問を抱きながら、バスの到着を待っていた。
やがて帰りのバスがやってきて乗り込んで、やはり彼女は僕から離れた位置に座った。
いったい何がしたいのだ、米座アカネ。
僕らの家近くのバス停に辿り着き、バスは停車して、僕らは降りて。今度は米坂アカネが前だ。あと十数分も歩けば家に辿り着いてしまう。なのにいつまで経っても切り出さない。
「米坂アカネ、お前、話があるって――」
「昼休みのこと、聞いた」
彼女は突然立ち止まり、振り返った。鋭く細められた目は、猜疑の色に染まっている。
「クラスメイトを殴って鼻血出させて、指導されたって。なんでそんなことしたの?」
「え、……まさか、そんなこと聞くために、教室で待ってたってのか?」
彼女はまた表情を険しくし、
「アンタはそういうことをする人じゃないと思ってた。少なくとも、優しくて、どこか強引で、憎めない――そんな仮面を被ってた」
米座アカネは、なおも続ける。
「言ってしまえば好青年。爽やかってのとはちょっと違うけど、暴力を振るうような仮面じゃなかったのは事実。……アンタ、なんで殴ったの? 誰もが無意識に被ってる仮面を捨てなきゃいけないようなことがあったのなら……それは、何?」
あまりにも真剣な問いに、あろうことか僕は、気圧されていた。
気づけば僕は、その理由を語っていた。……理由と言うよりは、推測だけれど。
「たぶん、お前を貶されたからだと思う」
「――――、は?」
「何も知らない奴が、憶測だけでお前を見て、馬鹿にしたからだと思う」
「え、待って、は?」
「何を馬鹿なことを、って思うかもしれないけど……それが僕の――ボクの、地雷を踏み抜いたんだ」
◆
美作カエデという少年の話だ。
彼自身は何の変哲もない、一般的な健康優良児であった。しかし彼の周囲にある環境は、些か普通ではなかった。それもごくごく身近な――家庭という環境だ。
彼の両親は、女の子が生まれてほしかったらしい。それで男とも女とも取れる『カエデ』という名前を付け、まるで女の子に接するかのように育てたという。
女物の服を大量に買ってきては、彼を着せ替え人形のように扱い、ある意味でとことん可愛がっていた。それはやはりある意味で、両親の愛情だったのだ。
だが、その溺愛によって形成された彼の人格は、大きく歪んでしまった。
簡単に言えば、自身を『女の子』であると認識しながら育ってしまったのだ。物心ついてから数年、自分は女の子だと思い、幼稚園でも散々笑われた。小学校に入る頃には、自分が男であるという認識を得られたが、もはや手遅れだった。
しっかりと男性器があることを知りながら、体つきが女性とは明らかに違いながら、しかしてその精神性は女性のもの。そんな致命的な歪みを抱えながら彼は成長し――ある自衛策を取った。
それは、演じること。
「ボクは女――違う、僕は男だ」
男性の精神性を会得するため、様々な書物を読み漁ったり、漫画を読んで主人公の性格を真似てみたり、中学に上がる頃にはその演技も板につき、そこそこ平和な人生を過ごせていた。
だが。
それはあくまで演技でしかなく、やはりその精神性は女性のままだった。
彼は、恋をしてしまったのだ。当時仲の良かった――男子に。
その結末はどうであれ、その時期から美作カエデという人間の内に、二つの人格が生まれてしまった。
精神性が女性である、幼い頃からの彼と。
精神性が男性である、作られた彼と。
もはや演技ではない、幼い頃の彼とは別人とも呼べるような、それでいて彼が心底望んだ、男性としての自分。
そんな二面性を持った少年が、美作カエデだった。
◆
だから僕は、米坂アカネとラブコメをしなければならない。僕はボクとは違う。作られた紛い物、男子が好きなんてことはなく、きっちりと女子が好きで、一般的で普遍的な男子高校生。
ボクがそうであれと望んだ僕は、米坂アカネのことが好きでなければならない。
好きになる理由が、設定が、僕らの間にはいくらでもあるのだから。
「地雷って、どういうこと?」
「何度も言ってるけど、僕はお前とラブコメがしたいんだ。それはつまり、僕がお前のことを好きだってこと。好きな人のことを馬鹿にされたら、当然怒るだろう」
彼女は、どこか腑に落ちないという表情で僕を見上げていた。これ以上追求されても言えることはないので、話を切り替えることにした。
「ところで、お前の言う、仮面ってなんのことなんだ?」
「えぁ、そ、その……」
途端、それまで張り詰めていた糸が切れてしまったかのように、米座アカネは狼狽え始める。視線があちこちをさまよい、しまったとでも言いたげな雰囲気が流れ始めた。
「あ、あたしは……仮面、えと……ほら、猫を被るって言うでしょ。あれ、うん。あれのこと」
「ああ、なるほど。まあ確かに、仮面って表現しても間違いじゃないか」
そう頷いてみせると、彼女は露骨にホッとしたような表情をした。うん、コイツも案外わかりやすいな。
「さて、米坂アカネ。お前の話はそれで終わりか?」
「え? ああ、まあ……いろいろ納得できないところはあるけど、ひとまずは」
「なら僕の話を聞いてもらおう」
「げ」
なんとも嫌そうな顔をするものだ。そんなに僕の話を聞くのが嫌なのだろうか。
しかし、彼女は逃げ出せない。普段ならいざしらず、今日ばかりは彼女から話を持ちかけてきたのだ。であれば、こちらの話を聞いてもらうのが筋というもの。
「さっきはサラッと言ったけど、改めて――」
僕は、新たなアプローチを仕掛けることにした。
「好きだ。僕と、ラブコメをしてくれ」
「またそれかよっ!!」
ツッコまれてしまった。だがそのツッコミに僕は異を唱える。
「また、じゃない。今回のこれは告白だ、交際の申込みだ。今までの『友達になってください』的なニュアンスとは全然違う。好きだ、付き合ってくださいってやつなんだよ」
「なんでそれが全部『ラブコメしてくれ』で統一される!? っていうかなんなのラブコメって、その異常なまでのこだわりは何っ!?」
「今そんなことはどうでもいいッ!!」
「っ、……どうでもいいって、こだわってたのはアンタでしょ」
いやまったくもってその通りなのだが、問題はそこにない。
僕は今、米坂アカネに対し愛の告白をしたのだ。
「僕は、その返事を聞きたい」
「…………」
真剣に、彼女の目を真っ直ぐ見て、右手を差し出す。ドクン、ドクン、と鼓動が早くなるのを感じる。
彼女はその左手をゆっくり、ゆっくりと持ち上げて――
――パァンッ
僕の右手を、弾いた。
「断る。あたしはアンタとは付き合わない」
「……理由を聞かせてもらっても?」
「正直、理由ならいくらでもある。キモいとか、第一印象が最悪とか、ふざけてるようにしか見えないとか。でもそんなのはあんまり関係ないし――本当の理由も、教えない」
米座アカネはまた、その表情を険しくする。しかしこれまでのものとは決定的に違う、拒絶の意を示す強い目だった。
「その理由、アンタには語る価値すらない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます