第二章
びゅう、と本格的に強くなってきた風に煽られながら、ベンチに座る僕と
こういった状況をなんと言うのだったか。散々追い求め、しかし手に入らなかったものが気付けば目の前にあるこの状況。
「米座アカネ……」
「…………」
『根暗メガネ』などと揶揄される通りの、野暮ったく重苦しい黒髪。機能性を重視し、オシャレなど二の次だと言わんばかりのシンプルな眼鏡。その奥にて細められた、およそ良い印象は与えないその目つき。
キツく結ばれた口元は、先程のように何か言葉を発する気配はない。待って。ただその一言を残し、この場には静寂がもたらされる。
互いに睨み合うだけの時が過ぎ、ついに米座アカネが動いた。
重く、ゆったりと持ち上げられた右手。人差し指だけが伸ばされたソレは、僕が持つレジ袋へと向けられた。
「それ、返して」
どうやら僕がゴミだと思ったコレは、彼女のものらしい。見れば左手には一冊の本が抱えられており、僕が持つレジ袋はその本を包んでいたものであるらしい。
――さて、どうしたものか。
この二ヶ月、くすぶるしかなかった僕の恋愛脳が回転を始めた。
これを返すのは簡単だ。ほんのちょっとの距離、立ち上がり、近づいて、風に飛ばされないように手渡すだけ。……だけ。だから、それで終わってしまう。ようやく訪れた好機に、なにも出来ずに終わってしまうのでは笑われてしまう。……誰に?
真っ先に浮かんだのは、
「……これを返して欲しいか、米座アカネ」
「……?」
うわ、今「なんかキモいこと言い始めた」みたいな目をされた。目だけではない、表情全体で見ても、明らかに僕のことを厄介な奴と感じている。
「返すのはもちろん構わない。僕がこれを捨てようとしていたのを見ていただろう? つまり僕にとってこれは、ゴミと変わらないものだ。うん、まったくもって、返すことのできない理由が見当たらないわけだ。そうだろう?」
米座アカネは、非常にめんどくさそうに、こくりと頷いた。
「でも僕は返さない」
「……なんで」
視力の悪さゆえか、ただでさえ悪い目つきがさらに険しくなった。明らかに不機嫌になっている。それでいい。不機嫌になるということはつまり、僕に対して感情を抱いてくれているということにほかならない。
なんでもいい、まずはキッカケを作るのだ。僕という人間を好きになるキッカケの感情。それは最悪、好意の真逆――嫌悪であっても構わない。
「理由は簡単。――米座アカネ、僕はお前と、話がしたい」
「断る。それももう要らない。捨てるなりなんなり、好きにして」
――――。
チラリと、時計を確認するような仕草をした彼女は、忌々しげに舌打ちし、僕が座るベンチとは別のベンチに、それもかなり離れるようにして腰をかけた。
……ああ、そうか。米座アカネは僕の家の隣だった。これから帰るのならば、僕が乗るバスに乗るのは当然。
つまり、
「まだチャンスは失われてない……!」
手に持っていた本をゴソゴソと鞄に仕舞っていた彼女の耳に、僕の呟きが入ったのか。その動きをピタリと止め、僕の方を睨んできた。そんな彼女にニッコリと笑いかけてやる。
「……き、キモい」
溢れたのは、先程までの作られた態度ではなく、米座アカネという少女の割と素の部分から漏れ出た本音。それがわかってしまうほどに、本気の嫌悪を孕んだ呟きだった。流石にこれに対してノーダメージでいるのは厳しく、
「お、おう……ごめん」
こちらも割と素で謝ってしまった。
「……いやここで退いたら駄目だろ僕!! 米座アカネ! なんか微妙な空気になってしまったけど、ここから第二ラウンドだ! 覚悟して――」
――ブロロロロ……
無情にも鳴り響いたのは、僕らの家へと向かう、本数の少ないバスのエンジン音であった。
◆
当然のように僕から離れて座る米座アカネ。平日の昼下がりとはいえ、乗客も疎らに存在する車内でアプローチをかけるのは、僕の社会的な死を避けられない。
だが、できることはある。話しかけられなくても、視線を送り続けるのだ。そうして注視し続け、バス停を三つほど超えた辺りで米座アカネは僕の視線に気づいた。
「……? ……ッ!?」
一瞬だけ僕の方を向き、前へ向き直る。もう振り返ることは無いだろうが、十分だ。これで彼女は、車内であっても僕を意識せざるを得なくなった。
逃さないぞ、米座アカネ。二ヶ月、この時を二ヶ月待ったんだ。何が何でも僕という人間をお前の中に刻み込んでやる。
そして僕の家が近くなってきて、停車ボタンを――押さない。まだだ、まだ……ここだッ!!
米座アカネがその手を停車ボタンへと伸ばした瞬間、そこを狙いすまして、僕が一瞬早くボタンを押す。
――ピンポーン……次で停車します……
「っ!?」
もう振り返らないと思っていたが、流石に驚いたのだろう。目を見開きこちらを見てきたので、ほくそ笑んでやった。彼女は身震いしていた。
バスはその速度を段々と落とし、僕らの家の近所のバス停に停車した。立ち上がる米座アカネと僕。彼女が先に降り、その後に続いて僕が――「っ!!」「あ、待て!」降りた途端、彼女は走り出した!
「た、助け……ストーカー!!」
「おい待て、逸るな!! その単語を引っ張り出されたら僕は太刀打ちできなくなってしまうッ!!」
「自覚、してんのかよっ……なんなのホント! もう! キモい!!」
住宅街を全力疾走する男女。文字にすれば青春の一ページであるとも取れるが、逃げる彼女と追う僕の表情を見れば、それは大きな間違いであると理解するだろう。
――うん、この状況、もはや言い逃れ出来ないほどに、
「不審者だな、僕!!」
「改めて自覚しつつも決して足を止めないのはなんで!?」
なんでって、そりゃあ……僕がどれだけこの日を待ち侘びたと思っているんだ。
やがて、僕らの家が見えてきて……彼女は家を知られるとマズいとでも思ったのか、唐突に道を曲がり、家から離れるように駆けていった。
僕はと言えば、それを追うこと無く、真っ直ぐに家へと向かう。
いや、当然だろう。だって僕はストーカーでは無いのだから。なぜ愚直に彼女を追わなければならない?
「――どうせ、帰ってくるのに」
息を切らした彼女が、家の前に立つ僕の姿に絶望するのを見ながらの一言であった。
「どうした、米座アカネ。無駄に遠回りしたから疲れたのか?」
「はっ、はっ、はぁっ……!!」
幼稚園の記憶は定かではないが、小学校、中学校と米座アカネは引きこもりとして名を馳せていたのだ。それほど体力があるとは思えない。アレだけ走れば、当然息も上がるだろうし、回復するまでにも時間がかかる。つまり今なら、僕から逃げられないというわけだ。
「あ、あたしに……何する気……」
「何を、か。とりあえず、誤解を解かなくちゃいけない気がする。だから、話をしよう、米座アカネ」
「は、なし……?」
膝に手をつき、息を荒げながら頭を垂れるその姿は、正直そそられるものがある。だがそれを口にしてしまえば、いくら息が切れているとはいえどんな行動を起こすかわからない。まずはその、『逃げなきゃ』という意識を解消せねば。
「まずは自己紹介から。僕の名前は
言って、彼女の家の隣――僕の家を示す。
「え、あ、……お隣さん?」
「そうだ。断じてストーカーでは――」
「ストーキングするためだけに、隣に引っ越してきた……!?」
「僕の母親の話だと、もう二十年はここに住んでるらしいんだけどなぁ!!」
「……で、そのお隣さんが、何の用?」
流石に冗談だったのか、僕のツッコミを華麗に受け流す。いくらか息も整ってきたのか、その語調が強くなっていた。
「何の用、と具体的に聞かれると、悪いが曖昧な答えしか返せない。まあ僕の目的はひとまず置いといて、だ。もう長いことお隣さんだったのに、互いに自己紹介すらしてなかったんだ、それを済ませてからでも良いだろう?」
僕が何を言おうとしているのか、一応理解はできたはずだ。だが彼女はそれを拒む。
「なんでわざわざ、何の交流もないお隣さん相手に自己紹介しなくちゃならないわけ?」
「近所付き合い悪いなお前。引っ越した先でご近所さんに挨拶とか行かないタイプか?」
「第一印象が変質者の相手に、挨拶なんてするもんか」
言われてみれば正論である。
「まあ僕はお前の名前を知っているわけだし、別に良いか。いつか、変質者のレッテルが剥がれた時にでも改めて頼もう。……さて、それじゃあ本題だ、米座アカネ。話をしよう」
「さっきから話、話って……だから、なんなの? 接点の無かったお隣さん捕まえて、何の話をしようっての」
「ああ、まさしくそこが問題なんだ。接点が無い……そのせいで僕は、こんな申し出をしなくちゃならない」
僕とスッと、右手を差し出して。
「米座アカネ――僕と、ラブコメをしてくれ」
◆
翌日、一晩経てば収まるだろうと思っていた頬の痛みは依然続いており、じくじくと痛むそれに手を添えながらの登校と相成った。
そんな様子を
自分の席に着き、ふと米座アカネの席を見やる。そこに彼女の姿はなく、まるで中学時代を彷彿とさせるような、空席があるだけだった。
「……強烈だった」
昨日の出来事を思い出し、しみじみと呟く。
漫画でよく見る演出を、リアルに体験する貴重な機会を得た。しかしそれは、理想とは遠くかけ離れており、あまりにも現実味を帯びた痛さで、思わず昨日の光景がフラッシュバックする。
――真顔で、無言で、一切の容赦なく、米座アカネの右手が振るわれる。
要するにビンタだ。ある程度回復していたというのもあるだろうが、それにしたってやけに勢いのある平手打ちだった。痛みに悶絶する僕を見下ろす彼女の表情の、なんと冷たいことか。
彼女の表情からは、本当に一切の色が抜け落ちていた。
今にして思えば、昨日の僕は少々暴走していたのかもしれない。話しかけると決めてから二ヶ月、ずっと椎堂に邪魔され続け、溜まっていたフラストレーションが爆発した結果か。椎堂、お前はなんて邪魔な存在なんだ。
そうして試験後初めての通常授業、その始まりを告げる鐘の音を聞いた。
その日、米座アカネが教室の戸を開くことはなかった。
◆
「美作くん、お待ちかねのお仕事です」
放課後、笑顔を貼り付けて椎堂は僕の元へやってきた。
「お待ちかねって何がだ。出来ることなら僕は、仕事なんて無い方が良いんだけどな」
「それは私もだけど、ね。っていうかどうしたのほっぺ。今日一日、ずっと押さえてるけど」
「ああ、聞いてくると思った。これは巡り巡ってお前が原因なんだぞ?」
「え、なんで」
「お前のせいで溜まってた俺はそれを爆発させた」
「は、……もしかしてその相手って、米座さん?」
「よくわかったな」
途端、彼女の動きが止まった。クラスメイト達が帰宅したり、部活へ向かったり、談笑したり、そんなあからさまに放課後を匂わせる教室で、彼女の時間だけが止まっていた。
「わ、私のせいで溜まってたっていうのは……その、えっと、つまりエロトークだったり?」
まあ確かに、椎堂の逆セクハラもフラストレーションの一因ではある。頷くと、ようやく動き出したかと思った椎堂の動きがまた止まる。
「そ、そんな……私、そんなつもりじゃ……っ!?」
「まったく、おかげで米座アカネにはビンタされるし、一日経った今も依然痛い。まあ正直、冷静になれたという意味では助かったけれど」
「冷静にって……本当に、そういうことなんだね……わかった。うん、美作くん、今日の仕事は私一人でやるから安心して。しばらく話しかけないようにするから……」
「え、あ、椎堂? 急に何を――」
「何も言わないでッ!! 私は、私は……もう美作くんを、からかえないッ!!」
「はぁっ?」
そんな、意味の分からないことを叫びながら、椎堂は教室を走り去って行った。おそらくは、本当に一人で仕事をするために、担任である御空先生の元へ向かったのだろう。
――狙い通りだ。
「それにしても、あまりにも予想通りに動くもんだから拍子抜けだな。案外、椎堂はわかりやすい奴なのかもしれない」
何はともあれ、これで椎堂の邪魔は入らない。いいや、そもそも今日は米座アカネが学校に来ていないのだから、邪魔も何も無いだろうが……嬉しい誤算だったな、椎堂は言った。
『しばらく話しかけないようにするから』
椎堂はあれでいて、自分の言ったことには責任を持つタイプだ。嘘はつくけれど。そんな彼女が話しかけないと言ったのなら、たとえ委員会の仕事があったとしても僕に持ちかけてくることは無いだろう。しばらく、というのがどれくらいの期間かはわからないが、それなりに自由な時間を手に入れられた。
「……うん、これからも意識的に主語を排した会話をしていこうか。勝手に勘違いしてくれるし」
そして僕は、次はどんなアプローチを仕掛けようかと考えながら、帰路に着くのであった。
◆
職員室。
私は大声で担任の名を呼んだ。
「
「いますっ、いますからっ!! お願いだから三十路って呼ぶのやめてよぉ!! うわぁあああああああああああん!!」
「先生大変なんですってばぁ!! 美作くんが、美作くんが!」
「何ですか、先生の結婚相手の候補その一である彼がどうかしたんですかぁ!?」
「ええ、その私のからかいがいのある男子ナンバーワンであるところの彼が大変なんです! 彼、ケダモノになっちゃったんです!」
「え、ケダモノ!? そ、そんな……私、まだ準備が出来ていないのですけれど! とりあえず退職願書いた方が良いですか!?」
「落ち着きましょう、三十路先生! 退職願はまだです、先生は働いていないと、結婚しても家庭を維持できません! っていうかそうじゃなくて、問題は相手が米座さんってところで!」
「米座……アカネさん? え、どうしてそこで彼女の名前が……彼らは、交際されていたということですかッ!?」
「おそらく、その可能性は低いです。だって私、美作くんがあの子に話しかけようとする度邪魔してきましたから。そういう関係になる以前の問題だったと思います。けれど……美作くん、溜まってたって……私や先生のセクハラが、彼の男である部分を刺激して、刺激して、そりゃもう刺激して、ついには我慢できなくなって――」
「――お、襲ってしまったと!?」
「どうしましょう先生! 今日米坂さんが欠席したのも、そういったショックで……!!」
「と、とりあえず、米座さんのお宅に電話を――」
「こほん」
「!」
その咳払いは、職員室の入り口近くに席を持つ、老年の教師のものだった。彼は実に落ち着いた、柔和な笑みを浮かべながら言う。
「二人共、とりあえず、声のトーンを押さえましょう……?」
「はい、すみま――え、それだけで良いんですか?」
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