第一章
六月。
中間試験を終え、束の間の休息を得た梅雨真っ只中。しかし梅雨と言うには雨雲が空を覆う日は極めて少なく、教室の隅に設けられた傘立てには忘れ去られた傘がぎっしりと詰まっている。
快晴。
教室にてダラダラと談笑を始める生徒や、我先にと帰宅を始める生徒達の心境のように晴れ晴れとした空は、まるで僕の背を後押ししているかのようだ。
ふと、かの席を見やればそこには、帰宅準備を始めている
最低限整えられた身だしなみは他者の目を意識せず、己の世界に生きる孤高の存在を思わせる――が、それは果たして彼女が望んだ在り方なのか。
しかし僕にそんな彼女の都合は関係ない。これまでは様々な事情から彼女に声をかけられなかったが、今日こそは。そう意気込んで僕は席を立つ。
「なあ、米く――」
「
「え? あ、ああ」
見計らったかのように、同じクラスで同じ委員の女子から声をかけられた。
「……
「もちろん。この二週間、試験期間のせいで仕事が滞ってるんだからサ」
椎堂もまた、やれやれといった顔で頬を掻いている。面倒なのは一緒、という無言の圧力を感じる。
だが僕は今から、米座アカネに話しかけに――振り返り、席にはもちろんのこと、もはや教室にすら米座アカネの姿は無く、ああ、今日も駄目だったという諦観と共に返事をした。
「……わかったよ。僕は何をすればいい?」
「ん、じゃあまずは職員室に乗り込んで、
「なんでそんな物騒な言い回しをするんだお前!? あとその三十路先生って呼び方、絶対本人の前でするなよ! お前は女子だから良いけど、絡まれる僕の身にもなってみろ!!」
「良いじゃないの、三十路とはいえ見た目は若いんだし。結婚を迫られるのもそう悪くないんじゃない?」
「それは否定しない。しかしあの人の場合、もはや相手を選んでられないという強迫観念に縛られてるからか、超えちゃいけない一線をアッサリと超えてきそうで……」
あっはっは、そうかもねー。なんて、まるで他人事のように笑い飛ばす椎堂だが、いつも原因を作るのはこの女であった。
椎堂ユイ。僕と共に学級委員を請け負う女子生徒。このクラスで初めてのHRを行った際の各委員決めで、率先して学級委員に立候補した物好きだ。後になって聞いたのだが、その理由は、
「学級委員は基本、男女のペアになるよね。つまりは、男女が合法的に二人きりになれる夢のようなポジション……それが学級委員なのサ。そんなの、立候補しない手がない。私は今までもずっと学級委員に立候補してきたし、その度に一緒になった男子と二人きりの時間を過ごしてきたよ」
というものなのだが……だからどうした、とツッコんだ。男と二人きりの時間を過ごしたからなんだと言うのだ。そんな僕の切り返しに彼女はまたあっけらかんと笑い、
「愛を……育みました」
なんて言うものだから僕は早々にこの話題を切り上げた。ちなみに現在はフリーらしい。
つい二ヶ月前のことを思い出し、ジト目で椎堂のことを睨みながら喧騒に溢れる廊下を歩く。僕の視線に気づいた椎堂はニヤニヤと笑いながら、
「私に襲い掛かってきても、今なら試験後で溜まってたってことで許してあげるけど」
「誰が襲いかかるか痴女め。僕が求めているのは甘い青春、つまりはラブコメであって、十八禁展開じゃない」
「ラブコメの先にあるのはその十八禁展開だと思うよ私は。若い男女が交際するんだもの。漫画とかだと浅い表現で終わるけど、それって実はボカされてるだけじゃないのかな?」
「仮にそうだったとしても、お前は間違いなくラブコメを蔑ろにするだろう!? もちろん僕だって十八禁展開には大いに興味があるとも! 男子だからな! しかしそれはあくまで甘酸っぱい青春の上に成り立つもので、その過程をすっ飛ばしてエロ同人が如き猛スピードでエロに入るような浅い導入は望んでいないんだよ!!」
「可愛らしい恋愛願望の暴露をどうもありがとう。ところで美作くん、ここがどこかお忘れで?」
「あ、」
その一言でハッとする。僕たちはどこを歩いていた? 廊下だ。そしてその廊下には、試験が終わり、晴れやかなテンションで帰路に着こうとする生徒達がわんさかいた。そんな大衆の目がある中、僕は何を大声で叫んだのだろうか。
固まる僕の肩に、ポンと白くたおやかな手が乗せられた。
「若いって、イイネ!」
「三枚に降ろすぞ」
……客観的に見て、女子とこんな会話ができるほどに親しいというのは、一部の男子から見れば垂涎ものなのかもしれない。
だけど疲れるんだよなー、こいつの相手。少なくとも椎堂相手では、僕が望むラブコメというものをできる気がまったくしない。むしろ率先して邪魔している節がある。先程声を駆けてきたタイミングだって狙ってやっているのだろう。この二ヶ月、僕が米座アカネに対しアクションを起こす度に上手くいかなかったのは、いつだって椎堂の介入が原因だったのだから。
「……まあ冗談はさておかない」
「さておいてくれ」
「仕方ないなあ。……冗談はさておき、美作くんって純情って言葉がよく似合うよね。ロマンチストっていうか? いや、それも違うか。米座さんのことを狙う理由、かなりいい加減で不純だし」
「なあ椎堂。なんで俺は痴女と恋バナしてるんだ?」
「おっと美作くん。そろそろ私のコンクリートでできたハートにもね、ひびが入りますよ。っていうか露骨に話を逸らしに来たね」
バレている。
なぜ二ヶ月前の僕は、米座アカネを狙っている旨を椎堂に語ってしまったのか。いいや、米座アカネにお近づきになりたいというのは、クラスで浮いている彼女に声をかけようとした時点でわかってしまうのだから、仕方ないとして。その理由までべらべらと話すことも無かっただろうに。
「良いカッコしようとして、見事に墓穴を掘る美作くんはいっそ輝いて見えたね、ギャグ方面にサ」
「くっ……お前がそういうキャラだってわかってたら、僕だって良いカッコなんてしようと思わなかったよ」
忌々しげに呟く僕を見て、カラカラと笑う椎堂。コイツは人生楽しそうだな。
そんないつもの他愛ないやり取りを重ねているうちに、目的である職員室へと辿り着いた。椎堂がノックし、ガラガラという軽々しい音に反しやけに重たい雰囲気を放つその戸を開けた。
「失礼しまーす。みそじ「
言い終わると同時、スパーンという小気味いい音が椎堂の頭から聞こえた。というか、僕が椎堂の頭を叩いた音である。
「なあ椎堂、お前の頭は鳥頭か?」
「やだな、私の頭は猿頭だよ」
「その心は」
「年中発情期!」
スパーン。あまりにもな発言に、女子に手を上げているという意識すら無い。猿に失礼だろうが。
「み、御空先生なら今はいないよ……」
老年の先生が、やや引き攣った笑みを浮かべながら不在であることを教えてくれた。僕らのこんなやり取りも、二ヶ月にして相当に見てきたからか彼以外の教師の反応はほとんどない。あったとしても、またお前らか、という呆れを伴った冷たい視線のみであった。
「僕の平和な高校生活を返せ、椎堂」
「平和なんてナンセンス。起伏のない人生はつまらないぜ、少年よ」
誰目線だ。
「うーん、しっかし参ったなー。さっさと掲示物なり配布物受け取って今日の仕事終わらせたいんだけど」
「まあ、すぐに戻ってくると思うから……もう少ししたらまたおいで」
暗に「出て行ってくれ」と言われている気がしたが、気の所為だと思いたい。
◆
「他に仕事は無いのか?」
「んー、無いけど……あ、うそ、あるある。だから帰ろうとしないで」
まんまと騙された。俺に声をかけたとき、椎堂はなんと言っていたか。試験期間のせいで仕事が滞っている、だったか。コイツ、また僕の邪魔をするためだけに嘘をつきやがった。
「そりゃあ、溜まってるってのは嘘だったけど、決して美作くんのラブコメを邪魔しようというつもりは無くてね」
「嘘をついた理由までわざわざ教えてくれてありがとう。その悪意、ノー、センキュー」
「あー! だから帰らないで! お願い!」
帰ろうと早足になる僕の両肩を掴み、食い止めようとする椎堂を引き剥がさんと前のめりになる僕。あ、この体勢はマズい。どこかに掴まらないと、どちらかが力を緩めた時点で転んでしまう。
「だめ、疲れちゃった」
だが無情にも、そんな気の抜けた声と共に僕の両肩にかかっていた力は消え、僕は顔面からすっ転んでしまった。鈍い痛みを鼻に感じながら、背後から聞こえる「あちゃー」なんて声を聞き、脱力してしまった。
何やってんだろうな、僕は。
「ごめん、悪気は無かったんだけど……お、怒らないでっ?」
きっと椎堂は両手を合わせ、可愛らしく首でも傾げながら言っているのだろう。その光景はもう、何度も見たものだ。
僕だって大人だ、別にこれくらいで怒ったりはしないが……大きくため息を一つついた。
そこへ、
「だ、大丈夫ですか? 美作くん……」
どこかで聞いた声。この試験期間はあまり聞かなかったソレは、僕が所属する一年三組の担任のものだった。
廊下に突っ伏したまま顔を上げるとそこには、
――パンツ。
「どうして廊下で大の字になって伏せているのでしょうか……」
「どうして倒れている人の前でしゃがんでいるのでしょうか」
そこそこ短いスカートの中が見えてしまっている。
「え? ……ひ、きゃあ!?」
どうやら僕の視線がスカートの中に向けられていることに気づいたらしい。可愛らしい声を上げながら飛び退り、立ち上がった後にスカートを押さえる。
「み、美作くんはヘンタイなのですかっ!?」
「そっくりそのまま返して良いですか先生。――わざとだろ」
涙目になりながら立ち上がる僕の言葉に、先生――
相変わらず絶妙に短いスカート、相手がいるでもないのに派手な黒い下着を身に着け、チャンスと見れば相手に非を押し付けながら見せつけてくる。生き汚い。非常に生き汚い三十路の女が、そこにいた。
「正直エロいとかそういう次元超えてドン引きですよ」
「い、いや、わざとでは……美作くん、素直にごめんなさいできないのは、先生、良くないと思います。謝れないと言うのなら、責任を取ってください」
「ごめんなさい」
「うぅ……素直に謝ってくれて嬉しい先生と、責任を取ってもらえなくて悲しい私がいます……」
末期だろ。
行き遅れの女教師の相手もほどほどに、こちらの用事を切り出そうとして、
「ところで三十路先生、」
「うわぁあああああああああああん!!」
椎堂の重い一撃が御空先生をノックアウトした。
「なあ、椎堂。僕、もう帰っていいか」
「じゃあ私帰るね」
「ここで僕を置いていくとか貴様は鬼か!? いや先生、御空先生! 僕らただ配布物とか掲示物とか受け取りに来ただけなんでとっとと用事済ませて帰りたいんです先生! コントしに来たんじゃないんですけど先生!」
「さよならー」
「本当に帰るのかよお前ぇええええええええ――ッ!?」
◆
「はい、これ。掲示板に貼っておいてください……」
泣き腫らして真っ赤な目元を極力見ないようにしつつ、先生からプリントを受け取ろうと手を伸ばす。その際にグッと手を掴まれ、
「美作くん、私は覚悟が出来ていますので。ええ、法や道徳観なんてなんのその、私ならばその程度の壁、容易く超えてみせましょう」
「……失礼しまーす」
「ああっ! 待って美作くん、待っ――」
「……御空先生、少々声のトーンを落としましょうか」
「え、あ、すみま……あの、声のトーンを落とすだけでいいのですか?」
老年の先生に注意されている隙にそそくさと職員室を後にする。……この学校、いろいろ弛すぎやしないだろうか。
◆
掲示物は三枚。一つはそろそろ衣替えであることを知らせる旨のもの。最近は雨が少ないとはいえ、夏が近づくにつれどうしたって湿気が増し、ジメジメと暑い時期がやってくる。そろそろブレザーも厳しいし、ありがたい報せである。
残りは地域コンサートの案内と、秋に行われる文化祭に向けて実行委員を募るという内容のもの。
学級委員は元から実行委員として名を連ねることになっているため、この募集には気を回さなくていい。……しかし、有志で集まるとは思えないのだが。こういった募集はいつも虚しさを感じてしまう。
益体もないことを考えながら教室に足を踏み入れ、
「あれ」
「あ、おかえり」
そこに椎堂の姿があることに疑問を抱いた。
「帰ったんじゃなかったのか」
「さすがにそこまで人でなしじゃあ……まあ最初は本当に帰ろうとしたけどサ」
まったく悪びれずに言う椎堂の、屈託のない笑顔は本当に、何度も見た。それこそ米座アカネの顔以上に。
もう誰もが帰宅し、誰もいなくなった教室。まだ昼も超えたばかりだというのに、僕ら二人しかいない教室というのがいやに新鮮で、妙な空気が流れる。
僕は掲示物を張りながら口を開いた。
「なあ、椎堂。純粋に疑問なんだけど、」
「ふふふ、なんだい美作くん。私が答えられることならなんでも答えてやろうじゃないか」
そんな芝居がかった口調でおどけてみせる椎堂に、聞かなくてもいいことを聞いた。その疑問はきっと、誰か一人でも僕ら以外の人間が教室にいたのなら、おそらくは発せられることのなかった問いであった。
「僕が米座アカネに話しかけようとするのを邪魔するのは、なんでだ?」
「……ああ、えっと」
椎堂は呆気に取られたかのようにポカンとした後、
「……美作くんは、米座さんのこと、フルネームで呼ぶんだね?」
「……そういえばそうだな。思い返してみれば、僕はアイツのことを心の中でだってフルネームで呼んでる気がする。なんていうかな、米座アカネは米座アカネっていうか、それ以外の呼び方がしっくり来ないというか」
米座、米座さん、米座ちゃん……あるいはアカネ、アカネさん、アカネちゃん? どこか違和感を覚えてしまい、思わずフルネームになってしまう。
「その点、私のことは最初から『椎堂』って、苗字を呼び捨て。なんで? まだ私のこと、よく知らなかったはずなのに」
「なんでだろうな……滲み出るクズのオーラを、本能で感じていたんじゃないか?」
「ねえ待って。私ってそんな、こう……クズって思われてたの?」
「ん? 不満か? ならアバズレ」
「うん、それならオッケー」
「いや良くねえだろ!! お前の中での蔑称の基準はどうなってんだ!?」
いつも通りのボケとツッコミの応酬を終え、また掲示物を張り終え、ため息を一つつき、
「……またそうやって、話を逸らすんだな」
「あ、バレた? やー、美作くんも慣れて来たね」
そうやって話を逸らしたことを認めつつも、椎堂は語らない。どうして僕と米坂アカネのラブコメを邪魔するのか。
いいや、理由だけではない。椎堂はいつだって、己の真意を語らない。
僕らの関係は奇妙だ。単なるクラスメイト、単なる学級委員。学級委員の仕事がない限り椎堂からは話しかけてこないし、僕も話しかけない。だから、友達と呼ぶのもまた違う。
しかし、学級委員の仕事をダシにして僕に話しかけてくることもある。だがそれだけだ。決して、ただ僕に話しかけるためだけに、話しかけてくることはない。
それはいかなる理由からなのか。僕にはおおよそ見当もつかない。
「さ、仕事も終わったし帰ろうか、美作くん」
「……そうだな」
軽やかにスキップする椎堂の後ろ姿を追い、僕も教室を出る。
「ねえ、美作くん」
後ろ手に教室の戸を閉める僕に、椎堂は話しかけてくる。
「最初の、本当に最初は、邪魔する気なんて無かったって言ったら……信じてくれる?」
思い出される新学期二日目。HRで各委員が選出され、また、僕が初めて米坂アカネに声をかけようとした日。椎堂は今日と同じく、米座アカネへと声をかける僕を遮る形で立ちふさがった。
――いきなりだけど、学級委員の仕事があるみたい。
「……まあ、信じるよ」
僕には彼女の真意を知る術がない。であれば、彼女の言うことを鵜呑みにする他ないのだから。
「そっか」
椎堂の返事はそっけないもの。しかしどこか、彼女のスキップは少しばかり、高く跳ねているように見えた。
◆
「じゃあ私、こっちだから」
街の中心地から離れる方へと向かう僕とは反対方向、都会へと向かうバスに乗る椎堂を見送りつつ、僕が乗るべきバスを待つ。平日の昼下がり。生徒もほとんどが帰ったか遊びに行ったかで、バス停の存在する駅には人の影がほとんどない。随分とのんびりした時間を過ごしていたら、
「へぶっ」
顔面に何かが飛んできた。気づけば風がそこそこ強くなっていたのだ。して、顔に張り付いたそれを手に取り、何か汚いもので無いことを確認する。
それは、
「……レジ袋」
ゴミが飛んできたのだと理解した僕はウンザリして、それを捨てようとした。
「待って」
その声を聞かなければ、まず間違いなく捨てていたし、その声がもう少し遅ければ捨てたところを目撃され、後ろめたい気持ちになっていただろう。
その声はバス停のベンチに座る僕の右方向から聞こえてきた。レジ袋が飛んできたのと同じ方向だ。
――そこに立っていたのは、この二ヶ月、どうにも手が届かなかった人物。
米座アカネ、その人だった。
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