第19話 好きな人の、友達。
働いていると欠伸が出て、どうしようもなく眠いことがある。
そういう時に限って些細なミスが続いて自己嫌悪に陥ることもあるのだけれど、朗らかに笑って失敗をなかったことにしてくれるお客さんや、次から活かせばいい、完璧な人間などいないのだと宥めてくれる金城夫妻のおかげで私は今日も頑張ることができていた。
実は人間じゃないんですよ。
私、ねこだったんですよと話しても笑って受け止めてくれそうではあった。
頭の病院を紹介されるのは御免被るので、話すつもりはないけれど。
サバンナのライオンみたいに大きな欠伸をすると、目尻に涙が浮かんだ。お客さんから見えないように隠れて欠伸をしているけれど、眠そうな顔は表に出てしまっているようだ。今日も数人のお爺さんが私の体調を心配してくれた。
大丈夫です、寝るのが遅かっただけですと言い訳を重ねて他人からの追及を逃れる。実際のところ、私がよく眠れなかった理由の九割は同居人の夜羽にあるのだけれど、彼女に責任を求めても返ってくるのは困惑した表情くらいのものだろう。夜羽の高校時代からの友人と言う奴が、果たして一体どんな相手なのか。それが分からないから、悩ましい夜を過ごしていただけなのだから夜羽には一切の非がないのは火を見るより明らかである。
でも、気になるじゃないか。
夜羽と仲良しになって、彼女と一緒に高校時代を過ごした相手がどんな人だったのか。心配性を直したいと思っても、どうにも、上手くいかないものだった。
夜羽とその友人はお昼ご飯を食べてから、休憩がてら喫茶店にやって来るらしい。その時間帯は割合忙しいんだけど、と文句を言ってみた。店員が客とあまり懇意にしすぎるものではないよと窘められて、確かにその通りだなと思った。他の客が待っているのに、いつまでも店員が知り合いとのお喋りを続けているというのは美しくないだろう。
出来ることなら一生仕事をせずに養ってもらいたいと思っている私でも、やると決めたことはしっかりとやり遂げようと努力するのだ。努力した結果、達成できない目標からは目を逸らしてしまうのだけど。
うん。
ま、ともかく。
今は目の前の仕事をこなす方が先だった。お客さんの合間を縫って、配膳や片付けに勤しんでいた。当初は不愛想だと思われていた私の態度に関しては、男性客の誰かが「あれは不愛想ではない、クールなだけなのだ」と明言してくれたことによって悪評と呼べるようなものは立っていないようだった。火のないところに煙を立たせて、存在しない火事を演出することもある現代社会において珍しい善人との邂逅に恵まれたと言うことだろう。
実際のところ恥ずかしがっているだけ、性格がシャイで表情筋が硬直しているのだという話だったりもする。訂正しようにも面倒だし、笑うことが少ない人だと思われていても一向に構わないから問題なかったりするけれど、マルが眩いほどの笑顔でお客さんと接しているからなぁ。
私も、もうちょっとだけ、頑張らなくちゃいけないのだけれど。
今日の朝ご飯は、達郎さんが作ってくれた卵サンドとコーヒーだった。家でも軽くヨーグルトと果物を食べてきたのだけれど、いざ出勤してみたらマスターである達郎さんが私達の分も作ってくれていた。マヨネーズは少なめだったけれど、細かく刻んだタマネギの辛味が絶妙だった。ねこのままだったら一生食べられなかったのだろうなぁと、人間になって嬉しかったことがひとつ増えた。
毎日のようにお客さん――特に高齢の女性――からゆで卵を贈呈されていたマルは辟易しているだろうかと横目で確認したけれど、にっこにこの笑顔で卵サンドを頬張っていた。あと、飲み物はコーヒーじゃなくてココアだった。
マルは犬じゃなくて、ヘビが人間になったんじゃないかと最近になってから彼女の出自を疑い始めている。いや、疑ったところで、何かの証拠が出るわけでもないのだけど。
「お待たせしました、ホワイトソースをご注文の方は……」
両手に皿を持って店内を移動する、という行為は格好いいし飲食店の店員はそれが出来て当然みたいな風潮があるけれど、この喫茶店で提供する料理は片手で持ち運べるようなものではない。本当はカートに載せて運びたいくらいだけれど、流石に店内を移動するには不便なので二人分を盆に載せて配膳に向かうことにしていた。
スパゲッティにせよ、オムライスにせよ、若い女性や年配の方がひとりで食べるには多過ぎる量だった。何度もこの店に訪れたことがある人だと、迷わず量を減らすくらいのものである。
近所に大学があり、男子大学生が利用することも多いからと、達郎さんが張り切り過ぎているのが主な原因だと思う。彼の心意気のおかげで人気の店舗になっているというのもあるのだろうけれど、そりゃ確かに、他の飲食店へ逃げたくもなるよなぁ。
知り合いが大挙して訪れる上に、割と仕事量も多いし。
楽して稼ぐぜ! なんてのとは、まるで無縁の職場だった。
一息ついて、コップに注いだ水を煽る。落ち着いた茶色が基底の店内を、すっかり秋のものとなった日差しが柔らかく包み込んでいた。ご飯を食べた後、軽く遊んでから喫茶店へ訪れるとすれば夜羽達が来るのはまだ後になりそうだ。
店内は朝と違い、濃厚なミートスパゲッティの食欲を誘う香りに包まれている。私もお腹減ってきたなと思いつつ食事を終えた客がレジへ向かわないか眺めていてたら、見覚えのある男性が入店してきた。
小説男である。確か、本名はナカノというそうだ。
何があったのかは知らないけれど、今日は隣に女性を引き連れている。ナカノさんの態度から察するに、彼が好意を寄せている相手なのだろう。いつものカウンター隅の席は彼女に奪われ、渋々と言った体で彼はその横に腰を下ろした。
「店員さん」
マルの仕事なんだけどなぁと思いつつ、呼ばれたら断れないので彼の元へ向かうことにした。入店時は気付かなかったが、手に湿布を巻いていた。
「腱鞘炎ですか」
「あぁ、これ? 逆立ちの練習をしていたんだ」
「どうしてまた、そんなことを」
事の経緯を尋ねるついでに彼らの注文を聞く。リツというらしい女性はホットコーヒーを、ナカノさんはいつものアイスコーヒーを頼んできた。
「小説で上下逆さの世界を書きたかったものだから。で、腕を痛めた後にカメラの映像を逆さにして使えばいいことに気付いた」
「気にしないでね。この人、頭悪いから」
「リツだって人のこと言えない癖に」
「は? 何よ、文句あるの」
目の前の男女が私の
カウンターの向こうで痴話喧嘩を始めた二人は、傍から見ても幸せそうだった。
私には分からない、彼らだけの時間が流れている証左だった。
楽しそうだった。
私も夜羽と、あんな言い合いが出来たらいいのにと彼らのことを眺めていた。
私とマルが入れ替わりでお昼を食べた後、客の数が減り始める頃になってようやく夜羽が高校時代の同級生っを連れて店へとやって来た。遅かったじゃないかと文句を言うか迷ったけれど、特に必要もないだろう。
マルが注文を取り、私が彼女達の元へ運ぶ。
夜羽が連れていたのは、奇抜な格好をした女性だった。赤と緑の多色に染め分けた髪と赤い縁の珍妙なメガネを掛けているだけでも人目を引くと言うのに、彼女の服は黄色で統一されていた。
きっと、夜道でも目立つことだろう。
夜羽は色々と鈍いのか、それとも友人というからには彼女の奇抜な服装にも動じていないのか、気にした様子もなくお喋りを続けていた。私やマルを目で追いかけていることの多い男性客すら、夜羽の友人へと視線が奪われていた。
いや、いいけど。
あんまり変な恰好をして、夜羽の評判まで落とさないでくれよと冷や冷やしてしまった。好きな人の友達について知ることで、もっと近づくことが出来るかもしれないからと厨房横から彼女達の方向を嘗め回すように見つめていた。
他のお客さんから「なんだ、あの店員」と思われないよう時折仕事に戻ったりはしたけれど、それでも気になるものは仕方がない。想像していたのと違って、夜羽と彼女の関係は極々普通の友人であるようだった。えー、それはそれで安心できるような、不安になってしまうような。
どっちだよ、と自分でも分からない心を覗き込んで首を傾げる。
判断が難しいところだった。
聞き覚えのある名前だと思って顔を上げると、レジの前に立つ中年女性のグループが私の名前を呼んでいた。ラグではなくて、人間としての名前だった。いけないなぁ、仕事に集中しないと怒られてしまうぞと慌ててレジへ向かい、素早く作業を済ませてしまう。
好きな人の、友達か。
私はそもそも、夜羽と友達になれているのかなぁと考えて、少しだけ不安になってしまうのだった。
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