第18話 ホットケーキ

 時々、どうしようもない眠気に襲われる時期があった。意識は朧で呼吸は浅く、立っているのが辛くなって駅のベンチに座り込んでいたこともある。だけど家に帰れば私を飼っていたペット達が迎えてくれる。それほど追い込まれていた時期はほんの僅かだったけれど、彼女達は、私を確かに支えてくれる存在だったのだと思う。

 それが、人間となったペット達を家に引き留める理由の九割だ。

 超がつくほどの美少女だったり、天使みたいに可愛い女の子だから目の保養になるぜ、というのは、ほんの一割くらいしか私の心を閉めていないのであった。多分。そういうことにしておこう。

 今日も仕事を終えて、自分の部屋があるアパートへと帰ってきた。隅に埃の溜まった階段をてってこと上りながら、体力がついて来たことを実感、してみようと努力してみる。そこそこ元気よく階段を上れるようになった気がするけれど、特に変わったところがあるとは思えなかった。うーん、まだ走り足りないのだろうか。

 もうちょっと、頑張ってみようかな。

 仕事用の鞄の外ポケットを探って自宅の鍵を取り出し、玄関を勢いよく開ける。

 扉の向こうにはラグが体育座りをしていて、私が帰ったことを知って笑顔で抱き付いてきた。大体いつも通りで、予想していたままの行動だったから面食らったりはしない。しかしまぁ、全身に女性的な魅力を持ちながら未だ成長の余地を残した少女でもあるラグに抱き付かれて、家から出たら私よりも絶対にモテるだろうなぁと微かな嫉妬に胸が疼く。

 最初の内こそ彼女から向けられる高純度な愛情に困惑していたけれど、こうして毎日のようにハグを受けていると馴れが生じてきた。お尻を擦られたら彼女の脇腹を抓るし、あまり過度なスキンシップに移行するようなら叱咤するけれど、大体の行動は私の想像の範疇を飛び越えなくなっている。

 彼女と出会ってから、私は変わったと思う。

 人間的に成長したというよりは、大人の対応をわずかばかり身に着けたと考えるべきだろう。対応できる物事があまりにも限られているのは問題だけど、頬にちゅーされたくらいで動揺するような、初心すぎて物事から目を背けてしまう女ではなくなった。

 そういうことにしておきたい。私も、山川先輩のように立派な女性になりたいのだから。

 ……うーん、キスで動揺しなくなったことは、素直に喜ぶべきことなんだろうか。純粋無垢で可憐な少女という役どころは、まぁ近親者にマルがいるのだから私が担わなくてもいいのだろう。っていうか、普段から自分のキャラを把握して生きている人間なんて少ないだろうし。

 私の場合は不思議系キャラなのではなかろうか、と高校時代の友人がお菓子片手に分析していたのを思い出してみる。絶対にお前の方が不思議キャラだろ、と思いながら彼女の話を聞いていたことを懐かしく思った。

 放っておくとキスの位置を唇へと寄せてくるラグを引き剥がして部屋の中へ進むと、玄関からすぐの台所でマルが何かを準備していた。興味深いことに彼女は私が見たこともない服装をしていた。いつも通りの軽装の上から赤いエプロンを着用している。くぁわいかった。きゃわわだ。

「おかえりなさい、夜羽さん」

「…………」

「あの、どうして写真を撮ってるんです?」

「これは撮っておかねば。うん、撮影不可避だ」

「いや、説明になってないです」

「――マルが可愛いってことじゃないの」

 ラグがナイスな補足をしてくれたから、私は気にせずバシャバシャとスマホのカメラでマルを撮影することにした。大丈夫だって、ネットに上げたりはしないからサ!

 にこやかに写真を撮り続け、ようやく満足したところで一息ついた。話を聞くところによると、彼女マルが身に着けているエプロンはバイト先の喫茶店から頂いたものだそうだ。金城夫妻が喫茶店の収支を計算し終わっていない都合もあり、お給料が貰えるのはもう少し先になるようで、そのお詫びというか金城夫人の趣味によって押し付けられたものみたいだった。

 いや、押し付けって。ラグの表現には僅かばかりの敵愾心が滲んでいるような気がしてならなかった。

 ちなみにラグも同じデザインで背丈を彼女に合わせたものを貰ったらしい。ただし胸のサイズを考慮していなかったようで、貰ったエプロンを装着することによって胸が目立ってしまうそうだ。それは美人度でも肢体の艶やかさでも負けている私に対する嫌味なんだろうか? と勘繰ってみたけれど、彼女がそれほど高度な嫌がらせをするような子じゃないのは私がよく知っている。

 スーツを脱ぐ前に、台所にマルが何を広げていたのだろうとみてみると、彼女はホットケーキを作る準備をしているようだった。彼女達にいつか食べさせてあげようと買っておいたものを、本人達が見つけてしまったようだ。マルだけとは言え、エプロンを着用しているところから考えるに自分で作る気もあるらしい。

「ちょっと待っててね。あと、ラグはそこを動かないように」

 着替えを覗かないよう遠回しにラグへ警告をしてからスーツを着替えに向かった。

 晩御飯前だし、普段ならランニングをしにいくところ、なんだけど。

 今日くらい、大丈夫だよね。

 一人で放置しておくのも不安だったし、マルと一緒にホットケーキの材料を指差し確認していたら、ラグが私の方を見ていた。なんだろうと首を傾げていると、マルがラグの後ろへ回って、その肩へと手を乗せた。

「ラグちゃんもやる?」

「んー……まぁ、簡単なトコくらいは」

「そういうことなら、エプロンつけなきゃ。服、汚れるよ?」

「あれは……いいけど……」

 渋々といった顔でラグがエプロンを取りに向かい、帰ってきたときには既に着用を済ませていた。確かに彼女が言っていた通り、胸が普段よりも大きくなったように見える。胴に対して、胸のふくらみの方が外に出ているからだろうな。

 ひょっとすると、このエプロンは喫茶店を経営している金城ご夫妻の手作りなのかもしれない。身体に合わせようと横幅を決めた結果、彼女の胸がこうして悪目立ちしているのだろう。いやぁ、善意が裏目に出たわけだ。

 残念だな。しかし、これで未成年扱いなのか……本当にいいのか……?

 私が唸っていても、それを意に介していないように、マルはニコニコ笑顔でラグの手を取った。

「がんばろーね!」

「…………ん」

「よろしくお願いします。夜羽さん」

「おう、任せてくれい」

 作り方はインタネーットが教えてくれるぜ! 製品の裏に記載されている簡易レシピの方が正確だったりもするけどな! というか、レシピを見ないでホットケーキを作ったことがないから、確認しながらじゃないと分からないだけどね。

 三人で横並びになって、それぞれで作業を分担することに決めた。

 私とマルがホットケーキに乗せる生クリームを、ラグがホットケーキのタネを作る係になった。生クリームの方が簡単じゃないかと思うかもしれないけれど、ラグの方がお姉さんなんだし、妹よりも姉の方が頑張らなくちゃいけないのサ理論で何とかしてもらおうと思う。

 うん。

 ラグと私が一緒の作業をしたら進まない気がしたし、彼女達を一緒の組にしても作業が進まない気がしたので、これが順当な割り振りだと思う。生クリーム作るのは体力が必要だし、こっちに二人割り振ったのも、悪くない采配……だよね? 自信がなくなってきてしまったぞ。

 それじゃやるか、と砂糖やら牛乳やらをはかり始めた。マルもラグも量りの使い方を知らなくて、結局三人でやることになったのは初心者あるあるということにしておこう。

 ラグが卵を慎重に割っている頃、生クリーム組は量り終えて作業を開始した。砂糖を加えて、氷水を張ったボウルの上に別のボールを置いて作業をする。お菓子作りをすると、どうしても器具を多く使う必要があるのが面倒だ。作業の行える人が多くてもボウルがひとつしかないと、そのことがボトルネックになってしまうし。

 レシピを見ながら作るのは料理と違って、頻繁にするわけじゃないからだ。料理だって、最近真面目にやるくらいだし。マルやラグに、手抜きしたご飯を食べさせるのはどうにも気が引けるのだ。

 そういえば。

「思ったんだけどさ、マルって私への呼び方が安定しないよね」

「そうですかね」

「だよだよ。昨日は『おねーちゃん』って呼ばれた気がする」

 今朝の行ってきますの挨拶は、夜羽ちゃんだったし。

 さんとちゃんの違いは、意外と大きいものなのだ。

「マルにとっての私って、どういう人?」

「んー、と……」

 マルは生クリームをかき回す手を止めて、ぼぅっと空を見上げた。

 そこまで真面目に考えてくれなくてもいいのに、と思いつつラグへと視線を向けてみる。彼女は割った卵から、殻を取り除こうと真剣になっていた。うん、まずは割り方を丁寧に教えてあげるべきだったな。これは私のミスである。

 卵の殻は、ある程度勢いよく割ったほうがいい。割る時の勢いが弱いために複数回卵を叩かなくちゃならなくなったときの方が、卵の細かな破片が入ってしまう確率も高くなるような気がするのだ。

 だから、ちょっとくらいの失敗は恐れず、思いきりぶつけるのがいいのである。

「私は、ですね」

 ラグに釣られて私も卵の殻を目で追いかけていたら、マルの考えがまとまったようだ。話を促して、もっと親しい友人――家族、の方が適切かな――になれるように頑張ってみる。

「夜羽さんはご主人だし、お母さんだし、お姉ちゃんだし、友達です」

「ふむ」

「でもでも、どれかひとつに絞るのは、難しいんです」

「そっか。そうだよね」

 私にとっても、彼女達の存在はあいまいだ。元は猫と犬で、正真正銘の人間とは言い難い。今は人間と同じように暮らしているし、これからも生きていかなくてはいかない以上、私が彼女達の考え方の根底にあるものに触れておく必要はあるような気がするのだ。

 いや、名前の呼び方の話だったんだけど。

 どうした、私。

 ちょっと気になっただけだし、私はなんと呼ばれても構わない。あ、ご主人様だとか、マイスウィートレディとか、そういう呼び方だけは勘弁な!

「よし。それじゃ、マルの好きなように呼んでよ」

「うーん……それじゃ、夜羽さん、にします」

「りょーかい」

 にっかりと笑顔を向けあって、腕が疲れたら生クリームをかき回す係を交代する。そうして完成する頃になって、ようやくラグが、殻取りを終了した。時間が掛かり過ぎている気がするけれど、途中で逃げ回る殻を使って遊んでいたのを知っているから別段驚いたりもしていない。

 どうしてそこで猫っぽさを発揮するのだろう。普段からもっと、猫らしくのんびり優雅に構えていてくれてもいいと思うんだけどな。求愛行動が激し過ぎるのだ。

 ラグにホットケーキのタネをこねてもらった後、そのまま彼女に焼いてもらうことになった。一枚目は私がお手本を見せて、二枚目はラグの手を取ってホットケーキを作った。三枚目以降は一人でも出来るだろうか、と彼女の動向を見守る。フライパンを扱うのも初心者らしく、やっぱり上手くひっくり返せなかったけれど、そうした失敗を繰り返すうちにコツを掴むことだってあるのだ。

 逃げずに立ち向かう必要がある場合も、ものによっちゃあるのだった。

 ラグの背中側から手を回して、ホットケーキをひっくり返す手順を繰り返し教えていく。彼女はホットケーキよりも気になることがあったようだけど、何度か作業を繰り返すうちに集中力も高まって行ったようだった。

 荒い鼻息が収まっていく様子、動画か何かにして残しておきたいくらいである。

 一人二枚のホットケーキが焼けたところで材料もなくなったので、片付けも後回しにしてケーキを食べることにした。生クリームを山盛りにして、天才子役でもここまで輝かしい笑みは浮かべられないだろうという表情カオでホットケーキにパクつくマルに癒されつつ、雑談を交えながら楽しくホットケーキを食べた。晩御飯はどうしようと一瞬頭の中を真面目な私が通り過ぎたけれど、ホットケーキが晩御飯でもいいはずである。

 ふへへ、手抜きなまかわしてやったぜ。

 いいのか。いいのだ、たまには、楽をしなくっちゃな。

 ラグが焼いたホットケーキは生焼け部分も残っていて色々危なかったけれど、まぁ電子レンジに放り込めば問題ないし初心者にしては焼き色も綺麗についていたから、だから凹む必要はないんだぞと食べている間中慰めていた。マルのは奇跡的に生焼け部分がなかったようで、山盛りにした生クリームがレンジの中で溶けるなんて悲劇は起こらなかった。それだけでも、幸せということにしておこうじゃないか。

 みんな食べ終えて、片付けを始めたところでスマホがメールを受信した。差出人を確認すると高校の友人で、大学に通っている子だった。初年度から留年の危機に晒されたらしく、現在は真面目に勉強をしているはずだ。

 返信すると、彼女の方から電話が掛かってきた。

 ふむふむと彼女の話に頷いて、分かった、と電話を切った。

 興味津々に私をみつめていたラグが服の裾を引っ張って来た。

「何の話? ってか誰?」

「高校の友達。土日に遊ばないかーって」

「またか……夜羽は人気者だね」

 社会に出たら私よりも人気者になるはずのラグが、私の交友関係に対してむすっとしていた。今週末くらいは私と過ごそう、みたいに考えていたのかもしれない。バイト入ってたでしょ貴方、みたいなことは言わないけど。言ったら、無理矢理にでも休みを入れてきそうだ。

「でも、今週末は一緒にいられるかもしれないよ」

「どういうこと?」

「ラグとマルがどのくらい頑張っているか知っておきたいし、そういう予定にした」

「ふーん……えっ、マジ?」

「とーぜん。夜羽さんはいつでも本気だぜぃ」

「どういうことです?」

 頬に生クリームがついたマルが、小首をかしげながら皿を洗っていた。犬だった頃の癖が抜けないのか、顔を近づけて食べる癖があるのかな。その頬から拭った生クリームを舐めて、うん、やっぱ甘すぎたかなぁと感想を漏らす。

 マルの質問には、察しのいいラグが答えてくれた。

「夜羽がお店に来るってことでしょ。お客として」

 言いながら、ラグの指が私の頬に伸びてくる。……どうやら私も頬にクリームをつけていたようだ。もう成人していると言うのに、ちょっと恥ずかしいな。

「これ、化粧付きだぞ。まだ落としてないんだから、お腹壊すかもよ」

 当然の権利のように指先のクリームを舐めとったラグに注意を促してから私も片付けに集中しようとした。でも、すぐに、頭の中では別のことを考えてしまう。

 今週末も用事があって。

 退屈じゃない未来が待っていて。

 あぁ、こんなにも毎日が楽しくていいのだろうかと、私は内心浮足立ってしまうのであった。

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