第17話 おあそび

 喫茶店で働くようになってから、やっぱり働くのは好きじゃないな、と再認識するようになった。それでも日々の労働をこなすのは生活の為であり、夜羽と遊ぶためである。夜羽と一緒にあれが美味しい、これが楽しいと笑って過ごすためには、少しくらいの苦労や面倒を飲み込む努力をする必要があるのだった。

 そして、マルのこともある。

 彼女は働き始めてから今日に至るまで、仕事が辛くて投げ出したいなどと言う愚痴を一度も垂れたことがないように思う。盛大にこけて皿やカップを――といっても、幸運にも空のものばかりだったが――を床に落として割ってしまった後でさえも、彼女は僅かに凹んだだけですぐに立ち直った。私だったら、一週間くらいは下を向いて過ごすだろうな、と思うんだけど。

 でも、マルが頑張っているのだ。

 私の方が年上なのに、ヘタレてしまっては夜羽に顔向けができないじゃないか。

 自宅にいたところで炊事や洗濯等の家事がこなせるわけでもないし、将来は本当に夜羽のお嫁さんになって養ってもらいたいなどと考えている。それが、一番現実的な気がするのだ。

 女の子同士は結婚できないよとか、そういう話は多分無視しても構わないだろう。

 時代が変わればルールも変わる。変わらないのは、無能な施政者だけなのだ。

 それはさておき、今日も平日の昼間から大人のくせに喫茶店に入り浸る人が多くて首を傾げた。この喫茶店は、夜まで営業することはない。昼間は喫茶店で夜からはお洒落なバーに早変わりする……という店ではないのだ。実際のところ、やってやれなくはないのだろうが店主の金城夫妻は夜になると店のテーブルを贅沢に使ってボードゲームをやり始めたりするため、営業しようという意志は一切見受けられない。どうして遊び惚けていられるんだろう、まだ年金――若い頃に収めた税金によって年配者になっても働かずにお金を取得できるシステムがあると夜羽に聞いたことがある――を受け取っているな年齢には見えなかったのに。

 しかも、私達を雇って、自分たちは調理場の方で暇そうにしている。カウンター席に座る稀有な客相手のお喋りを楽しむくらいだろうか。私達が忙しくする必要はあるのかな、なんて考えてしまう辺りも、私が働きたくない理由のひとつにもなっているかもしれない。

 いや、理由なんてものは、後からでも沢山探せるのだけれど。

 お昼ご飯の時間が近くなると、店内に大学生の姿が多くなってきた。出所は一切不明なのだけれど、私やマルを目当てに訪れる客と言う者がいるらしい。英恵さんがそういうことを言っていた。マルはともかく、私に興味を持ってもらっても困るのだが。

 だって、夜羽という将来結婚する相手がいるし。妙な幻想を抱かせてしまっているのだとすると、流石に申し訳なくなってくる。あと、マルは話しかけられる機会が多くて健全な雰囲気が漂っているのに、私だけ目で追いかけられるものだから気分もよくない。話しかけられても気持ち悪いなと思ってしまうから多分、接客業には向いていないのだろうし、そもそも対人スキルが皆無なんだろうなと思う。

 オスが嫌いなだけか?

 いやいや、そんなわけないだろう。

 これまでに関わったことのある相手を思い浮かべえてみる。喫茶店の店主、達郎さん。この人は別に。夜羽の同僚、金城。好きじゃない。その飼い犬だった男、堂本。嫌い。その他、道ですれ違ったり晩御飯の買い出しに付き合ったときに出会った諸々の男共。あんまり好きじゃない。

 ふむ。

 ちょっと、考えるのはやめておこう。

 空いた皿を下げたり、水のなくなったピッチャーを交換したりと、割合忙しい時間を乗り越えると退屈な時間が訪れる。店内は賑やかに、楽しそうに談笑する声で溢れている。ただ、街中やショッピングモールを歩き回っているときに感じるような聴覚への圧迫感は存在しない。

 せせらぎのようなものだろう、と書物を読んで得た知識だけで世界を語ってみる。冬場になってからでもいいから夜羽と一緒に山へ行ってみたい。夜羽は最近、走るのにハマり始めているからなぁ。山登りしようぜと誘えば気楽にオーケーしてくれるかもしれない。私はまぁ、胸が揺れて痛いという理由で走らなくなったんだけど。腹回りのお肉に関しては、あんまり平べったくても貧血で倒れてしまうからという理由で誤魔化すことに決めた。

 実際、あんまり肉のない女性ってのは病気になりやすいみたいだし。要はバランスって奴だよねと、何も要約していないけれど思ってみる。ダメかな。

「ふぅ」

 調理場と店を繋ぐ通路上に、藤で出来た椅子を持ってきて座った。

 すぐ傍にカウンターがあって、一番近くの角の席に座っていたのは、最近よく見る青年だった。達郎さんと会話しているのを偶然に聞いていたことがあるけれど、彼は大学生らしい。確か二年生だったかな、将来目指している職業と現在の所属学部に大きな隔たりがあって、色々と悩んでるらしい。

 悩むのは若者の特権だよ、と達郎さんは慰めていた。

 だけど、悩みたくない人だっている。自分のやりたいことを、適切な環境でやり続けなければ壊れてしまう人だっているのである。

 今日も彼は、何かを熱心に書いていた。後ろからチラっと盗み見たことがあるけれど、彼のノートには大量のメモが書かれているのだ。何をしているのか皆目見当がつかないけれど、勉強でないことは確かだった。勉強するときは教科書なるものを大量に広げる必要がある、というのは他の大学生グループが幾度となく実践してみせてくれているので私も知っている。それをしておらず、ノートだけを広げてコツコツと何かを書き溜めている様子のこの青年は、明らかにおかしい人の部類だろう。

 そっと手元を覗き込むと彼は何かを書いていた。絵はほとんどないな? 数式や図の類も見当たらないし、何をしているんだろう。悶々としながら会計をしに向かい、戻ってくると彼はお手洗いにでも行っているのか、席にはノートだけが残されていた。

 開いているページをそっと覗きんで見る。文字は汚かったけれど、どうやらこれは小説のようだ。ミミキリショウジョ、というのがタイトルらしい。耳切少女と、横に漢字も書かれている。

 開かれているページをすべて読んだところで、彼が帰ってきた。

 ばっちり目が合って、そのまま逃げるわけにもいかず、「どうもこんにちは」と挨拶をした。さては私、間抜けだな? カウンター席には他の客もおらず、英恵さんは卵や牛乳の在庫がなくなったからと買いに行った。達郎さんは、注文が来るまでは新聞を読んでぼーっとしている。私達の会話に割り込んでくるものは、何もなかった。

「感心しないな」

「素直に謝ります。……ごめんなさい」

「いや、いいよ。誰かに読んでもらう為に、僕は小説を書いているわけだし」

「その割に文字が汚いわね」

 相対してみれば割合大人しそうな相手だったからと、読んでいる最中ずっと気になっていたことを告げてみる。彼は口を開けて笑い出した。何が面白かったのかを尋ねると、彼は申し訳なさそうに頬を掻いた。

「あんまり素直だったものだから、つい」

「素直だと何が面白いの?」

「全部だよ。嘘がないというのは、それだけで価値があるじゃないか」

「そういうものかしら」

「そういうものだよ」

 彼の言葉を反芻して、それが役立つものだろうかと首を傾げる。

 素直であることはいいことだ。だけど、素直すぎるのは悪いことだ。

 バランスをとって、常に中間にあることを意識しなければならないと、夜羽ならそういうことを言うだろう。だから彼が言っていることは間違っていないけれど、すべて正しいという風にも考えられない。

 だから、彼が笑ったのは。

 特に理由も意味なく、他人に害意はないと伝えるためだけの生理現象だと思うことにした。

 席を立って、どうぞどうぞと彼に元の場所を譲る。流れるようにその場を離れて逃げようとしたら、彼に呼び止められてしまった。チッ。

「あの、ごめん。ひとついいかな」

「何かしら」

「僕の小説、どうだった? 読んだんだろ、感想くらい聞かせてくれないか」

 読んだと言っても、開かれていたページくらいなんだけど。

 答えに窮して、期待の目を逸らしたくて、放った言葉は面倒なものだった。

「読めないところが多かったけど、字の文だけは面白いと思ったわ」

「ふぅむ」

「百点満点中、五十五点ってところね」

「そうか。パソコンで打ち直ししたら読んでくれるかな」

「打ち直し?」

「まぁ、紙に印刷することって考えてくれればいいよ」

「……小説に関しては素人なんだけど。それでも読んで欲しいわけ」

 小説以外も素人だけど。少なくとも、何かに精通しているわけじゃない。詳しいのは、夜羽のことくらいだろうか。それでも、彼は楽しそうに笑った。

「大丈夫だよ。もし暇があったらでいいんだけど、どうかな」

「そりゃ、構わないけれど……」

 その約束、数日後でも忘れていたりしないだろうか。小説は面白いけれど、夜羽よりも好きなわけじゃない。そして、好きでもないものに対する興味と言うものは、往々にして薄れていくのが早いものなのだ。だから彼が数日後に原稿を持ってきたとして、それに対して正しく反応できる自信はないのであった。

 名前も知らない彼と簡素な約束をした後、私は仕事に忙殺されることとなった。お昼ご飯の時間帯になったから、近所のおじさんやおばさんがオムライスを求めて店を次々に訪れてくる。マルとかわりばんこで休憩を取りながら、達郎さんが作ってくれたミートスパゲッティを食べた。これ、ソースが跳ねて制服を汚してしまいそうだなぁとか思いつつ食べた。

 私は別に問題なしだったけれど、ドジなマルがどうなったか、想像に難くないので色々と察して欲しい。

 着替えはあるからいいのだけれど、英恵さんの手前、あんまり着替えたくないなぁと私は思っている。マルは気にしていないみたいだけど、好きでもない相手から好意を向けられるのって……いや、私と夜羽の場合は運命共同体だし、関係ないんだけど。好きじゃなくても、いつの間にか好きになってるパターンのアレだ。少女漫画とかで、よく描かれている奴である。

 スパゲティを半分ほど食べたところで一度レジへと会計に走り、あとはマルがピッチャーの交換やら何やらをすればいいな、と思えるようになってからカウンターの方へと戻ってきた。冷めてしまったスパゲティを食べるために、先程話をした青年と差し向かいになる位置に座った。

 この位置からなら、店内の様子を窺うことが出来る。マルが粗相をしても助けに行けるし、手が足りていないなら食べるのを中断して向かえばいい。それと、目の前にいる青年くらいなら、自由に話しかけることが出来そうだった。

 ……どうして、この人となら話が出来るのだろう。まぁ、話していて嫌な気持ちにならない相手が貴重だからの一言に尽きるな。そして、どうしてそう思うのかと言えば、彼が社会不適格者な気がするからである。

 似た相手は警戒す必要がないもの。何を考えているか、分かりやすいから。

「コーヒーだけでお腹好かないの」

 昼時でも追加注文をすることなく、黙々と小説を書き続けている彼に尋ねてみる。顔を上げずに答えた彼の声は、少しだけ沈んでいた。

「空くけど、今日は財布が寒くてね」

「ふーん。……家で食べれば?」

「いいや、まだ帰りたくないんだ。家族が煩くて小説が書けないんだ」

「ここも静かとは言えない気がするけど」

 店には客が増え、談笑する声も響いている。オムライスやらスパゲッティを食べる楽し気な音が店内に広がっていた。この環境を静かと言うのなら、私達が暮らすアパートは常時無音ということになるだろう。

 賑やかじゃないか、と彼に訊き返してみる。

「心が落ち着くんだよ」

 顔をあげた彼は寂しい顔をしていた。一人でいることに慣れてしまった、ヨハネみたいな顔だ。頑張れ、と無責任な応援はできない。お昼を食べ終えた私はカウンターの向こうに回ると彼の背中に手を当てた。細い体だったけれど、ヨハネよりも肩幅がありそうだ。

「ごゆっくり」

 それだけ言って仕事に戻ることにした。

 レジと、客が去ったテーブルの片付けを繰り返しているとマルに肩を突かれた。

 どうしたのだろうと顔を向けると、彼女は上目遣いに私を見つめてきた。

「今日も一緒に帰ろうね」

「……いつもと同じじゃん?」

「えへへ。でも、約束って大事ですし」

「はいはい。いいよ。うん、約束する」

 マルと、他の客の前で指切りをする。にこやかに笑う彼女が、どうしてこんなことをするのか。私にはよく分からないから、約束という言葉の重みだけ、覚えておくことにした。

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