第15話 こっち向いて。

 私のご主人様は、格好いい人だろうか。

 自分に尋ねてみて、返ってきた言葉はノーだった。新堂夜羽という人間を好きということは出来るけれど、それを理由にすべてを許容できるわけではないと言うことである。例えば彼女が私達を置いて、知らない職場の女性と遊びに行くという話を聞いたとき、だったら私とも二人きりでデートしてくれてもいいじゃないかと揉めたりもした。

 嫉妬というか、独占欲というか。

 それともこれは、自己顕示欲と言うものだろうか。

「分からにゃいなぁ」

「……急にどうしたの?」

「夜羽に甘えたくなったの」

 ひしっ、と彼女の細い身体を抱く腕に力を込める。出会った頃の彼女なら条件反射の如く私を突き返してきただろうけれど、最近は頭を撫でてくれるほどに私に甘くなりつつある。

 完璧だ。

 このまま、ぐずぐずと関係を深みに嵌めていきたい。

「今日もバイトかね」

「そうだよ。でも、まだ時間はあるし」

 もうちょっと甘えさせて、と彼女の胸に頬を寄せた。流石に許されなかった。耳を引っ張られて、ちょっときつめのお仕置きが飛んでくる。でも、それも気持ちいいのだ。好きな人と関われるなら、それだけで私は幸せになれるのであった。

 今日は何日だっけとカレンダーを見て、取り敢えずバイトがあることだけを確認してから夜羽に向き直った。彼女は会社の先輩との予定とやらが楽しみなのか、金城が休んでいたことが気掛かりなのか、なんとも判別のつかない顔をしていた。単純に何も考えていないとするなら、これは寝惚けている顔なのだろう。

 でも、ちょっと、何かに悩んでいる顔をしていた。

 ……そのうち、話してくれるだろうか。

 それはさておき、私は夜羽と愛の生活を楽しむことにした。バイト先の喫茶店へ向かうにも、まだまだ時間が有り余っているのだ。夜羽も今日は会社の方から有給を消化するように言われているらしく、丸一日寝ると張り切っていた。マルが眠っている今、幼子には見せられないような刺激の強いことをしても問題ないだろうと夜這いならぬ朝這いみたいなことをしてみたのだけれど、ま、結果はこの通りである。

 特に何も、進展と呼べるものはないのであった。

「夜羽ー」

「ん、起きてるよ」

「眠い?」

「昨日は、夜中まで本を読んでいたからね」

 そういえば、そんなこともしていたような。私はバイトで疲れて早めに寝てしまったから覚えていないけれど。早寝したおかけで夜羽の寝顔をたっぷりと眺められたのだ、それはそれとして喜んでおこう。

 さて。

 惚けている相手には何をしてもバレないだろう。

「ちゅー」

「やめんか」

 そう思って色々と試してみてはいるのだけれど、彼女は意外とガードの硬い女性なのであった。ほっぺにキスをするくらい許してくれてもいいと思うし、私は夜羽のペットであり家族であり将来のお嫁さんなのだから未来の確約分を先取りしていると言うことにしておいてもらいたいのだが、どうにも彼女には未来視の才能がないらしかった。私だって未来が見えるわけじゃないし、人間になってからは明日の生活とやらの心配をしなくちゃいけない分だけ気苦労が増えて大変なのだ。生活に潤いを与えるためにも、一緒にお風呂に入ってくれる程度のことはして貰ってもいいような気がするのだけれど。

 世の中、ままならないものである。

 キスしようとすると怒られるので、彼女に正面からしっかりと抱き付いて頬に頬をすり寄せることにした。眠いこともあってか、ろくに抵抗をしてこない。彼女が眠っている間に私は下着を脱いで、素肌の上にパジャマを着ているのだ。

 まだ冬用の服に着替えていないこともあって、夜羽の肢体の柔らかさや温かさが直に伝わってくるような気さえしてくる。裸同然の付き合いというか、これはもう素っ裸で抱き合っているのと変わりないのではなかろうか。

 乱れそうになる呼吸を整えながらもう一度、彼女を抱く腕に力を込める。彼女の腕が私の腰に回された。尾てい骨の上に置かれた手が少し動くだけで、私の腰は浮きそうになった。これは、そういうことか。そういうことで、いいんだよね?

 深呼吸をして、目を閉じる。聞こえてくるのは夜羽の落ち着いた呼吸と、私の心臓がドクドクと脈打つ音ばかりだった。ゆっくりと目を見開いて、眼前にいる女性が私の好きな人であることを再確認する。決して私は彼女のことを格好いいと思っているわけじゃない。男性の代替品として好きなわけじゃなくて、人として好きなのである。猫だった頃には絶対に果たせなかっただろうことをすることが出来たなら、私はひょっとすると、猫に戻ってしまうかもしれない。

 でも、それでも、いいと思えた。

 好きな人と二人、ベッドの上。

 密着した肌から伝わる熱を、夜羽に伝えたくて。

「覚悟!」

 夜羽の服を脱がして既成事実……女の子同士で事実が出来るのか? 愛があればどうとでもなるだろうと、とにかく証拠作りに勤しむことにした。へっへ、夜羽が泣いて喚こうと止めてあげたりなんかしないぜ。最終的には夜羽の方から私に甘えてくるくらいにはドッロドロに彼女の心をほだすつもりだ。

 お腹の下がきゅっ、とした。

 私が彼女のパジャマを捲ろうと手を掛けたところでパッチリと彼女は目を覚まし、私と見つめ合った。人間の瞳には小宇宙が広がっていることを、この時、私は知ったのだった。

 そして私の手をがっしりと掴むと、ようやく寝惚けていた眼に精気が宿り始めた。

 ふむ。

 これはちょっと、不味いダメかもしれない。

「お、おはよう」

「おはようラグ。なんかね、今日も変な夢を見ていたような気がするの」

「そうなんだ」

「眠いなー、眠いなーと思いつつ微睡んでいたら、同居人の女の子に服を脱がされそうになった夢なんだけど」

 夜羽は完全に理解しているようだった。これまで見せたことのない三白眼で私を睨み付けている。……ちょっとだけ、格好よくて胸がぎゅっとした。新しい魅力発見である。

 ここまで来たのだ。

 あとは服を脱がせて肉体に宿った本能に従って夜羽と愛の営みをするだけである。その壁を一度超えてしまったら彼女も私に対する態度を改めると言うか、絶対に私のことを意識せざるを得なくなるだろう。

 誘拐犯や暴力を振るう加害者に対して、被害者が同情や好意とすら呼べる感情を抱いてしまうストックホルム症候群だとしても、それで夜羽が私のことを好きになってくれるのなら構わない。

 マンセ、サラギー愛の営みよ、万歳

 突撃した私を待っていたのは、呆れたような夜羽の苦笑いと、優しくも激しい拒絶であった。

「マル。カモン」

「はいな!」

 呼びかけに応じて現れたのは、つい数分前まで寝ていたはずのマルだった。

 なんて間の悪い奴だ。夜羽にとっては救いの神に等しい存在なのかもしれないが、私にとってみれば数年来の願望が成就する瞬間に現れた悪魔みたいなものである。その小柄な身体を引き剥がして、再び夜羽のマウントポジションを確保すべく全身全霊を向ける。

 だが、脇に手を入れられるとこそばゆさに全身から力が抜けて呆気なく夜羽から離されてしまったのだった。くそぅ、バイト先でおばさんに悪戯されなければ、この弱点がマルに露呈することもなかったはずなのに……。

 ぐぬぬ。

「どこから飛んできたのよ」

「五分くらい前に起きました」

 おはよう、とマルは朗らかに笑っている。悪意があって邪魔したわけではないと知っていても、どうしてもムカつくことがある。私だって、心はあるのだ。

 マルのぷにぷにした頬をつまんで苛立つ気持ちを解消していると、私も夜羽に頬を抓られてしまった。

「こら、ラグ。マルに酷いことしないの」

「一番酷いことしたのは夜羽じゃんか。マルもそれに協力したんだから同罪だよ」

「それはラグが襲ってきたからでしょ」

 私達のは正当防衛だから、と夜羽は口を尖らせた。私がマルから手を離すと、夜羽は溜息を吐きながら私を抱きしめた。突然のことに驚いたけれど、なんとなく、懐かしい気持ちになった。

 がしゃがしゃ頭を撫でられてしまった。私が猫だった頃、夜羽の定めたルールを守らなかったときによくやられていたことだ。まさか人間になってからもやられるとは思わなかったけれど、彼女にとっては罰の一種なのだろうか。

 私にとっては、なんというか。

 罪悪感は覚えるけれど、ご褒美みたいなものにしか思えなかった。

 よはね、やわらかい……と完全にバカみたいなことを考えながら彼女に抱き締められていると、お尻に蠢くものがあった。くすぐったくて目を向けると、マルが私のお尻に指を這わせているみたいんだった。

「……マル、何してるの」

 さわさわと彼、女の指が私のお尻の上を走り回っている。

 何をしているんだ、この子は。

 マルは悪びれる様子もなく、笑って答えた。

「いや、年頃の乙女ってどんな身体をしているのかなって」

「マルも年頃の乙女なのに?」

「自分と他人は違います。あと、純粋にラグちゃんのお尻に興味があって」

「意味が分かんないんだけど」

「うん、傍から聞いていた私にもマルの言っていることは分かんないぞ」

 珍しく夜羽が同意してくれた。そうかなー、と間延びした声で返事をしながらもマルは私のお尻から手を離さない。夜羽に抱き締められている間は動きたくないし、振り払うほどのことではないのだけれど、ぞわぞわした何かが背中を上ってくる。決して嫌な感情ではないけれど、マル相手に覚えるべきものでもないような気がした。

「お尻なんて、別に誰も変わんない気がするんだけどな」

 言いながら、夜羽も私のお尻に手を伸ばしてきた。そんなことするなら私だって毎日夜羽の尻触るからとか、そういうことを考えたけれど、彼女に触れられた瞬間に変な妄想は全部吹き飛んだ。

 ゾクっとした。

 マルに触られた時の数倍、ゾクっとした。

 夜羽の指が私のお尻を撫でただけで、筋肉が引き締まって何やら言語化できない気持ちが胸から溢れ出してくる。変な声が喉の奥から漏れそうになって、慌てて唇をかまなくてはいけないほどだった。

 マルと違って、すぐに夜羽の手は止まってしまう。

 それが、すごく残念だった。

「……もっかい」

「ん?」

「もっかい、さわって?」

 夜羽に縋ると、彼女は今日一日で一番微妙な顔になった。笑っているような困っているような、脳が理解を放棄したような顔だった。相も変わらずマルが私のお尻を突いているが、それでは何も感じない。

 私は、夜羽にお尻を触って欲しいのである。

 夜羽に改めて抱き付いて、上目遣いに潤んだ瞳で見つめてみる。

 彼女は露骨に慌て出した。

「ちょ、ちょっと。そろそろバイトの時間でしょ? はやく準備しないと」

「大丈夫。まだ時間はある」

「いや、でも。マルも何時いつまで触ってるの」

「えへへ、なんか触り心地がよくて」

「それじゃ、夜羽。バイトから帰って来たらマッサージをして欲しいんだけど」

 どうして、という顔をされた。別にやましい理由だけじゃないぞ。それなりに真面目な理由だってあったりするのだ。後付けとか言われると凹むけど。

「胸が大きいと肩にも負担が掛かるの。夜羽だって、何日か前にマルに肩揉みさせてたじゃん」

「えー。ヤダよ」

 嫌よ嫌よと拒否され続けて、流石の私ラブ・マシーンも心が折れた。

 パッキリと、折れる音が聞こえたのだ。

「いいじゃんいいじゃん、私にもちょっとくらい優しくしてくれたって」

 結局、今回もハグ止まりだったことに悲しみを覚えて、ふと涙が零れた。

 泣くほどのことじゃないし、ハグしてくれただけでも嬉しいのだけれど、拒絶も重なれば重荷になる。涙は重力に引き寄せられて、私の目尻から零れ落ちていくのだ。夜羽に抱き付く力も弱まって、そのまま夜羽が寝ていた布団へと潜り込んだ。いい匂いはするけれど、むしろ今は、淡い恋心が胸に突き刺さる。

「あー、ラグちゃん泣いちゃった」

「ちょっと、えっ。私のせい?」

のせいです。間違いないです」

「でも、元はと言えばラグが――」

 布団の外で、マルと夜羽が言い合いをしていた。夜羽が、マルに押されているようだった。言葉によるやり取りが数分続いた後、マルの一言で終局を迎えた。

「もー……分かったよ。ラグ、聞いてる?」

 布団を揺すられて、そっと、隙間から顔を出す。

 夜羽がベッド脇にしゃがみこんで、私の方を見ていた。

「マッサージとか、真面目な奴ならやってあげる。だけど、前も言ったと思うけど、あんまり行き過ぎたことはしないで。私は嫁入り前の娘なんだから」

「お嫁に行く予定はあるの?」

「ふっふ、私はまだ二十歳過ぎだぞ。未来がある」

 ないでしょ。夜羽は私のお婿よめさんになるのだから。

 どう応えればいいのか迷って、視線は彼女の目を避ける。向いた先には彼女の身体があった。抱き付いたり離れたりを繰り返している間に一番上のボタンが外れたのか、パジャマの隙間から下着が覗いていた。離れてみなければ分からないこともあるものだと――こういうことばかりを考えているから、私は彼女から好きになって貰えないのかもしれなかった。

「わかった。今日は許す」

「うむ」

「あと、キスしてくれたら明日以降の喧嘩も全部許す」

「意味わかんない。ほら、バイトの準備! マルもだよ、遅刻しないようにね」

 呼びかけられたマルは素早く着替えに向かった。むぅ、確かにこれ以上ぐだぐだしているわけにもいかないし、今日はここまでか。

 数時間後の幸せを確定させたことによって涙も乾いた私は、バイトがなければ幸せだったのに、と働かなければ生き残れない現代社会に怨みをこぼすのであった。

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