第14話 ユリゴコロ

「新堂さん。大丈夫?」

「はい。生きてますよ」

「それ、最低限の幸せって感じね……」

 心配そうに私を眺めている山川先輩から、今日もお手製のクッキーを貰った。それを励みに体を起こそうと奮起してみたけれど、無理だった。ビキビキと悲鳴を上げる筋肉に耐えられず、再び身体を机に突っ伏す破目になってしまった。

 くそぅ。座り心地の完璧とは言い難い会社の椅子が、これほど憎くなった日もないぜ。金城さんも会社を休んでいるし、体調がよくないと心まで簡単に折れてしまうみたいた。

 今日は、ランニングを始めて三日目である。昨日まで何ともなかったのに、朝起きた瞬間全身が急に筋肉痛となった。山川先輩と話をするために首をくるりと回しただけでも、腰回りや太腿、あとは背中がめっちゃ痛い。にあった筋肉の部位と名称一覧を使って調べた結果、私の背中で悲鳴を上げているのは広背筋という部分らしかった。人体でも比較的サイズの大きな部位の一部ということで、身体を動かそうと思ったら広背筋なしには動けないレベルみたいだ。

 知らんがな。

 私は筋肉をつけて痩せたいだけで、筋肉痛とは無縁の生活を送りたい。

 うぐっ、また広背筋に痛みが走った。しばらく動きたくないよ。身体をほぐすために散歩くらいはするだろうけれど、二日はランニングを諦める必要があるだろう。諦めないと、本当に筋肉が裂けて死ぬかもしれない。

 うっ、また痛みが。

「ホントに大丈夫? 湿布買ってこようか?」

「ふふ、実は既に貼ってあるんですよ。背中にだけ」

「そう。それなら、いいのだけれど」

「抜かりないですって」

 嘘である。

 効能のはっきりした湿布ほど匂いがするし、職場に着けていくのはなんとなく恥ずかしかったのだ。小中学校の頃、怪我をして包帯を巻いていくと必ずクラスの誰かが笑ってくるという現象に似たことが大人になっても起こるのではないかと、そういうことを心配していたのだ。結果、なんであの人は急に悲鳴を上げるのかと距離を置かれる結果になった。

 うーん、本末転倒である。

 そろり身体を起こして、赤ペンを握る。

 よし、午後の仕事に向かうか!

「……無理だ。もうちょっとだけ休もう」

「そうした方がいいわよ。身体は資本なんだし、大切にしなくちゃ」

 そういって私を心配そうに見つめているのは同じ職場で働く山川先輩だけだった。やはり他の社員さんたちは、遠巻きに私達を眺めているだけで近づいてこない。よく金城さんに話しかけに言っている女性社員さんが悲鳴を上げる私を見兼ねて、飴ちゃんをくれた他はいつも通りである。

 私には人望がないのだ。うーん、悲しいかな。

「それでも仕事は休めないし。会社の仕事だし」

「校正は家に持ち帰っても出来るじゃない」

「持ち帰りは禁止じゃないんですか?」

「そうだけど、バレなきゃ問題じゃないのよ。気張って倒れるよりマシだから」

 んむむ、でもなぁ。

 金城さんといい山川先輩といい、この会社の人達は自分から服務規程を突き破ってく傾向があるみたいだ。いい子ちゃんにしている私とは大違いである。

 最近の山川先輩は以前私が担当していた、作者が編集のどちらかが制作を諦めたとしか思えない作品の再校を担当しているみたいだった。手には以前私が制作した資料と、前回比一五〇パーセントの厚みになった小説を携えていた。果たして何処の誰か凄まじいまでの執念でもってあの小説を書き上げようとしているのか、少しばかり興味が湧いてしまう。ただ、二度と校正はしたくないけれど。

 お給料が二倍になるなら、喜んでやるけどね。

 筋肉痛を和らげるべくストレッチをしていたら、図書館へ向かって仕事をしようとしていた山川先輩が私の隣の席へ腰を落ち着けた。彼女の机だ。ひょっとすると、今日は珍しく自分の席で校正を行うのかもしれない。

 お昼休み、延長しようかな。

「新堂さん、どうして筋肉痛になったの」

「あー、っとですね。最近、ランニングを始めまして」

「ランニング? そりゃ大変ね」

 罰ゲームでもあるまいに、と彼女は顔を顰めた。

 折角人に話せる趣味……習慣? みたいなものが根付き始めているのだから、彼女にも詳しい経緯は省いて事実だけを伝えておくことにしよう。年上女性との会話ってのも、それが愚痴や悪口の応酬にならなければ非常に楽しくて心が潤うようなものなのだ。

 山川先輩には、最近になって自宅周辺を走るようになり、最低でも一日一時間くらいは運動をするようにしていることを説明した。準備運動や前後の用意を考えれば一時間半くらいだろうか。体重が増えてしまったからダイエットをしているのだ、という事実だけは伏せることにした。やることが増えて、不得手なことながら充足感を覚えつつある。

 話している間に随分と身体も楽になって来て、なんとか立てるようになった。

 普段のお昼休みより十五分ほど長く休憩をしていたけれど、そろそろ校正に戻ろうか。

 現在校正しているのは、県内の高校生が同人誌として作成する予定のもの、とのことだった。高校生がわざわざ会社に校正を頼むなんてすごいなぁ、と彼らの行動力には純粋に驚いている。ただ、自分たちで校正をするのも文芸サークルとしての楽しみのひとつなのでは……と門外漢ながら勝手な妄想をしてしまった。

 そんなことを言い出したら小説家は全員が自分の作品を校正する破目になるし、きっと執筆速度も半分くらいになるんじゃないかと思う。百文字とか五十文字のプロットを五千文字に膨らませる作家は、その手腕を誇るよりも書き上げた後の校正に対して真摯に向き合うべきだという論調が生まれるだろうし、その結果として世に出る作品数が減って読者は楽しみを奪われる、と。

 あれ、これは何の話だっけ。

 伸びをしたら攣りそうになった私の脇腹を、山川先輩が優しく撫でて癒してくれる。その手付きが少しだけラグに似ていて、綺麗な人は所作も似るのかなぁと思った。

「新堂さん、午後からも頑張れる?」

「頑張りますよー。それしか、することないし」

 世界を変えられる天才以外には、頑張ると言う選択肢の他に、残されているものなどない。才能や幸運を手に入れた人達を、私のように平々凡々な人間と比べないで欲しいものだ。

 二人並んで図書館へ向かうけれど、別々の机に向かって作業を開始した。

 校正の作業では一文字を追いかけて、文章よりも単語に注目する方が効率もいいと聞く。疲れてくると文字すら認識できなくなるけれど、それは人間である限りのご愛嬌というものだ。

 時折現れる、ルビの間隔が他とは違うものを見つけてその旨を記載していく。会社が一般の方や社内で編集者に校正を行わせているところ向けに校正と言う仕事についての説明会を行うこともあって、そこではよく「普通にやっていたら文字サイズが違うなんて有り得ないだろ」という類の指摘を頂くこともある。しかしながら、意外と文字の大きさが異なっていることも多いのだ。

 原因は作家、及びライターの作業環境にある。彼らは一ヵ所にとどまって作業をするわけではないのだ。作家の中には家に引き籠って延々とパソコンに向かい合っている人もいるらしいが、それでも昼間はサラリーマンをして、兼業作家をしている人だっている。ネット小説が流行っているこの時代に、手に職を付けていない人の方が珍しいかもしれない。

 素晴らしき作家が、必ずしも良い生活環境下にあるとは言えないのだ。

 会社でデスクワークをしている最中に、ふと小説を思いついてしまったとき。ひょっとすると、会社のパソコンで原稿に手を伸ばす作家がいるかもしれない。彼らが普段使っている作業環境とは異なるものを利用して原稿を書き、それを自宅のパソコンに保存している原稿と無理やり結合するのだから、多少フォーマットが違うだけでもズレが生じることがあるのだ。

 いや、ホント。

 嘘だったら、頭をひっぱたいて貰って構わないよ。

 高校生たちが書き上げた同人誌の原稿ではこの特徴が顕著だった。個々人で別々のフォーマットを利用することにしているのかな、と念のために仕様書を確認してみたけれど、そんなことはない。単純に、あとで編集担当の男の子に直してもらう算段のようだった。

 その方式でやっていると、まず間違いなく本の形にしたとき文字のサイズや配置がおかしくなるからやめておいた方がいいよ。責任も、最後に編集した男の子に集約されてしまうし。

 今日は意外に早く仕事が終わったため、このまま帰ってしまうことにした。定時より早く上がっても、他の日に残業すればいいということも課長が言っていた気がする。だから一時間程度の早引きなら誰も文句を言わないし、私が定時に帰る時も机に座って天井を眺めている社員さんが結構残っていたりする。

 この会社、本当に「会社」なのかな。うーん、ちょっと不安だ。

 さて。帰ろうと片づけをしていたら背中を細い指で撫でられた。腰骨に響くようなくすぐったさに仰け反ると、私に触れていたのは山川先輩だった。珍しく、今日は早引きするらしい。

「なんです、どうしたんですか」

「新堂さん、身体は大丈夫かしら。図書館でも時々呻いていたけれど」

「ふふ、大丈夫ですよー。多分!」

 なんて優しいのか。今日は金城さんがいなくて寂しかったけれど、心のスキマを埋めてくれるいい人がいて良かった。

 話しかけてきた理由はなんだろうと思っていると、晩御飯に誘われた。迷ったけれど、ラグ達に何も言わないで外食することは出来ないのだ。なぜなら、あの子たちは自分でご飯を作ることが出来ないからである。

 けれど誘ってくれたのは本当に嬉しいので、次回食べに行く日を決めておくことにした。先輩と一緒にご飯を食べるというのは夢みたいなものだし。金城さんは半年しか先輩じゃないし、年の近い人は彼くらいしかいないため「さん」で呼ぶことに決めているのだ。

 ということで、社会人になってから初めて、先輩と呼べる相手と二人きりでご飯を食べに行くことになった。ふふ、約束した日が楽しみだ。

 荷物をまとめて立ち上がろうとした山川先輩を呼び止めて、ちょっと気になっていたことを聞く。校正の話だ。

「あの、いいですか」

「はい。どうぞ?」

「文脈的にわからないところがあって。ここ、ユリゴコロって何でしょう」

「小説かしら。昔、読んだことがあるけれど」

「調べたら出てきましたけど、そうじゃないみたいで」

 ユリゴコロは拠り所じゃなかった。

 痛いほど純粋な愛を、破滅の直前まで相手に悟られることなく抱き続ける物語だ。近々映画になるらしく、金城さんを誘って見に行くのもいいかもしれない。や、これは関係ない話だった。

 喋っているだけでは埒があかなかったため、山川先輩に原稿の該当箇所を読んでもらうことにした。他にも使用されている箇所があったなら作者の造語ということなのだろうけれど、一ヵ所しか使われていなかったために造語とは判断しかねるのだ。

 山川先輩は前後の数ページに驚くほどの速さで目を通すと、小さく微笑んだ。

 何かが分かったらしい。

「それで、何だったと思いますか。造語ですかね?」

「違うわ。これは恋心よ」

「えっ」

「うん、間違いないわね。恋心だ」

「本当ですか」

 高校生たちが提出してきた原稿は手書き原稿ではない。デジタル原稿だ。コいゴコロと書いて恋心と読ませようとしたのを私が見間違えた……というわけでもないみたいだし。

 純粋な誤字だろうか。

 あれっ。

「でも、主人公の女の子にとって彼は友人で……ですよね?」

「それは建前。本当に好きな人には、想いを伝えられない不器用な人もいるの」

「うーん、そういう話なんですねぇ……」

 文字ばかりを追いかけていると、普通に読んでいれば気が付けるはずのところをスルーしてしまうこともある。

 恋愛小説の主人公達は、自身の恋心に敏感すぎるとさえ思っていた。彼らに感情移入することはあっても、彼らに成り代わって誰かに好意を寄せてもらうこと、彼らのように誰かから愛されることは私とは遠い世界のことのようで。

「難しい話ですねぇ」

「恋はしていないの? 最近、金城君と仲いいじゃない」

「あー、でも、あれは友達というか」

 何と言うか。一緒に遊びに行く間柄でも、向こうが何も思っていなかったら悲しいし。大好き! とハグしても抱き返してくれる相手じゃなければ私は泣いてしまうと思うのである。

「一緒にいて、楽しいとは思うんですけど」

「それも恋ね」

「ホントですか? だったら、私は山川先輩にも恋をしていることになるんですけど」

「ふふっ。いいじゃない、それで」

 山川先輩は少しだけ寂しそうな顔になって、思い出したように鞄からタッパーを取り出した。おぉ、今回は生地に色とりどりのドライフルーツが練り込んである。見た目も鮮やかで美味しそうだ。

「これ、クッキー。作ってきたのに、渡すのを忘れていたわ」

「いいんですか? もらっちゃいますよ?」

「えぇ。食べ終わったら、洗わなくてもいいから返してね」

「いえ、ちゃんと洗いますよ」

 私、家事もできない女と思われているのかま。失敬な、ふんすふんす。

 最初の年は洗濯が出来なくてつまずいていたけれど、今や大抵のことができるようになっているのだぞ。出来ないのは定期的な部屋の掃除くらいだ。ラグやマルが人間になったことで動物の抜け毛は減ったのだけど、今度は女の子の長い髪が床に落ちていることがままある。

 掃除をしなくても、綺麗な家に住みたいなぁ……。

 そんな家ないんだけどさ。

「ありがとうございます」

 クッキーを受け取って、先輩が歩いていく先についていく。会社の駐車場の片隅に止めてあった原付の方へと向かっていた。意外だ、山川先輩は原付きで通っているらしい。「家が近所だから」と説明する彼女は、少しばかり恥ずかしそうに笑った。

 美人とプラチナグレーのヘルメット。藤色の車体にまたがった彼女には普段とは違う格好の良さがあった。きっと同級生の女子にモテていたんじゃないかな、と彼女の高校時代を妄想する。

「それじゃ、約束の日は予定開けといてね」

「はい。お疲れ様です」

 手をひらひらさせて、夜の道に消えていく。

 その後ろ姿が、ひたすらに格好良かった。

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