第13話 久しぶりのマックス

 夜の公園で、ラグを抱き留めている。周囲に他の人間の気配はなく、彼女の漏らす吐息が心をくすぐってくる。出会った頃より伸びた髪が、私の首筋に掛かっていた。汗に濡れた彼女の身体に触れると火照りが感じられ、疲労した筋肉が挙げる悲鳴すら心地よく感じられる。

 ほどよい疲労と痛みに包まれて、私は彼女の肩を抱く。元が猫のラグラドールだったとは想像できないほど、彼女の身体は柔らかく人間のそれと変わらない。腰に回した腕には確かな重みを感じることが出来る。

 ひとつの運動を終えて疲弊しきった彼女を公園のベンチに寝かせ、私は近くの自販機で購入したペットボトルの水を飲んだ。

「はぁ……んっ……よはね……」

 ぐったりとした彼女は、しかし恍惚とした表情で私の名前を呼んでいる。

 膝の上に、私から招かれたことが嬉しかったのだろうか。彼女が頬をすりつけると、私自身も身体が火照っていたことを思い知らされた。時折吹き抜ける風が心地よく、秋に移り変わりつつある日々の夜長に汗を掻く。

 真面目な話をするけれど。

 こういうことをしたのは、ラグが初めての相手かもしれないな。

 ちょっとばかり物思いにふけってみたけれど、特に何かが胸を焦がすこともなく。

 膝の上で休む少女の頭を撫でるだけで、過去は色褪せて現在いまに負けるのであった。ちなみに、彼女はまだ息が乱れている。相当に体力を使ったのだろう。

「ふぅ……夜羽……」

 呼びかけられて、彼女の髪を梳く。

 汗を掻いていたせいか、前髪が額に張り付いていた。

「ラグって、もしかしてスーパー貧弱少女だったりする? 無理させちゃったかな」

「そんなことない。夜羽がタフすぎるだけ」

「深窓の令嬢って見た目してるもんねぇ」

「夜羽だって、綺麗だし可愛いじゃん」

「本物の美少女に言われると、煽られている感じしかしないなぁ」

 それに、体力を褒められても本当に嬉しくないぞ。私程度の体力でタフだと言ってしまうなら今頃、世間には超人と呼ばれるお兄様やお姉様で溢れかえっているはずである。恐ろしや超人社会。私も指先一本でソフトボールが数十メートル飛ばしたり、掌から爆風を出せるようになりたいものだ。

 もうちょっとしたいな、とラグに一瞥を向けると彼女は慌てたように首と手を振った。拒否の意志が明確に示されている、ふむ。無理やりにでも立たせようかな。

 手を握って立たせようとすると、猛烈な勢いで振り解かれた。しかし手を握っていること自体は嬉しいらしく、おずおずと手を差し出してくる。うーん、無理に突っ込んで来ることがなければ、ラグも十分すぎる程に乙女なんだけどなぁ。

 綺麗だし。

「私はもう動けないし、無理だよ」

「えっ、まだ始めたばかりなのに?」

「夜羽が一人でやればいいじゃん」

「一人じゃ出来ないこともあるんだよ」

「出来るでしょうが」

 ぺしっと胸を叩かれた。

 ついでとばかりに、むにむにと揉まれた。

「何するんだコラ」

 私に膝枕をして貰っている立場で、悪戯をするとは何事か。ちょっとでもラグを純情乙女だと思ってしまった私が恥ずかしいよ。いや、純情なのは分かる。私に向かって類稀な純度の好意をぶつけてくれていることは知っているけれど、だからって無許可で胸を揉むのはダメだろう。

 許可を取ればいいのか? うーん、それもどうなんだろう……。

 私の身体に夢中で、無防備になった彼女の脇に手を伸ばす。くすぐってみたら面白いくらいに反応を示してくれたけれど、あんまり長くやっていると過呼吸で倒れてしまうかもしれないと思ってやめてあげた。ふふ、私は優しい女なのである。

 急に人様の胸を揉むような奴とは違うんだよ!

「ふぅ。どうしよっかな」

「……まだここにいるつもり? 帰ってシャワー浴びたいんだけど」

「それも分かるんだけど、もうちょっと。明日も仕事あるし無理は出来ないけど」

「するなら一人でしてよ。私は体力の限界だから」

「ラグ、胸にしか栄養行ってないもんね」

 皮肉を言ったら脇腹をつままれた。ちょっと気にしているのに。

 ぐぎぎ、頬っぺた抓るぞ。

 睨むと、ようやく回復したらしいラグが体を起こそうとした。が、腹筋運動の途中で力尽きて私の膝に戻ってきた。膝を枕にした彼女は、幸せそうな顔をしている。本当に力尽きたのか? 気になるから突き落としてみたくもあるけれど、本当に体力の限界を迎えていたら泣き出してしまいそうなのでやめておいた。

 猫のときも一日中窓辺にいたりしたし、体力ないんだろうなぁ。

 そこまで激しい運動をした覚えはないんだけど。

 ふぅ。

 女二人で汗を掻いてはいるけれど、別に、発情している訳ではない。夜の公園で汗だくのカップルというだけで不穏当な妄想を始めそうな輩が私の膝の上にもいるけれど、別段いかがわしいことをしていたわけでもない。

 私とラグとで、ランニングを始めたのだ。

 きっかけはマルの何気ない一言だった。金城さんとの交遊から帰ってきて、今度は三人で何か観に行こうねと約束して。最近、なんだかご主人である私よりもラグになついていたマルがふと言い放ったのだ。

「あれ? ラグちゃん、前より柔らかいですね」

 その言葉自体には悪意も何もない。傍で聞いていた私も、ラグの胸が大きくなったのかな、くらいにしか考えていなかった。しかし言われた側のラグは何か思うところがあったらしく、泣き真似をしながら私の胸に飛び込んできたのである。

「夜羽ー。マルに太ってるって言われたー」

 泣き真似をしながら抱きついてきた彼女は私の胸に顔を埋めてきた。腰回りに腕を回されて抱きしめられたら、心臓の上の方もなんかきゅっとした。慣れてきたら求愛されることに対する喜びが強くなってきたみたいで、このままだと良からぬ未来が待ち構えているのではないかと邪推してしまう。

 いやー、法律の壁は高くて険しいからね。

 私のガードだって、甘くはないし。

 このときは当然のようにいやらしいことを考えていたのだろうと押し返したのだけれど、彼女は手をわきわきさせて、その感触を確かめていた。何をしているのか訪ねたら「大丈夫。そのくらいの方が抱きついたとき気持ちいいから」と謎のフォローを貰ってしまい、何が気持ちいのか考えて、ふと自分の腹周りに触れた。

 触れてしまった。

 身体に電流が走るという言葉は、あの瞬間のためにあったのだ。

 で。

 三人揃って体重計に乗った。人間になってから乗ったのは初めてだったらしいラグとマルは上下する数字に興味津々で最初は正確に測れなかったけれど、二回目はしっかりと数字が出た。その後、部屋をかき回しメジャーを発掘して身長を計り、いざインターネットに向かうことになった。

 マルは標準体重よりも軽め、これ以上痩せちゃいけない感じ。胸もちっちゃいし、ある程度お肉をつけたほうが男の子人気はあるだろう。ネットを駆使して調べた結果は、そんな感じだ。

 だがしかし。

 私とかラグは同じ身長の女性で平均を取った体重よりも重かったのである。いや、この差はおっぱいだから。平均したサイズよりも私達の方が大きいはずだからと妙な慰め合いをしてみたけれど、胸のサイズによる体重差を調べても微々たるものであった。

 つまり、私達は平均的な女性よりも太っていたというわけである。

「これ、自主申告の体重だし」

「本当に重い人は申告してないから。平均は上振れするから」

「そもそも胸の重さなんて正確に測れないでしょ」

 みたいに言い訳を重ねてみたけれど、やればやるほど虚しくなっていった。

 太っているからと言って即座に病気になるわけじゃない。肥満体形を理由に私やラグのことを嫌いになって攻撃してくる人は他の些細な事柄にも突っかかってくる。恋人がいたなら彼らの為に自分が最も美しく見える体形をキープするべきだし、体重そのものは別に関係ないのだ。生きていく上では、何もない。

 でも、万一ということもある。

 腰回りのお肉がつまめるとか、年頃の乙女としてどうなんだ。いや、つまめたほうが柔らかくてハグしたときに気持ちよくて、そういう相手がいる人はむしろ肉付きがいい方がよろしいのですよ?

 でもなぁ、私にはそんな相手いねぇんだよ!

 恋人は!

 彼氏は!

 いないんですよ!

 ラグはそれでも私のことを愛してくれると言うけれど、女の子から行為を示されても私はノーマルだからしょうもない。最近はラグに添い寝されても、寝ている最中に彼女が抱きついてきても気にならなくなってしまっているけれど、それとこれとは別問題だ。慣れたからOKというものでもあるまいて。

 いざ好きな人が出来たとき、恥ずかしい想いはしたくないのだ。

 ということで、私は晩御飯前の時間に走ることを決めたのである。

 筋肉がつけば体重そのものは増えるかもしれないけど、脂肪が減れば腹回りの余分な肉は消えるはずである。心の贅肉を削ぎ落としても楽しみは増えるどころか減ってしまうに違いないが、身体から削ぎ落とした贅肉は私達の明日に希望と自信を与えてくれるのだ。

 走るにしたって、普段から着ている服で走るほど私はお馬鹿さんではない。ちゃんと、高校時代の体操着を引っ張り出してくる程度の知恵はあった。当時の同級生たちがダサいもの筆頭に上げていた、全身緑に白い一本線が入ったジャージである。んー、確かに格好よくはないな。久しぶりに出してきたけれど、これを彼氏とのデートに着ていこうとは思うまい。

 私は流行や、お洒落なものへの知識や興味が薄い。じゃぁ何がダサくないのかと彼女たちの話を聞いていたものだけど、多分、学校が指定したものはなんであれダサいと言っていたに違いない。

 女の子の反抗期は、遅れてやってくるものなのだ。

 ちなみに私は、一人暮らしを始めた当初はこいつを部屋着にするダメ女子であった。最近はパジャマを部屋着にしていたため、学んではいるものの特に成長していないことがわかる。それでいいのか、年頃の乙女なのに。

 痩せる前にするべきことがあるんじゃないかと思ったけれど、考える程に辛くなりそうだったからすべてを無視して走り出すことを決めたのであった。晩御飯前に走れば横腹への痛みも軽減されるだろうと、家を飛び出して準備運動を済ませた後に自宅周辺をてってこと走っていた。当初は乗り気ではなかったものの、私が走るならとラグも、一度、私が予備にしていたジャージを取りに帰って一緒に走ってくれた。

 そして、現在に至る。

 マルは運動着がないから、と自宅で待機しているはずである。あんなに小さい子を一人で留守番させるのは、例え彼女がびっくりするほど大人びていても気が引けてしまう。

「……うーん。帰ろうかなぁ」

「そうしよ」

「でも、あと一周くらいなら」

「こんなに可愛い恋人がいるのに。死にたいのか、殺したいのか」

「恋人じゃないでしょ、あんた」

 ほっぺをぺちぺち叩くと、ラグは楽しそうに笑った。

 普段から運動しているわけでもないのに、急に走ったものだから明日の筋肉痛も怖いし。ラグもぐったりしている。若い分、私よりも回復力は高いはずだけど体力がないのでは話にならない。

 あと、胸に顔を擦り付けるな。

「ラグ、いい加減にしないと……あ」

「どうしたの」

 私が公園の入り口を指差すと、ラグも気が付いたようだ。

 金城さんの家で一緒に暮らしていると言うマックス……えっと……あれ? 人間としての名前はなんだっけ。よく思い出せないけど、ともかく同居人のマックス君が私達のことを遠くから眺めていたようだ。

 声をかけてもいいものかどうか、ずっと迷っていたらしい。

 手招きすると、何事もなかったかのように近寄ってきた。

「ども。こんばんは」

「こんばんは。久しぶりだね」

「えぇ、えぇ。ご無沙汰してます、兄貴の同僚さん」

「名前で呼びなよ、新堂さんって」

「そっすね。ラ……? あれ。君の、人間としての名前って聞いたことあったっけ」

 あ、こいつ他人様の名前覚えてないな? それをうまく誤魔化したようだが、私の眼は誤魔化せないぞ。ふふ、ブーメランが飛んで来たら首が飛んでしまいそうだけど問題ないぜ。

「万江辺絵里よ。よろしく、堂本勝くん」

「へぇー、マエベリーっスか。洒落た名前っスねぇ」

「マエベリーじゃなくて、なんだけど」

「あ、こだわりポイントっスか。ごめんなさい」

 ひょいと頭を下げた。いつもながらに軽い人だ。

 ギラギラしていた金髪が怖いけれど、彼を見て思い出したことがあった。始めて彼と出会ったときに、金城さんに近づくなとか、金城さんは俺のものだと宣言されたことがあったのだ。

 あれ以来あまり好印象は抱いていなかったのだけれど、こうして爽やかに会話をしている分には一切のわだかまりを感じさせない。人付き合いのプロという感じがした。

「堂本君、そのヘルメットは?」

 ラグと彼の会話から盗み聞いた、というか自然な流れで思い出すことが出来た彼の名前を何気なく口にして、いや、意識的に声に出して尋ねてみた。彼はこれっスか、と頭に被ったものを叩いた。

「兄貴から貸してもらったんスよ。原付のなんスけど」

「えっ、免許あるの」

「ふへへ、秘密っス。アルバイトに出るなら、自転車より原付のが楽っスからね」

「あー、マックス君もアルバイトしているんだよね」

「生きていくためには金が必要ですからねぇ」

 腕を組んでしみじみと語る。

 男二人、それでも金は必要なのだ。

 私達も存分に人生を楽しむためには、やっぱりお金が必要なのであった。

「ひとついいかな。堂本君、金城さんと最近は仲良しなの」

「兄貴と? ばっちり仲良しですけど」

「そうなんだ。この前喧嘩してたから気になってて」

「ふーん」

 あら、意外に冷たい反応が返ってきた。私は金城さんを狙っているわけじゃないんだぞ。ただ、彼が困っていたなぁと思い出してお節介を焼こうとしただけなのである。

 余計なお世話と言われればそれまでだが、嫌ならハッキリ伝えてくれるだろう。

「そういや、バイト始めたらしいっスね。俺が落ちたところで」

「えっ、そうなんだ。堂本君なら何処でも受かりそうなのに」

「あそこは人手足りてなかったぽいし。……あっ……あのおばさんか」

「んー、絵里ちゃんは聡明っスねぇ」

「誰が絵里ちゃんだヘルメットの上から叩き割るぞ」

「あの……俺にだけ厳しくないっスか……」

 堂本君が助けを求めて私に視線を送ってくる。ラグが堂本君のことをここまで嫌っている理由は定かではないけれど、彼に同情してあげたい気もする。ただ、うちは放任主義ですの。あまり上から押さえつけるような教育をするつもりはないし、本人達が望むことは出来る限り叶えてあげた方が。

 あれ、何の話だっけ。

 私に膝枕をされたままのラグと、ヘルメットの前面を上げただけの堂本君が喋っている。絵面としては奇妙なもので、私は小さく笑っていた。

「バイトは順調っスか」

「まぁまぁ」

「そうかー。もしアレだったら、俺が今働いている職場に来て貰いたかったんスけどねぇ。人手不足だし」

「忙しいのは嫌よ」

「寄る辺もないんスけど。新堂さんとこ、どんな教育しているんスか」

「いや、特に何も」

 溜め息を吐くと、彼はその場にしゃがみこんだ。すぐに立ち上がると、公園の入り口の方へ戻って行く。彼の方からパタパタと手を振ってきたものだから、私も振り返すことにした。ヘルメットの前ガラスは既に降ろしてしまっていて、夜の暗さもあって表情はよく分からないけれど以前よりは私に対する態度も軟化しているみたいだった。

 ひょっとすると、私のあずかり知れぬところで金城さんが手を貸してくれているのかもしれないな。と考えていたら彼の方からメールが来た。珍しいことかも、と私はワクワクしながら画面を開く。

 私が、ラグを夜の公演で膝枕している写真が送られてきていた。

 元同級生たち曰く、クソダサ緑ジャージを着て。

「な、なんで!?」

 感嘆符を沢山送信すると、彼から返信が返ってきた。

『マックスから送られてきた』

 いつの間に撮ったのか、そもそも携帯を持っていたのか。

 呼び止めようとしたら、彼は最後に両方の手を挙げて公園から逃げ去って行った。

 な、なんて奴なんだ。金城さんからのメールが、また送られてきた。

『仲、良くなったんだな』

「ちがっ、えっ、あの野郎!」

「どうしたの夜羽。誰から?」

「ダメっ。絶対に見せないから」

 違うんです、これは運動不足解消のために走っていたらラグが疲労困憊で倒れそうになっていたのを介抱していただけで……と、なぜか長文の言い訳を送信する羽目になってしまった。

 明日のランニングはどうしようかなと、初日から頭を悩ませてしまう私であった。

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