第11話 私達のバイト。

 ラグとマル、私たち二人のアルバイト生活が始まった。

 夜羽と金城に古本屋へ連れていかれてからおよそ十日が経過している。あの翌日にはアルバイトを始めたけれど今日まで特に怒られた経験もないし、頑張ろうと思えば頑張れるものだなと緊張のほぐれることのない頬に触れる。

 もうちょっと笑顔で、と英恵さんや達郎さん、果てはお客さんにまで言われる始末である。頑張っているんだけどな、と首を傾げながら接客をしていた。

 店主夫婦と顔見知りらしい一部の客から、若いのに学校に行っていない理由を尋ねられたりもした。だけど適当にはぐらかしていたら次第に聞いて来ることがなくなった。何かしらの理由がある、というところだけは察してくれたのだろう。彼らの話に耳を傾けている限り、可愛いから虐められて不登校になっただとか、家に金がないから進学できなかったという話をしているみたいけれど、どちらも半分しか合っていない。

 私達が元動物だったということに気付いている客は、今のところいないようだった。バレたところで問題があるのか、そもそも信じる奴はいるのだろうかという問題は横に置いておこう。

 今の私には、そこまで関係ないし。

 このアルバイトでは、風邪や体調不良の場合を除いて休みは一週間前に申請すればよいらしく、仕事をする時間は何曜日だろうと朝八時半から夕方六時まで。水曜日が定休日で、その日は知り合いや友人達を呼んで店を貸し切りにしてもいいらしい。貸し切ったところで何をするのか皆目見当もつかないのだけれど、それを言ったら私に友達がいないように思われてしまうのでやめておいた。

 私達に課せられたこの条件が、どの程度厳しいものなのか分からなかったので夜羽に尋ねてみたことがある。「それ以上に楽な仕事なんてないのでは?」という答えが返ってきた。本当は座っているだけで一日五万円くらい貰える仕事がしたいんだけどな。ま、そこまで美味しい話が存在しないことは知っているのだけれど。

 肝心のお給料はと言うと、休憩1時間を挟んで労働をして。なんと、一日あたり八千円である。週五日働いたとして、私とマル二人で……と考えて混乱した。そんなに貰って金城夫妻は自分たちが食べていけるのだろうか。

 怖いものである。

 英恵さんも達郎さんも、夜羽に近づく男きんじょうの親戚である。彼が人を何人か殺していても不思議じゃない風貌をしているのに、金城夫婦の方は誰も傷つけたことがないような人畜無害な顔をしているから、余計に怪しんでしまうのだ、何か裏があるのではと考えてしまったのである。マルにその話をしたら「疑い方がヘタだなぁ」と笑われてしまった。

 彼女マルは他人を簡単に信じすぎだと思う。まぁ、どこから他人を雇う金が生まれているのかという話については、働き始めた最初の日に解決していた。

 広々とした店内は木目調の落ち着いた空間で、漂う珈琲のほろ苦い香りが賢くなったような気分を味わわせてくれる。どこからやって来たのか分からない大勢のお爺さん、お婆さんが四十以上はあるだろう席のほとんどを埋めている。学生や会社員っぽいスーツ姿の人も見かけるけれど、彼らは少数派のようだ。誰かが店を出て行ったと思ったらまた新しいお客さんが来て、ここで働ている私達には休む暇もない。

 注文を受けるのはマルに任せ、私は運ぶばかりではあるのだけれど、元猫だからって他の人よりもバランス感覚が優れているわけじゃない。あまり多くのお盆を持つと落としてしまいそうだったから、一度に運べるのは二人分のモーニングまでである。

 うん。

 冷静になろうか。

「ここ、古本屋じゃなくて喫茶店だよね」

「えっ、今更? というか昨日も言ってなかったっけ」

 にこやかにお客さんへ応対していたマルは、私のつぶやきに対して何やら驚いたような顔をしていた。彼女は人が掃けた後の机から食器類をキッチンへと運び、新しくやってきたお客さんの元へと向かう。人懐っこい彼女にとって、こういった環境での仕事は天職といっても過言ではないのかもしれない。

 ふーむ。

 でも、これだけは言っておきたい。

「やっぱり、ここは喫茶店だよね」

「なに言ってるんだ、姉ちゃん。当たり前だろぉ?」

 傍の席にいた年若い男性に話しかけられた。不思議とその卓が盛り上がっていた様子だったので特に否定することもなく、丁寧に頭を下げてから空になっていた水を補充しに向かうことを決めた。

 空いた食器を下げたり、お客さんに呼び止められて私まで注文をとることになったりしながら三十分ほど忙しなく働いたところで、やや店内が落ち着いてきた。

 マルの姿を探すと、お客さんからモーニングの一品であるゆで卵を受け取っていた。本日三つ目となるそれを食べるのは流石にヤバいと思ったのか、エプロンのポケットに仕舞いこんでいた。うん、健康は大事だからな。それでいいと思う。

 特にすることもないし皿洗いでもするかと調理場の方へ向かう。そこには達郎さんと英恵さんが腰かけて何やらお喋りをしていた。英恵さんが向けてくるカメラから顔を隠しながら食洗器の方を覗く。大量に積んでおいた食器やお盆は既に英恵さんが洗い終えていたのか、あとは乾燥機から出てくる食器を種類別に並べておくだけみたいだった。

 溜め息を吐いて、手近な椅子に座る。会計待ちのお客さんがいないか時折レジの方に視線を送りながら、金城夫妻に文句を言うことにした。そうだ、言いたいことは言っておかなければ腹の中で腐ってしまう。

 足が震えるけれど、言わねばならないこともあるのだ。

「英恵さん」

「どうしたの、万江辺さん」

「話が違うんですけど。古本屋で働かせてくれるんじゃなかったんですか」

「でも、こっちの方がお給料いいし。ほら、本の配置を覚えるのと喫茶店でのメニューを覚えるのは似ているし、レジでの計算は電卓での確認を挟まない分こちらの方が楽でしょう?」

「というか古本屋の方、ひょっとして営業してないんですか? 脱税目的のトンネル会社っぽいんですけど」

「そんなことないわよ。月に一日は開店しているんだから」

 口許に手を当てて、英恵さんは上品に笑う。信用できないなぁ。

 税務署の人を連れてきたい。本当に不正なことをしていないのかとか、私達が犯罪の片棒を担いでいるんじゃないかと不安になって来たぞ。

「……あと、服」

「可愛いからいーの! ふふ、写真も撮り得ね」

「私は撮られ損なんですが、その辺りはどうお考えでしょうか!」

 昨日までは私服の上にエプロンだけで働けていたのだが、今朝出勤したときに英恵さんから手渡されて、彼女に促されるままカッターシャツにスーツパンツという制服に着替えさせられることになった。その上にエプロンを付けて、これで喫茶店店員の完成である。

 シンプルながら王道、見た目に関する文句はないのだ。

「いや、服自体はいいんですよ。格好いいし」

「そうよね。分かるわ」

「ただね、英恵さんが怖いんですよ」

「どうして?」

「カメラが追いかけてくるのが、精神的にキツいんですって」

 若い女性に自分好みの格好をさせて喜ぶのは中年男性ばかりだと思っていたのだけれど、なぜか英恵さんが大興奮しているのだ。旦那である達郎さんが困ったような顔をして、申し訳なさそうにこちらを見てくるものだから私も声を大にして起こることが出来ないでいた。

 いや、別にいいんだよ? 格好いい姿を夜羽に見せたら褒めてくれるかもしれないし、この格好そのものには何一つ文句をつけるつもりがない。だけど、店舗が営業中にも関わらずパシャパシャと写真を撮っている英恵さんはどうかしていると思う。それに対して平然としているお客さん達もすごいとは思うけれど、こんなことに慣れているんだろうか。

 ひょっとすると、私達以外にも被害者がいたのかもしれない。折角の獲物に逃げられては困るから最初は騙して古本屋のアルバイト募集と……金城も実は一枚かんでいたりして……。

 犯罪かな?

 これ、訴えたりできないのかな?

 頭を抱えているとレジの方にお客さんが向かっていったので、仕事をすることにした。清算を終えた後、ついでに窓際の席から空いた食器を回収して戻ってくると、今度は達郎さんがカメラを持っていた。しかしシャッターを切ることはない。

 ふむ、英恵さんから取り上げただけのようだ。

 適当に汚れを濯いだ後、食洗器に食器を放り込む。ボタンを押して稼働させてから、私は彼らの前にもう一度座った。達郎さんが口を開いた。

「ホントごめんね、万江辺さん。うちの家内が孝君を騙したのが原因だと思うんだ」

「騙してないわよ。ただ、古本屋で『も』働いている人を募集しているって言っただけだし」

「実質詐欺みたいなものですね」

「ごめんよ。実はこっちが本業で、向こうは趣味で開いたものなんだ」

 聞くところによると、あの古本屋が開いたのは今から十年以上も前のことらしい。喫茶店の方も順調になってきたから、浮いたお金で一度はやってみたかったことをしよう、というのが当初の目的であったようだ。結果として喫茶店の方が流行りすぎて古本屋に構っている時間が滅法取れなくなり、あの本屋が客に対して扉を開く回数がめっきり減っているということらしい。

 喫茶店の方も、年老いてきた彼らが二人で働くには忙し過ぎるために人を募集してはいるのだけれど、英恵さんがご覧の有様だから定着することが少なくて苦労をしていたそうだ。

 なるほど、そういう事情があったのか。だったら初日、古本屋へ出勤したら併設されていた喫茶店に連れて行かれた時に説明してくれればよかったのだ。話したところで私達にお金が必要なのは変わらないし、彼らが本質的には善人であると言う確証もない信頼を得てしまっているから、無理だろうとは思うけど。

 話すべきことは話したし、これ以上何かを言ったところで変わることはないだろう。働いているという実感を得れば刺激になるし、古本屋で何もせずに一日中寝ているよりは余程有意義な日々を過ごせるだろう。そう考えて諦めることにした。

 仕事に戻ろうとしたら、英恵さんがちょちょいと手招きをしている。

「ちょっと服が乱れているから、整えてきた方がいいわよ」

「あー、そうします」

「何かあったら私と野々山ちゃんでやっておくから。恰好は大事だからね」

「お願いします」

 礼を残して、従業員控室、またの名を金城夫妻の家へ向かうことにした。フロアの一角にある従業員用と書かれた扉を開くと、そこには階段がある。そう、喫茶店の二階が金城夫妻の家になっているのだ。キッチンは喫茶店でも使っているものを一緒にしているけれど、それ以外の生活スペースは喫茶店の二階に集約されているのだ。そりゃ、同じ家に二つもキッチンはいらないよな。あったところで、片方は使わなくなるに違いない。

 全身鏡があった。

 その前で服をパタパタと整える。

 昨日までは私服だったのに、と何度だって文句を言うことにした。

 ここの制服は白いカッターシャツに、黒いスーツパンツと、過度に性的なデザインではない。純粋にお洒落だし、小綺麗で可愛らしい。そこに茶色の、落ち着いたデザインのベストを羽織り、エプロンをすれば準備完了だ。ベストの背中には猫が身体を丸めて眠っている絵が描かれていて、個人的には結構なお気に入りである。

 夏場のデザインがこれで、冬場は犬がのびのびと走り回っているデザインらしい。私達を知っていて煽っているわけじゃないようだ。ちなみに、達郎さんと英恵さんはベストのデザインが違うだけで私達と同じ服装をしていた。だから制服を着せた後の行為は別として、元から制服そのものは存在していたようである。

 これを着せるためだけに雇われた、というのはちょっと気持ちのよいものではないからね。

 漏れる溜め息を無視して背伸びをすると、何かが壊れるような音がした。きつかった胸元が急に楽になった気がしてそっと覗いてみると、ベストのボタンが壊れて外れてしまっているようだった。……このまま働くか。別に、ボタンのひとつやふたつ外れたところで問題はないだろうし。

 全身鏡を見て、一度エプロンとベストを脱いでみた。カッターシャツはTシャツに比べれば胸を強調しない服だが、それでも人より大きいと目立ってしまう。この上にエプロンを着けるよりは、色味の地味なベストを羽織ってからの方が胸元が目立たなくていいかもしれない。

 腰回りがもう少しふくよかなら、手足がもっと太めだったならと人間になる際に適わなかったことを妄想してみる。胸ばかりが大きくても肩や腰に負担が掛るだけだし、何よりも衆目に晒されている感じがして吐きそうだ。

 くそぅ、夜羽に見られるなら気持ちいいのに、他の人だとどうも緊張してしまうみたいだ。本来の力が出せなくなってしまう辺り、顔が濡れたアンパ○マンみたいなものである。

 色々と諦めて、ボタンの取れたベストをそのまま着用することに決めた。エプロンを付ければ目立たないし。何より、キツめのベストがあるおかげで胸もそこまで揺れないから楽なのである。

 服装を整えて下に向かうと丁度お客さんにモーニングを持っていくところだった。

 出て行こうとした英恵さんを引き留めて、おしぼりや伝票を受け取ってからベストについて一言告げておく。英恵さんは真面目な顔で頷いた後、大急ぎでカメラを取りに向かった。これ以上の撮影は許可しないんですけど。

 ふぅ。

「ご注文の品はお揃いでしょうか」

 マルが注文を取りに行き、そそっかしい彼女に変わって私が配膳する。

 正午を過ぎる頃には客足も遠のく、と思っていたのだが甘かった。

 確かに客の数は減ったが、それでも多い。

「君、中学生かい」

「違いますよぅ」

「かわいいね~」

「へへっ、ありがとうございます! ご注文はお決まりですか?」

 マルは妖精みたいなやつだ。どこでも愛されているし。

 どんな相手からも可愛がられる、魔性の女の子に間違いはないのだった。

 結局今日一日は、店仕舞いをする直前まで忙しかった。覚えきっていないこともあるし、マルが粗相をしたら私も飛んで行かなくちゃいけない。私がマルチタスクを処理できずに混乱しているときは彼女が助けてくれるし、お互いさまではあるのだけれど。年上ということもあってか、私の方が幾分気負っているところがあるみたいだ。

 店仕舞いを終えた後に「責任感と、全部をやりきらなきゃいけないのは別。もっと気楽にいけ」と英恵さんに肩を揉まれた。妙な手つきだったけれど、冷たい視線を送り続けることで最悪の事態は回避した。何を回避したんだろうね。

 バイトが終わってくたばっていると、マルがココアを持ってきた。ちょこんと、私の前に座る。小さなケーキまで持ってきている。

「どうしたの、それ」

「賞味期限近いんだって」

「そう、なんだ」

「はい。ラグちゃん」

 マルの持ってきたアイスココアに口をつける。涼やかな気持ちになった。

 そうしてマルはケーキを食べ始めたのだけれど、あまりに美味しそうに食べるものだから私の分もあげることにした。といっても、半分食べた残りだけれど。

「いいの?」

「うん。今日も一日頑張ったから、ご褒美だよ」

「ホント? うへへ、ありがと」

 そんなに喜んでくれるなら、口を付ける前に渡せばよかったな。

 私は、幸福の中にいる人を眺めることで幸せになるのかもしれない。

 ご主人であり好きな人、夜羽。

 友人であり妹みたいな子、マル。

 彼女達が笑ってくれるように、何かを頑張ると言うことが、わたしにとって一番の幸せなのかもしれなかった。

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