第10話 私のアルバイト。

 私は猫である。名前はラグ。ラグドールのラグだ。

 社会生活を送るために申請した人名としては、万江辺まえべ絵里えりを名乗ることにしている。この名前にした理由は特にない、と言ったら我が御主人様である新堂夜羽がつまらなそうな顔をしたため、その場の雰囲気もあってこう答えた。

『格好いい名前の方がいいじゃんか』

 結果としてラグドールだからラグでいいや、と安直な名前をつけた夜羽を遠回しに叱責するような形になってしまったのだが、それはそれ。これはこれ。私にとっての名前とは個人を識別できるものであればそれでよく、夜羽が呼んでくれる名前なら何だって構わないのだ。ラグという猫の時分の名前を、人間としての名前に使わなかった理由もそこにある。

 私をラグと呼ぶのは、元飼い主である夜羽と昔馴染みのマルで十分だった。

「万江辺さん」

「……はい」

「レジの使い方、分かる?」

「いいえ。教えていただけると嬉しいです」

「いいのよ、かしこまらなくても。もっと気楽に、ね」

 レジと言えばカブトムシのツノみたいな奴を使って店員さんが商品の清算を行うところだと思っていたのだが、私とマルが連れてこられたバイト先では若干仕様が違うらしい。商品につけられたシールを元に電卓をたたき、それをレジスターに打ち込むことでレシートやら何やらが吐き出される仕組みの様だ。割とはがれやすいシールでもあるらしく、商品を傷めることなく価格を表示できるのは偉い。昔の本も、これでバッチリ値段を付けられるし。

 ただ、電卓に打ち込む作業は必要なのか? と思いましたものの質問することは控えた。恐らくは間違い防止のためだろう。確認は何度してもいいものだ、と夜羽も言っていたような気がするし。

 聞くのが面倒なだけともいう。

「それじゃやってみて」

「えっと、最初にこれを――」

 金城という男の親戚であるオバサン店員、金城英恵はなえさんから借り受けた電卓に、カチカチと数字を打ち込んでいく。これは割と簡単にできた。レシートは店で保管する用と客に渡す用の二つが出てくるそうで、店舗用のものは必ず残しておくようにと教えられた。客が買った本に応じてビニール袋の大きさを変えたり、雨の時は二重、三重に包むことなども教わった。

 そして領収書なるものの書き方を教えて貰ったところで、傍にいたマルと交代することになった。僅か三十分足らずの説明だったというのに、どっと疲れてしまった。新しいことをやるのは苦手なんだ。

 マルがレジの操作をしている間に、英恵さんが微笑みかけてきた。

「結構、大変でしょう」

「……そうですね」

「それでも、ここで働くかい?」

「はい。よろしくお願いします」

「万江辺さんは真面目だねぇ。孝が連れて来たとは思えないよ」

 私はバカじゃない。だから、相手が善良な人間か否かと言うのはすぐに分かる。特に優しい人間だと判断した相手に、わざわざ背を向けて逃げるような真似はしないのであった。

 正直な話をすると他のバイト先を見つけられるかが不安な上、ティッシュ配りみたいに知らない人へ無差別に声をかける行為が苦手と言うことを知ってしまった以上、他にいくアテがないのである。この店だって、あまり客が多いような逃げ出す算段だった。マルという友人がいる前提だから、なんとか平静を保っているようなものなのだ。

 マルが風邪を引いたりしたら、私も一緒に休もう。固く心に誓う私であった。

 でも、人間って不便だよな。お金が必要なんだもの。こうして万江辺絵里としての社会的地位を手に入れたのだって、バイトをして夜羽に楽をさせてあげるためなのだ。ここで踏ん張らないとアパートの片隅で、色白のもやしになるしかなくなってしまう。

 それは、私の威信に関わることなのであった。

 ……あるのかな。威信。

 心が弱ってきたから助けを求めて店舗の奥へと視線を向けると、夜羽が普段は見せない質の笑顔を誰かに向けていた。その相手が誰なのかは、そいつの顔が見えなくたって分かっている。夜羽の同僚、金城孝だ。

「それで俺が中学の時に――」

「へぇ! 金城さんのことだから、もっと――」

 妹とか娘とか恋人にあたる存在が働いていると言うのに、夜羽は店の奥で同僚の男とお喋りを楽しんでいた。本人はあまり意図していない風を装っているようだが、あれは完全に気があるに違いない。そう思われても仕方ない感じの、私達と一緒にいるときよりも半音ほど高い声色をしているのだ。

 なんでい、私以外の誰かにデレデレしやがって。

 まぁ、金城が想像していたよりも遥かに不器用な男だったことが幸いである。このまま放置しておいても、向こう五年くらいはアクションを起こすことがないだろう。奥手と言うべきか、鈍感と罵るべきか。ひょっとすると、彼の方も自分の気持ちに気付いていないのかもしれない。

 んぬー、イライラしてくる。

 恋愛ってものは、握りしめた拳を相手の顔面に突き出すようなものだ。だけど自分が拳を握りしめていることを、それが出来ることを知らない人間が多過ぎる。窓の外から雨空を眺めるような、雲の向こうにある月へ恋焦がれているような恋愛をする奴が人間には多過ぎるのだ。いや、夜羽の部屋にあった少ない小説や漫画から得た知識だから、参考にならないとは思うんだけどさ。

 彼女達の話に、聞き耳を立て続けている。

 九月になったら見たい映画があるということで、どうやら二人きりで出掛ける計画まで立てているようだ。私達を置いていくつもりか、と思ったが会社帰りに見に行くとのことなので本当にそのつもりらしい。

 あの子達も人間になったわけだし、ご飯くらい自分で何とかできるだろう、みたいなことを夜羽は言っている。出来るわけないじゃないか、と私は内心で悶えていた。人間になった瞬間に言葉や社会常識の類、そして社会にあるすべての知識が流れ込んできたというなら、その程度のこと造作もないのだろう。しかし私達は、すべてが与えられたわけじゃない。あくまでも人間のナリを得ただけの、普通の猫なのである。

 箸は、やってみたら持てた。

 文字は、夜羽より綺麗に書ける。

 でも、料理だけは勘弁してほしい。実のところ、夜羽がいない間にこっそりと包丁を握り、野菜炒めなるものを作ろうと調理本を片手に頑張ったこともある。後始末と証拠隠蔽をするだけで一日が終わってしまったことを、私は忘れていない。傍に居てくれたマルが泣きそうになっていた私に向かって「ドンマイ」と至極残念そうに呟いたことも、決して忘れてはいないのだ。

 夜羽は気付いていないだろう。

 私が、料理のド下手クソな人間ねこであるということに!

 うぅ、うぅ。

 ……あれ、何を考えていたんだっけ。

 頭を抱えていたら、英恵さんに肩を突かれた。心配そうな顔をしている。

「大丈夫? 何か、分からないことがあったかしら」

「い、いえ」

「もし不安になったら、私か旦那に聞いてね。いつでも教えてあげるから」

「ありがとうございます」

「それにしても大変ねぇ。私があなたくらいの頃は、適当に応募すれば何の仕事だって出来たのに。お給料だって、割と多かったのよ」

 あぁ、私達はバイト先が見つからないという設定で話を進められていたのか。お茶してから話し合いなど挟むことなく、ごく自然な流れで研修っぽい説明が始まったから吃驚していたのだ。

 この人達は、一緒に働く相手の素性を詮索しないのか、と。

「それにしても、今日は静かね、お客さんも少ないし」

「普段はもっと人が多いんですか」

「うん。近所の人が来るのよ。お茶することもあるし」

「そうなんですか」

 あぁ、冷や汗が出てきた。近所の人が多いと言うことは、ある程度コミュニティが固まっていると言うことである。当然のことながら新人には注目が集まるだろうし、年配の人が中心のコミュニティならば私やマルのような若者は「常にニコニコ、愚痴も言わずに一生懸命働く真面目な子」を演出し続けなければならない。

 これも、漫画で得た知識である。

 うぅ、不安だ。心が潰れてしまいそうだ。

 知らない人が傍にいるのだって苦手なんだぞ。店の奥でお茶を啜っていたオジサンから、店内にある古本についてジャンルの配置場所などのレクチャーを受けていたマルはすごいと思う。

 疑問に思ったこととか、すぐに聞けてしまうんだから。

 私はダメだ。どうしても、緊張が先に立ってしまうからな。

 ……そりゃ、変わらなきゃいけないことも、分かってはいるのだけれど。

「野々山、一番上の棚まで手は届くかい」

「だい、じょーぶ、です」

「無理はするなよ。嫁入り前の女の子が、顔に怪我しちゃいけないからな」

 次は万江辺だ、と呼ばれてオジサンの元へ行く。

 本の置き場所や、高価な本がどのあたりにあるかを教えて貰いながら、頭の中ではマルのことを考えていた。人間としての名前を野々山ひまりという地味ながらも可愛らしい名前に設定したマルも、私と同じように家ではその名前を使っていない。理由を聞くと「せっかくなら可愛い名前がいい」とのことで、期せずして二人共が御主人様である夜羽のネーミングセンスを否定することになってしまった。

 いやぁ、悪くはないんだけど。

 全然、良いわけじゃないんだよね。

 マルは二人きりの時に、不思議と私にくっついてくることが多い。昼間、私が夜羽のベッドに腰かけていると、膝の上に乗って来ることもあった。そのまま昼寝コースに入るだけで、特に彼女から何かをしてくれと言われたことはない。

 でも、どうしてくっ付いてくるのだろう。

 理由が分からなくて、内心で首を傾げる。

 私が夜羽に密着するのは愛ゆえの行動である。だけどマルの場合、それは兄弟姉妹に対するものではないか、と個人的には考えている。夜羽が甘えさせてくれなかったときは私も彼女に甘えているし、そんなものだろう。昼間は夜羽が働きに出ているから、どうしても私にしか甘えられないのだろう。

 人間としての年齢も私の方が上なのだ。お姉様として甘えさせてあげるのもやぶさかではなかった。

「よし、これで全部教えたな」

「……あの、探偵ものだけ棚が分かれているのはどうしてなんですか」

「あっちは海外ミステリーで、こっちは日本作家のものだからだ」

「あれ? でもコナンドイルの作品が、いくつか日本作家の棚にありませんでしか」

「本当か。や、これは失敬、置き間違えておったわ」

 オジサンは豪快にガハハと笑った。

 間違いを指摘しても嫌な顔ひとつしないとは、すごい人だ。照れたように頬を掻くと、ごく自然に身体を動かしていた。英恵さんだって、何も知らない私達に懇切丁寧な説明をしてくれたし。

 あぁ、この店は。この古本屋は。

 私が働いても、心が折れたりすることもないに違いない。

「あの、おじさん」

「なんだい。あ、私のことは達郎でいいから」

「……達郎さん、私頑張りますね。明日からでも」

 拳を握ってやる気をアピールすると、英恵さんの旦那である達郎さんはにこやかな笑みを浮かべた。うっし、好印象ゲットだぜ。

「ま、今日はお客さんもいないし、あとはのんびりしていてくれていいよ」

「お客さんが来たら『いらっしゃいませ』だけ、よろしくね」

「はい」

 気付くと、いつの間にかマルが私の横に立っていた。

 にこやかに笑みを浮かべているし、うん。いつものマルだった。バイトが決まったことにも、その研修をしていたことにも、さして感動していないような顔だ。こういう子が世間をよく渡っていけるのである。

 万が一にもお客さんが来ることがあったなら、全部マルに押し付けてしまおう。私は彼女の反応を見ながら、何をすべきかを考えるのだ。よし、それがいい。そうしよう。

「明日から頑張ろうな」

「うん。ラグちゃんもね」

「ん」

 自分が身代わり人形にされることにちっとも気付いていない様子のマルの頬に触れると、もっちりとしていて指が吸い付くようだった。夜羽の、やや硬質な頬とは違うその感触に何も感じることがないから、私達の関係性は保たれているのだと思った。

 夏が終わる。

 そして、私のアルバイト生活が幕を開けたのだった。

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