第9話 彼女のアルバイト。

 猫にだって、嫌いなものは山ほどあるはずだ。

 人間から見た彼女達が如何に平穏で苦役とは無縁な生活を送っているように見えたとしても、その実、心の中に嵐が吹き荒れている可能性だって存在する。気楽に生きているような人間が他人に知られないように悪意や悩みを抱えていることだってあるはずだから、何事も一考に値すべきものだと思う。

 そういうわけで、私は不貞寝をしているラグの頬や首筋をペタペタと触り続けているのであった。何がそういうわけなのか。多分、私ほど呑気そうな奴でも猫や犬や、同居人の美少女のすべすべな肌に触れることで癒しを得なければ暮らしていくだけで疲れてしまうと言うことだろう。ホントか、それ。

 決してマルとは違うすべすべした肌触りに魅了されて手が離せなくなっているわけではないし、眠っている美少女に悪戯をしてやろうという悪い心が鎌首をもたげたわけでもない。

 あと、彼女が人間になったばかりの頃の意趣返しでもないのだ。

 私が百合なわけでもないぞ。キスしたいわけじゃないし。 

 私はただ、ラグを起こしてあげようとしているだけなのであった。

 朝目覚めてから都合十五分ほど、それが当然の権利であるかのように私の横で添い寝をしていた彼女の身体に触れ続けているが、一向に起きる気配がみられない。今日は昨日、唐突に決まったラグとマルのバイト先見学の日だ。金城さんに手を貸してもらうのだし、遅刻するのはダメなのだ。

「起きろー。もう時間だぞー」

「ん……あとごふん」

「猫から狸になっちゃうぞ。ほら、起きて」

「えっ、それは本当ですか」

「冗談だよ。マルは純真だなぁ」

 何度か注意はしているのだけど、軽いジョークや適当に吐いた嘘を、そっくりそのまま正直に飲み込んでしまうのはよろしくない傾向だ。ラグとセットにすればちょうどいい、のだろうか。それでいいのかな。

 んー、分からないから放置。今はそれでいいや。重大な問題でもないし。

 起きないなら仕方ないと、家で留守番させるつもりで準備をする。そうして諦めて、マルと一緒に朝ご飯を食べていたらラグは起き上がってきた。私のシャツを寝間着代わりにしているのはいいのだけれど、若干、下着が透けていた。私も透けていたのだろうかと、一人暮らしの時は考えもしなかったことが脳裏をよぎる。

 どうせ見せる相手もいないし、見てくる相手もいないし。うーん。それはそれで、年頃の乙女としてどうなんだろう……。

 ふとラグに視線を戻すと彼女の胸元に視線が吸い寄せられた。トップとアンダーの差が大きいから、本来のサイズよりも大きく見えるようだ。シャツ一枚でも視覚効果としてはすごいものがあった。……ちょ、ちょっとだけ触ってみたいかも。

「私のご飯は?」

「……ん、うん。準備するから座って。マル、牛乳出してあげて」

「はーい。ラグちゃん、冷たい奴でいい?」

「ううん。私はココアがいい。甘いのが飲みたいし」

 牛乳だって十分甘いと思うんだけどなぁ、とシナモンを入れた私のコップを見る。今日のは粉を入れすぎて、溶け切っていないシナモンがコップの表面に浮いていた。

 うむ。

 余計なことは言わないようにしよう。

 ラグの分のハムや卵を焼いて、彼女の前にトンと置く。大きな欠伸をひとつすると、彼女は黙々と朝食を食べ始めた。

「眠そうだね」

「考え事をしていたら、眠くなって」

「ラグちゃん、何か困ったことでもあったんですか」

「……夜羽以外の人間には、まだ慣れないから」

「あぁ、バイトが不安なのか。ラグも神経質だねぇ」

「夜羽とマルが能天気すぎるんだと思うけど」

 わっはっは、そんなバカな。私だって緊張はしているぞ。ただ、紹介してくれた人が金城さんだから特に心配する必要もないだろうとたかを括っているのだ。

 大体、ラグの態度の方が驚きだよ。変身した初日、元飼い主に向かってあれほど熱烈な求愛行動アタックを仕掛けてきた子とは思えない。私も似たような所がないわけじゃないから、そうかそうかと首を縦に振るけれど。

「大丈夫だよ。いつか馴れるし」

「いつかって、どのくらいです?」

「んー。分かんない。バイトにもよると思うけどなぁ」

「私達には積極的にやらせようとするけどさ。夜羽はバイトしたことあるの」

「はっはー、それを聞かれても困るなぁ」

 珍しく呆れたような目を向けられてしまった。マルの方はよく分かっていないらしく、うまうまと目玉焼きを頬張っていた。

「ところで、夜羽はどんな仕事やっているんだっけ。聞いたことないかも」

「あれ? とうに知っているものだと」

「聞いたことないです。ね、ラグちゃん」

 そうだったのかー。

 これもいい機会だからと、彼女達に私がやっている校正の仕事について説明をすることにした。といっても、詳しい話をしたら数時間かかってしまうので適当に割愛しながら喋ることにした。

 誰が仕事を取って来るのか知らないけれど、毎日のように文章をチェックして正しい日本語であるか、前後矛盾した文章になっていないかを確認している。それが私の仕事だ。色彩の校正を専門にしている人、レイアウトやその他諸々を中心に校正をしている人もいる。これらの作業はすべて個人レベルで完遂することも不可能ではないのだけれど、うちの会社では多人数であると言う利点を生かして、それぞれが自分の最も得意と思われる分野での作業を行っているのであった。

 文章をチェックする、恐らく最も一般的な意味での校正を担当する人間にも複数の分担がある。初稿を担当して文法的な間違い、不適切な意味や解釈で用いられている単語の発見等をしている私や、初稿を直して上がって来たものから、最初の校正を擦り抜けてきた間違いなどを発掘していく再校担当の山川さんなどがいる。この担当者も、文章の内容やチェックリストの内容を加味して色々と分担しているところがある。詳しいことを説明すると数十分かかるし、手元に資料を持ちながらでないと私もマルやラグへ完璧に説明する自信がなかったため割愛することにした。

 例外的に小説に対しては個人的な意見を差し挟むことがあるけれど、これは良し悪しと言ったところか。そんな意見求めてねーよと再校担当の山川さん宛に、なぜか本来なら私にあてられるべきが送付されてきたこともある。

 ま、そこは個人の主義主張。

 完全に均一化された仕事なら、全部パソコンの校正ツールを使えばいいのである。ツールではない、人間にしか判断できないものもある。でも、それがいつか技術という無慈悲な善意に根絶やしにされ、消える未来が訪れる日が来るかもしれない。いつか、私の仕事もなくなるのかなぁと少しだけ心細くなった。

「つまり、本に関わる仕事か」

「そうだね」

「その割に本が少ないよね。夜羽の部屋、すっきりしてるし」

「んー、別に読書が趣味ってわけでもないし」

「だったら、どうして校正をしようと思ったんです?」

「私でも出来そう! ってのが正直なとこ。うん、勉強すべきことが多過ぎて、最初の頃はこの道を選んで良かったのかなとは思った。でも好きだよ、この仕事は」

 好きなことでお金が貰えるなら、それに越したことはない。

 嫌だ嫌だと叫びながら喧嘩腰で上司と向かい合い、ストレスを借金のように抱えながら生きる生活と比べれば数万倍マシだ。お給料は、あまり良い方とは言えないけれど。結婚して、子供が出来てと考えるとキビしいくらいなんだけど。

 猫ちゃんとワンちゃんを飼って、安くて古いアパートで一人暮らしをしていくことが出来る程度には仕事が貰えるのであった。

 新入社員の年収が二百万と少ししかないことも多い現代において、実は相当に優良な仕事場所だということを最近になって自覚してきている。

 ま、友達と遊ぶことがないからね。

 ゲームとかで散在することもないし。

 私の生活は出費が少ないのだ。うーん、悲しい現実だなぁ!

「よし。今日の片付けはラグお願い」

「はぁー。やる気でないなー」

「もう、そんなこと言わずに! 甘やかしてあげるから」

 抱っこしてあげるよ、と言ったら二秒と迷わずに抱き付いてきた。

 胸にぐいぐいと顔を押し付けられて、この行為には邪な想いがあるんじゃないかと勘繰ってしまったけれど相手を疑い過ぎるのはよくない。身体が勝手に反応しているだけという可能性もあるし。

 いや、ないか。

 あんまり抱き付かれていて暑いので、適当なところで離れてもらった。

 彼女が皿洗いをしている間、まだパジャマ姿だったマルを着替えさせることにした。ラグは放っておいても着替えてくれるけれど、マルは放置すると一日中パジャマだからな。私が監視しなくてはいけないのだ。

 結果として、小柄な女の子の着替えを眺めることになった。

 華奢な身体。朝陽に透き通るように白い素肌。色気のない白い下着。どこをとっても子供だった。大切にしたいなぁ、と狼から羊を守る地主みたいな気分になった。

 皿洗いを終えたラグを労って、彼女が着替え終わるのを部屋の外で待ち、持っていく荷物などの確認を済ませてから家を出た。階段を降りていくと、駐輪場に併設された喫煙所で金城さんが煙草を吸っていた。

 マルはそのまま近づいていったけれど、ラグは顔を顰めて私の後ろに隠れ、階段を降り切ったところから動こうとしない。

 煙草が苦手なのか、金城さんが苦手なのか。

 多分前者だろうと、金城さんの方から向かってくるまで動かないことにした。待っていると、煙草を吸い終えた彼の方から近寄ってきた。珍しく、彼が手を振っている。

「おはよう、新堂」

「おはようございます。待たせちゃいましたか」

「いいや。丁度来たところだよ」

「……アンタ、臭いよ」

「語弊がある言い方しないの。煙草の匂いが苦手なんでしょ?」

 ケンコーヒガイ、アクエーキョー、と呪文のように唱えている。

 私がお酒を飲んでるときは何も言わないのに、煙草の時だけ文句を言うのはなんだかズルい。そんな気がして頬を抓ってみたけれど、金城さんは笑っていた。

「すまない。煙草が嫌いなら、教えてくれればよかったのに」

「言ったら二度と吸いませんか」

「君の前では吸わないようにする。あぁ、これは約束だ」

 なんだか、普段より声のトーンもやや高い。

 いつもよりも明るい雰囲気になっていた。

「金城さん、何かいいことありました?」

「ん、私も気になります」

 金城さんが乗って来たらしい原動機付自転車に興味津々だったマルが、周囲に真っ白な羽根を飛び散らせんばかりの可憐な足取りで戻ってきた。私の隣で陰のあるお嬢様オーラを全開にして気温を三度ほど下げているラグとは対照的な明るさだった。

「マックスが夜間の仕事をやめたんだ。飯を一緒に食べられるようになったし、何より、夜中に襲われなくても済む」

「えっ……。襲われていたんですか」

「まぁな。百歩譲って布団に潜り込んでくるまでは許せるんだが、ケツ触ってきたりだとか、腹の表面を指でなぞって来ることもあったからな……寝る時間が一緒なら、ある程度は警戒できるようになるし」

 日中の仕事で疲れて、堂本君はすぐ眠るようになったそうだ。結果として彼に襲われる機会はぐんと減り、睡眠の質が相当に向上したらしい。その話、どこかで聞いたことがあるなぁと思って横をみるとラグが私の腕に抱き付いたまま、そっぽを向いていた。

 半目で睨むと、私達の間には愛があったから大丈夫、と意味不明なことを言い始めた。それ、家族愛であって変なものじゃないからね。勘違いしないよーに、と頬を撫でる。キョロキョロしていたマルが、金城さんの袖をつまんだ。

「それで、堂本君は? あの人はどこへ行ったんです?」

「あぁ、あいつはバイトだ。何やら欲しいものがあるらしくて」

 限界までバイトの時間を増やそうとしているらしい。大変だなぁ……。

 マルの顔色も、ちょっとだけ曇り空になった。

「そうなんですか。面白い人だったから、残念です……」

「次はマックスも連れてくるよ」

 金城さんは、約束が好きみたいだった。

 喜ぶマルとは反対に、ラグは嫌そうな顔をした。

「堂本か。私は苦手なんだけどな」

「ラグは、私とマル以外の全員に対して苦手って言いそうだね」

「人間の心は複雑すぎて分からない。あと、オスの考えも分からないし」

 そう、なのかなぁ。

 難しいのは、誰でも一緒だよ。

 さて。

「それじゃ、行きましょうか」

「おう。あ、ここからなら歩いて行ける場所だから。ついてきてくれ」

 金城さんの指示に従って、部屋からも見えるバイパスの横を歩いていく。ふふ、歩道が整備されているから事故の危険も低いぜ。

 五分ほど歩いたところで、バイパスの上を通るように設計された巨大な歩道橋を上り、道路の向こう側へと降り立つ予定らしい。バイパス同士が繋がる広い交差点だからなのか、ここにだけ設置されている歩道橋である。

 歩道橋の階段を上っていくと、道路の向こうに遠くの景色が見えた。

 灰色の街だ。

 零細企業のビルと低いマンション、田圃と田畑が広がる田舎町だった。

 金木犀のように黄色い外装をした幼稚園が遠くに見える。私が高校生の頃に出来た施設で、一度も通ったことはない。思い出となるべきものが記憶の外へと追い出されていって、最後に残ったものが私の希望になる。

 明日を生きる糧になる。

 ……本当に、そうなのかな。

「どうした、新堂」

「――なんでもないです」

 そんな、唐突な感傷に足元を掬われても、ほんの数歩駆け足をするだけで追いつける。これが、私の掴んだ日常の風景なのであった。

 金城さんに案内されたのは、老舗という表現がぴったりの古本屋だった。店頭に並べられている本を手に取ってみれば、十数年前にタイムスリップできそうだった。ふーむ、私達が済むアパートから十分ほどの位置にあるようだな。このくらいの距離なら、毎日のように出歩いても問題ないだろう。

 あとは、店員さんがどんな感じか、だね。

「ここは大学の近くで、たまに学生が訪れる。あと、妙な本も多いから、暇潰しに古本を買いに来るスーツ組もいるらしい」

 売り上げは少ないけどな、と金城さんは朗らかに笑った。

 古本屋以外に収入源があるからやっていける、半分以上が趣味のお店みたいだった。

 古本屋から目を逸らして遠くに視線を向けてみれば、大学があるというのも本当だった。デカくて白い建物が見えている。校章みたいなものが建物に張り付けてあるから、多分間違いはないんだろう。

 でもなー。高校を卒業して就職の流れだったから、どうしても大学と言うものに対する不信感が拭えない。何をするところなんだろう。高校の頃の発展形として、基礎科目を教えるだけなら行く意味も薄い。専門科目を学びたいだけなら専門学校へ行った方がみっちり教えてくれるような気もするし、うーん。

 とかく歴史系統の科目の点数が低かった私は、受験でいい大学へ行ける気がしなかった。ハナから諦めていたので調べたこともないけれど、興味のある大学へ進もうとしても点数が足りなかったことだろう。

 ま、それはそれ。

 過ぎ去った季節は永遠に墓の下にでも埋めておけばいいのだ。

「よっし!」

 気合十分、本屋に入って挨拶をしよう。蜘蛛の巣が目立つ店内に踏み入って、声を上げる。

「ごめんください」

「……ふぁい」

「ひぃぃっ!?」

 右斜め下四十五度という予想外の角度からの返答にビビって後ろへ飛び退いた。金城さんにぶつかって、肩を抱き留められて、なんだか恥ずかしくて変な気分になる。しかも体勢を崩していて、狭い店内で、彼に抱き留めて貰ったまま動けないのが辛い。あ、あ、金城さんが身体を引くと私は倒れてしまう!

「ま、待って。バランスが」

 じたばたして一分ほど、見苦しいところを見せてしまった。

 店員っぽいおばさんは余程面白かったのか、入れ歯があったら外れそうな程に笑っている。

 乱れた服を整えて。こほん、と喉の調子を整えて。

「お仕事中失礼します。金城孝さんの同僚で、金城夜羽と申します。本日は金城孝さんの紹介で参りました」

「あー、あぁ! たーくんの同僚さんか? 若いねぇ、可愛いねぇ!」

「あ、ありがとうございます」

「しかも礼儀正しいじゃないか。やー、美人とは聞いていたけれど、ここまでとは。後ろの二人も、すっごい美人じゃないか」

「えへへ。そうですか? うへへ」

 て、照れてしまう。褒め慣れていないのだ。

 ラグも刺激されたのか、狭い店内だというのに擦り寄ってきた。扇風機しかない店内で、彼女の熱意が私の身体を焦がしてくる。

「私だって、夜羽が可愛いこと知ってるからね」

「はいはい」

「嘘じゃないよ」

「はいはい」

「ほら、そんなところで立ってないで。取り敢えず、お茶でも飲んでいきなさいよ。お仕事の話は、その後ですればいいから」

「ありがとうございます。……あれ、マルは?」

 首を回して、どこかへ行ってしまった同居人を探す。彼女は店の外で、大きく背伸びをしていた。吹き抜けた弱い風に、彼女の短い髪とスカートが揺れる。

「えへへ。太陽の光って、気持ちがいいですね!」

 くるりと回って見せるマルは、映画のワンシーンを切り取ったようで。

 採用、と店のおばちゃんが呟いたのが、私の耳には聞こえていた。


 蝉が鳴き止む季節も、近い。

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