第8話 夏休みの終わり

 光陰矢の如し、過ぎ去る年月は流水に似て。

 社会人に夏休みは存在しないとはよく言ったもので、一日中活字に付き合っていたら世間一般の高校生たちが謳歌していたであろう夏が終わりを迎えようとしていた。正確にはまだ八月が終わろうとしているだけなのだけれども、九月と十月が残暑の季節として夏を声高に主張しているから、実質夏休みの折り返し地点と言えるかもしれない。

 うん、ダメだ。

 お酒が入っているせいか、いつもより考えがまとまらなくなっている。

「ちくしょー、今年もプール行けなかったよー」

「まだ閉園まで一ヵ月くらいあるんでしょ? 行けばいいのに」

「ラグやマルの分の水着も買わなくっちゃいけないし、出費がキツいんだよぅ」

 あと、不摂生とは言わないまでも褒められた生活態度をしているわけではないため、肌を露出するような恰好をするのが憚られるのであった。完璧体型のラグを隣に引き連れて身体の線が出るような格好をすることは、流石の私でもしないのである。

 その上、他の問題もある。

 女子三人組で行ったとしよう、そしてプールサイドに立ってみたとき、果たしてちゃんと泳げるのは何人いるだろうか。私は辛うじて平泳ぎが出来る程度だし、ラグやマルに至っては泳げるのか否かすら不明である。動物時代ならいざ知らず、人間になってからの本人に申告されてもアテにならないし、誰か救護班的な役割を担える人が必須なのだ。

 そんな人、私の知り合いにいただろうか。

 ……金城さん、泳げるのかな。

 とにもかくにも、である。

「はー。お金が無限に欲しいなぁ」

「それは私も分かる」

「お金があれば美味しいもの食べ放題ですよね」

「そうだぞマル。ついでに夜羽のハートもガッチリだ」

「……あのねぇ、私はお金じゃ買えないんだぞ」

 不敵な笑みを浮かべていたラグに釘を指しておく。でも、裕福な人に惹かれるのは事実だった。

 どれだけ格好良くて親切で私のことを理解してくれる男性が相手でも、無職だったら結婚を諦めるだろうなぁってことを考える程度には現実を見ているのだ。白馬に乗った王子様にも憧れはするけれど、私の好きなタイプは狭いアパートでも毎日笑って過ごしてくれそうな男の人なのである。

 さて。

 納期は三倍もあった癖に普段より遥かに疲れた校正が無事に終わって、私は納品祝いにお酒を飲んでいた。帰りのスーパーで、特売品のコーナーに並んでいた桃のお酒である。果肉入りと書いてあった通りに、口に含めば細かく切り刻んだ桃が舌の上を転がっていく。それ以外は特筆することもない普通のお酒という感じで、そりゃ売れ行きも好調とは行くまいな、と思った。

 うん。私が担当した小説みたいなものだ。好きな人はとことん好きかもしれないけど、世間で大ヒットするほどじゃない、みたいな。

 世の中、世知辛いねぇ。

 ちなみに、おつまみは一緒に買ってきたチーズクラッカーである。胡椒が効いてて美味しい。明日は土曜日、それも8月ラストということもあってグビグビ飲むことにした。でもお酒に強くはないので、ある程度のペースは守っている。

 粗相をして、ラグやマルに迷惑をかけると恥ずかしいからね。

「ふぅ。……ふぅ」

「どったの夜羽。疲れたの?」

「ん。それもある」

「眠いんです? お布団準備しましょうか」

「大丈夫だよマル。まだ、眠らないから」

 心配してくれる美少女二人の頭をよっしゃよっしゃと撫でる。私と一緒にお菓子をつまんでいるマルも、私の膝の上で安らいでいるラグも、一様に私の同居人なのであった。だから、分け与える優しさも同一のものであるべきだ。

 折角彼女達が動物から人間になったというのに、プールにも行かなかったし、花火大会に連れていくこともしなかった。夏祭りの日も仕事に追われていたし、ようやく休みの日が出来たと思ったら疲れて家でゴロゴロする始末だ。

 せめてもの気晴らしと選んだのがかわいこちゃん達に囲まれての晩酌である。うん、かわいこちゃん達のストレス解消などを一切考えていない辺り、私はから脱却出来ていないみたいだ。

 これだから、自分勝手な奴はダメなんだよ。

 などと、自分に刃物付きブーメランを投げてみた。綺麗な放物線を描いて戻ってきたから、慌てて言い訳を取り繕う。彼女達だって人間になったのだから、もっと自分から行動をするべきなのである。何処に行きたい、何をしたい、それらを告げてくれれば私だって精一杯の努力を持ってそれに応えて見せようじゃないか。

 本当に出来るかどうかは別なんだけどね。

「ふぅ」

 何度目か分からない溜息を吐いて、膝上のラグを撫でまわす。彼女の髪を梳くたびに、指を抜ける髪の毛が私の心の表面を撫でていく。そして、汚れや疲れを一緒にぬぐい取ってくれるようだった。

 ラグの求愛に散々嫌な顔をしている私だけど、寂しさを感じることもある。何かを成し遂げるには自分の力が足りない時、目標が迷子になって立ち止まってしまったとき。そんなときは、愛する家族たちに癒されて頑張って来たのである。

 ひょっとすると、社会人になってからの私は、それまでの私よりも打たれ弱くなっていたのかもしれない。肝っ玉母さんの庇護下にいたもんなぁ。さもありなん、と言ったところか。

 ふぅ。

 また、ため息が漏れた。

「夜羽さん。これ美味しいですね」

「でしょー。食べすぎると、マルだって太るんだから気を付けるように」

「太ると、何か悪いことがあるんですか?」

「ぷにぷに感が増すのは嬉しいんだけど、あんまり太ると病気にもなるんだし」

「ほぉー。分かりました。気を付けます! ……はむっ」

 んー、本当に分かっているのかぁ? マルの頬を触ると柔らかい。幼児体質なのか、指に吸い付く肌触りだった。太っているわけじゃないんだよなという確認のためにお腹周りをつつこうとして、無言のラグにたしなめられた。人に触られるのは嫌いだけど人に触るのが好きな奴は面倒だからなぁ、そういう意味合いで止めたのだろうか。

 そういえば。

 住民票の件は確かに堂本くんの言う通りだった。申請をしに行ったとき、市役所の人は目に靄がかかったようになっていて、なんだかよく分からないままラグ達が人間としてこの世に生を受けているという証拠になる書類が出来てしまった。そう、出来てしまったのである。

 出てきた、というのじゃない辺りが怖い。ラグやマルが、この世に存在していないはずのものだと言うことを再認識されられてしまうみたいだった。

 氏名欄に穴の開いた住民票を眺めながら、窓口で担当してくれたお姉さんはラグとマルに名前を求めた。ラグは自分を万江辺まえべ絵里えりと名乗り、マルは野々山ののやまひまりと名乗ることを決めた。しかし私は彼女たちを今までどおりにラグ、マルと呼んでいる。

 そう望まれたのだから、呼んであげるのが筋だろう。

 それじゃどうして別の名義を作成したのか不思議なのだが、彼女達には彼女たちなりの考えがあるのだろう。ただ格好良くて名前を付けただけってのは……有り得るなぁ。

「夜羽。手を貸して」

「もー。甘えん坊だなぁ〜」

 隙あらば擦り寄ってくるラグに手を差し伸べてあげると、彼女は不承不承を装いつつも嬉々として私の手を取った。

「別に甘えているわけじゃないし」

「でも、にぎにぎしたいんでしょー?」

「それ、バカにしてるの」

「んなわけないでしょー」

 などと珍しくラグを甘やかしている理由であるが、それは今日のラグの行動にあった。なんと、彼女は街頭でのティッシュ配りをやっていたそうである。既に何日か働きに出ているため、彼女が私に差し出してきた金額はそれなりのものとなっている。まぁ、それはラグのお金なんだから、私に渡されてもちょっと困るくらいなんだけれど。

 無理にバイト先を見つけなくても、というかアンタ人見知りするだろ、とか色々思うことはあった。でも彼女が働きたいと言うなら止めはしない。

 だって、一人の稼ぎで三人も食べていくなんて無理だからね! ラグが自分の食費だけでも出してくれるようになったのなら、とても嬉しいことである。

 きっと、こうして頭を撫でてもらうことが目的だったのだろう。そう思うことで彼女の努力を変に崇拝せずに済んだ。

 ちなみにマルは市役所で渡された書類に満十六歳と記載されていた。うん、ギリギリ中学生は脱していたのだけれど、バイトを見つけるのは大変そうだった。ラグの方は十九歳だったけれど、高校を卒業したという履歴がなかったから面接を通ることの出来る場所はやや限定されてくると思う。バイトというものに詳しくない私が何を言っているんだと言う感じだが、世間様が学歴のない人間に厳しいことは私自身がよく知っている。

 真面目に校正して、「ここは他の表現を使った方が」と指摘したがために我が社宛に十ページもの抗議文を送りつけてきた人とかもいたりするのだ。高卒のくせにバカにするんじゃねぇとか、そんな感じのことが様々な表現でもって書かれていた。

 小学生低学年相手に厳粛とか粛清とか、そういう表現を使う作家の方が世間知らずだと思うのだけど……おっと、いけない。これは私の愚痴であった。

 彼女達にバイト先を探して貰うよりは、金城さんからの連絡を待つほうが安泰だろう。そう考えて私は悠長に構えている。

 のんびりと、初めてあった頃よりも少し伸びたラグの髪をすく。ほぼほぼ一ヶ月が経とうとしているわけだもんね。そりゃ、髪も伸びてくるわけである。

 私が撫でている間、彼女は気持ち良さそうに目を瞑っている。マルはお菓子を食べながら、お酒とはそれほど美味しいのだろうかと興味津々の様子だった。飲ませないけど、匂いくらいならどうだろう。

「……明日は何かしたいね」

「遊びます?」

「あ。私はボードゲームがやってみたいな。小説にでてたやつ」

「ラグの癖にお洒落なことを……ねぇ、外に行こうよ。家の中ばかりにいるとキノコ生えてくるぞ」

「ほ、ホントですか?」

「嘘に決まってるじゃん。マル、素直すぎ」

 アンタはダウナーに入り過ぎだぞ、と髪をわしゃわしゃする。うきゃー、となぜか嬉しそうにはしゃいでいた。

「あ。夜羽、あの人からは連絡会ったの」

「金城さん? んー、最近は忙しそうで。あんまり私達のことで手を煩わせるのもなあって」

 出世頭にでもなったのか、彼の仕事は増えているみたいだった。出世する先もないのに何が出世頭か分からないけれど、ともかく大変そうなのである。私の方だって負けてはいない。ひとつの仕事を終えれば次が、それを終えれば次の仕事が、休む暇もなく私の前には立ちはだかってくる。あの未完成品な小説の初稿をようやく終えて納品したと思ったら、今度は個人出版を多く排出している会社から似非健康医療みたいなのが届いたっていう話は一ヶ月くらいしていても文句は言われないだろう。

 ホントにこれ正しいの? とインターネットを使って政府公認の医療サービス等々に検索を掛けつつ、妙な数値が当てはめられたグラフのスケールを直す仕事をしていた。納期も短めだし、急がねばならないのだ。

 だから金城さんと話す暇はないんだよねー、と脳内会議をしていたらラグに睨まれていた。

「……? どったの」

「私はあの人、としか言ってないよね。それでもあいつの名前が出るんだ」

 伸びてきた彼女の手に、頬をもみくちゃにされる。よーしよし、なんだか分からないけど寂しかったのかな。仕事疲れで心が弱っているのかもしれない。私もそうだったからなとラグが呟いた意味深長な文言を無視することに決めた。

 その質問に応えない代わりに、思う存分甘やかしてあげよう、というのが伝わったらしい。彼女は私に抱きついてきた。数日働いただけでこれとは先が思いやられるけれど、ラグは知らない人が苦手みたいだしなー。

 市役所へ住民票を取りに行ったときも、土日やすみを使って一緒にお買い物へ行くときも、彼女は人が多いところでは大人しくしていたし。悲しいかな、黙っていても美人は衆目を集めるもので、彼女の意志とは裏腹に沢山の瞳が彼女を追いかけていたのだが。

 ラグが頬をすり寄せてくる。結構際どいラインだけれど、まぁ出会った当初と比べれば何のことはない。キスを迫ってきたわけでもないし、このくらいは適正だ。否認することもないだろう。

 うにゃうにゃと猫みたいにじゃれあっていたら、誰かから電話がかかってきた。

 表示された名前を見て、私はすぐに正座をして通話口を耳にあてる。相手は、金城さんだった。

「ごめん、俺なんだけど。……時間、大丈夫?」

「はい、どうぞどうぞ」

「夜は忙しいだろうに、すまんな」

「はっはー、そんなことないですよ。仕事してないときは、ホントに暇してますから!」

 電話の内容が気になるのか、ぎゅっと抱き付いてきたラグを引き剥がすのは面倒だったから放置して話を続ける。すぐ暑くなったから、やっぱり引き離そうと心に決めた。

 うん、電話の邪魔にならない程度に。

「最近忙しくて、この前の約束を放ったらかしてて……本当に申し訳ない」

「いいですよ、金城さんは持ち帰りまでしてたみたいですし」

「バレてたのか。一応、課長には内緒にしてくれないか?」

「はいはい。一応、業務規程ナントカですもんね。金城さん以外にも、やっている人は意外と多いみたいですけど」

 話しながらびしっ、びしっとお尻を叩いていたら、音もなくラグが離れていった。私を恨めしげに見つめていたと思ったら、妙な顔付きのままマルへとダイブしていた。

 うーん、乙女心は複雑怪奇、私には理解不能だ。彼女たちが当人同士で仲良くなっているのなら、それに越したことはないけれど。

 なんか違うかもしれない。

「君の同居人に働く気があるなら、そろそろウチの親戚に紹介しようと思うんだが。大丈夫かな」

「はい。勿論ですとも! 何時いつ、何処に行けばいいですかね」

「出勤場所は君の自宅近くだから、まぁ、俺が出向くよ。時間は午後2時くらいがいい。それで日付なんだが、君達の都合さえ良ければ明日にでも紹介しようと思っているんだが」

「はい、それじゃ明日でお願いします」

 喋っているだけで、ふふん、と楽しくなる。何が楽しいのか分からないけれど、ともかく心が躍るのだ。服装などの細かい話を聞いて、電話を切るとき妙な寂しさに襲われた。

「あの……」

 もう少しくらい喋りませんか。そう言いたくなる気持ちは、ぐっと堪えた。

 これ以上前には進んじゃいけない。そう感じたのだ。

 通話を終えると、ラグがマルに泣きついていた。

「ご主人に振られた……私の愛は迷子なんだ……」

「ラグちゃんにもいい人が見つかるよ。だから、だいじょーぶ」

「ぐすん。マルには分かんないんだよ」

「そうだね。私には、難しいことは分かんないから。よしよし、いーこいーこ」

「マル~~~」

 な、なんだか知らない間に三問芝居が始まっているぞ。マルの膝に顔を埋めているラグは、時折私の方へと視線を寄越して反応を伺っているようだし。あ、あやつは策士なのか? 見え透いた作戦はバカにしか通用しないんだぞ!

 大体、振るも何もないじゃないか。私は、ラグやマルのことを――。

 思ったけど言えないまま、曖昧に笑って言葉を濁すのだった。

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