第6話 なんスか、俺は犬ッスけど
翌火曜日から木曜日まで、特筆するような事件や出来事もなく。
何やらよく分からないままに始まった元ペット達との共同生活は、順調にその重みを増していた。神様も応援してくれているのか、天気だって毎日のように快晴だ。
朝起きるのも楽しければ、夜も安らかに眠れて心地がいい。順風満帆の人生を無料サービスで体験しているような気分だ。すごいぜ、お喋りに興じてくれる相手がいると言うのは、それだけで人生を豊かにするものなのだ。
不可解な出来事だって、蓋を開けてみれば神様からの素敵な贈り物だったようだ。よもや嫌がらせで人のペットを人間にするはずもないだろうからな。
「案外、成せばなるものですね」
「そうか」
「問題があるとすれば、私一人の稼ぎで三人が食べていくのは無理ですし、どうにか手段を考えなくちゃいけないんですけど」
「そうか」
私としては珍しく早めの出社をしたのだ。気分よく、窓に近い席に座っていた金城さんへと話しかけてみた結果がこれである。張り合いがないどころか、反応があってないようなものである。
私達の関係がペットと飼い主だった頃よりも親しいものになったことを伝えても、金城さんは喜んでくれなかった。どうやら他ごとを考えているらしく、視線もあっちの方を向いている。
「猫や犬に住民票なんてないわけですから、バイトも出来ないんですよね。だから厳しいなぁって」
「そうか」
「金城さーん、ちゃんと聞いてます?」
「聞いてるよ。あぁ」
眠そうに欠伸をすると、彼は目尻をこすった。余程眠いのか、始業時間まで寝かせてくれと机に突っ伏してしまった。頬を突いても彼からの反応は鈍く、本当に疲れているみたいだったから相談は後回しにすることを決めた。
あんまり騒ぎ回っても周囲の人にラグとは? マルとは? みたいな話を聞かれてしまうだろうし、そこからペットが人間になったなどという話をする破目になれば私の頭がおかしくなったと思われかねない。
あぁ、残念だ。ペットが友達になったよ! 友達増えたよ! と自慢するチャンスだったんだけどなぁ。
仕方ないや。
自分の席へ戻って、今日の校正の準備をする。赤い鉛筆、青い鉛筆、その他諸々の道具の確認だ。それが一通り済んでから、引き出しにしまっておいた原稿を取り出した。月曜日に金城さんから手渡されて、まだ終わっていない仕事である。およそ三百ページの小説で、普通なら一週間ほどで校正を終えて納めるのが基本だ。しかし今回の作品は筆者だけでなく著者の方も執筆途中で諸々のことを諦めてしまったのか、内容が雑過ぎることを鑑みて普通の三倍近く猶予を貰っている。ある意味、すごい仕事だった。
だけど、余裕を貰ったとしても無理なものは無理なのだ。
キツい仕事はキツいまま。責任の所在は
主人公から各登場人物への呼び方が安定していない時点で、もうこれは私の仕事ではないのでは? と気分が暗くなっている。実は主人公が入れ替わっているとか、複数人の人間が主人公だというのを読者に気付かせるための策なのかとも思っていたがそれも違った。
ただひたすら読みにくいだけ。
小説として面白いかどうか以前に、文字として追いかけるのが苦痛だった。
「これ、本当に小説なのか……?」
自分が中学生時代に書いた謎ポエムや短編小説を極力思い返さないようにしながら、昨日までチェックしていたところを見返していく。私も初稿で死にそうだけど、再校の人も死んじゃいそうだな。
直したところが多過ぎる。目がチカチカしてきた。
ぐでっと椅子に身体を預けていたら始業時間になったから、いつもと同じように
かぷかぷとペットボトルから少量ずつの水を含みながら腕を動かして、思考回路が焼き切れるような文章を文字ごとに区切って追いかけているうちにお昼休みの時間になった。
念のために金城さんの元へと向かってみたけれど、今日は他の女性社員さんとお喋りをしていた。だけど溜め息ばかりを吐いていて、向かいに座って一緒に仕事をしていた社員さんへの相槌も適当だった。私でよければ話し相手になりますよと言ってあげたかったけれど、本当にただの話し相手にしかなれない気がしたので何も言わないことにした。
相談を受けると言うことは、相手の鬱憤すべてを受け止める覚悟があるか、相手が抱える問題に対しての解決策を生み出す覚悟があるかということである。そのどちらも持ち合わせていない私は、相談相手として不適当に違いなかった。
ご飯を一緒に食べようなどと、自分から誘うことも考えたけれど断念した。食べに行く場所で女子力を計られてしまうと、この近くのお店をほとんど知らない私には不利な気がしたからである。
何が不利とか、そういうことを論理的に考えると混乱する気がしたので止める。
気分だよ気分! 今日の金城さんは、なんだか近寄りがたいのだ。
最終的に、いつもの席でお昼ご飯を食べることにした。出社して荷物を置くだけの場所だ。あまり喋ったことはないけれど、入社以来ずっと席が隣同士になっている山川先輩の横でお弁当、というか買ってきたものを食べることにした。彼女は常に落ち着いていて寡黙な人だけど、周囲に気を張っているわけでもないから、傍にいて疲れることがないのである。
会社を出てすぐのところにあるコンビニで買ったサンドイッチを
ふと隣を覗くと、結構手の込んだお弁当が広げられていた。オクラの胡麻和えにトマト入りっぽいオムレツの他、結構な種類の野菜が入っていて色合いもいい。栄養素をグラフで示したら百点満点が貰えるだろう。ひょっとすると万点かな。山川先輩は将来、旦那さんに愛され過ぎて困るに違いない。
箸の持ち方とかにも気品があるなぁ、これがオトナってものかぁ、などと失礼なことを考えつつ眺めていたら彼女から声を掛けられてしまった。
「何かしら」
「あっ、ごめんなさい。……そのお弁当、山川先輩の手作りですか」
「そうだけど」
「毎日すごいですね。私なんかコンビニ弁当に頼ってばかりなのに」
「独り身だし、他に趣味もないから」
はへー、趣味でやっているのか。すごいなぁ。
特に喋ることもないのでサンドイッチに向き直る。一人には慣れているのだ。仲の良かった子は、大抵別のクラスだったし。そうして黙々と食べていると、あっという間にお昼ご飯を食べ終わってしまった。男性社員は煙草を吸いに喫煙室へ向かったりしているけれど、私にその趣味はない。お喋りに花を咲かせている集団があるかと思えば、金城さんと一緒に机でぐったりと眠っている人もいる。
「ご馳走様でした」
手を合わせた後は、私も寝ようかなー、と大きく伸びをした。
つんつんと肩を突かれて、ひょいと首を向ける。
山川先輩が私に何かを突き出していた。
「なんでしょう」
「久しぶりに作ってみたんだけど、自分じゃどうにも分からなくて」
「はぁ」
「だから、その、食べて貰えないかしら?」
差し出されたタッパーの口を開くと、中には綺麗に整った星形のクッキーが入っていた。勧められるままにひとつ齧ると、夏の草原を抜ける風のように爽やかなレモンの香りが口いっぱいに広がった。噛みしめている時も口内の水分が余分に奪われることなく、砂漠をしっとりと湿らせる雨が降っているようだった。
しゅごい。
「お、美味しい……」
「気に入った?」
無言で首を縦にブンブン振ると、彼女はタッパーごと私の手に預けてきた。
「いいんですか」
「うん、貰って頂戴。まだ家には沢山あって、割と困っているから」
「ありがとうございます」
甘やかされるまま、先輩お手製のクッキーを頬張っていく。途中で飲む水すら美味しく感じるのだから、このクッキーには相当な愛情やら何やらが込められているに違いない。
だって、私はこんなに幸せだから。
自然と緩む頬を引き締めもせず、もっきゅもっきゅと口へ運ぶ。
「かわいいなぁ……」
「ん。何かおっしゃいました?」
「いいえ。また今度持って来たときは、味見お願いね」
「はい!」
うへへ、こんなに美味しいクッキーなら毎日でも喜んでいただきますぜ。
先輩がご飯を食べ終わった頃を見計らって、料理が上手くなるコツを尋ねることにした。レシピを見て正確に真似をすることが一番の近道だと言われて、確かに私は自己流アレンジとか、分量の細かいところを無視する癖があったなと反省する。
でも話の内容は二の次で、実は先輩とお喋り出来たことの方が嬉しかったりするのだけれど。うんうん、交流の幅が広がるのはいいことだ。入社三年目、今更遅い気がするけれど人付き合いはゆっくりやっていけばいい。
無理な付き合いなら、最初からしなければいいのだ。
昼休みが終わった後は素直に作業へと戻った。
山川先輩からの思わぬ差し入れの効果もあったのか、作者が途中で匙を投げて筆を折ったに違いない作品の校正は順調に進んだ。私に理解できない表現は中高生にも分かってもらえないだろうし、私が躓く描写なら中高生はすっ飛ばしてしまうだろう、ということでテキパキと校正していく。
校正のコツは
いつもの退勤時間に図書館から離れると、金城さんは既に帰り支度を済ませていた。あんまり素早く出て行ったものだから、一緒に帰りましょうと声を掛ける暇もなかった。
あらら、と肩を落とすと山川先輩が慰めてくれた。
「最近、あの子と仲いいみたいね」
「金城さんとですか? んー、前よりちょっとは仲良しですけど……」
人には言えない秘密を共有してもらっているからだろう。
きっと。
「もし暇なら、ちょっとお茶してから帰りましょうよ」
「んー……お誘いはすごいありがたいんですけど」
今日は用事があるので、と山川先輩に別れを告げる。彼女は残念そうな顔をしていて、ちょっぴり胸が痛んだ。これがあるから、人付き合いは苦手なのである。
結局金城さんとはすれ違うことのないまま地元の駅まで辿り着くと、予定していた時刻を十分ほど過ぎていた。
階段の下に待ち人の姿を確認して、大きく手をあげる。
「ごめーん。待たせちゃった」
「あ、ミカ」
「ミカちゃーん! こっち」
「へ?」
パタパタと手を振っているのはマル、その隣で屋内とは打って変わって陰鬱そうな顔をしているのがラグだ。どうみても私が知る二人なのだが、故意に私の名前を間違えているようだ。なんでだ。
見れば二人の男から話しかけられているようで、マルはラグの後ろに隠れていた。
「えっと、どちら様でしょうか?」
てこてこと歩み寄っていくと、彼らは何かよく分からないことを喋ってどこかへ行ってしまった。うーん、どうして私は同族たる人間からこれほどまでに避けられるのだろう。職場の人相手だと困るけど、こういう時に役立ってしまうのもなぁ。あんまり褒められた性質じゃないのに。
名前を故意に間違えていたのは、万が一にも身元を割られないため……なのかな。警戒心高すぎである。私にそれほどのリテラシーはなかった。
二人と合流して最初にしたのは、彼女達に謝ることだった。
次にやったのは、知らない人にはついていかないという約束を守ってくれた二人への、ご褒美のハグである。ラグに数十回と抱きしめられた後遺症とでもいうのか、最近は半日に一度はどちらか一方をハグしないと心が寂しさで干からびてしまうようになった。
マルは照れ笑いをするだけでも、ラグは私の脇腹を摘まもうとしてきた。アパートではあれほど甘え放題している癖に、外じゃ恥ずかしくて手を繋ぐことすら出来ないのか。羞恥ポイントがズレているような気がするけれど、この不愛想な感じのラグは嫌いじゃない。
ひょっとすると、無鉄砲で過剰な愛情表現をしている時よりも好きかもしれなかった。
さて、二人はナンパされていたみたいだけど。
「すごいなー、私なんて宗教の勧誘しか受けたことないぞ」
「そうでもないよ。オスは嫌いだし」
「そうなの?」
「うん。根拠もないのに自信満々な奴とか。他人の世界に割り込んでくる奴とか」
「どこから男性についての情報を得ているんですかね」
「窓の外から世界を眺めていたら、そのくらいは思うでしょ」
はへー、私は考えたこともないんだけどな。
空を流れる雲を見て綿飴みたいと思ったことはあるけどね。
取り敢えず駅前から離れよう。今日はようやく、彼女達の下着やら服やらを買う予定なのだ。ま、『そういう場面』に出会う機会が今すぐ訪れるはずもないだろうから、それほど色気のある下着を選ぶ必要もないと思っている。だから安めのものを選んでくれると嬉しいなー、と昼中は街を出歩いているらしい二人を横目に薄いお財布を構える。貯金はあるけど、あるだけ全部使うと心の余裕もなくなっちゃうからね。
駅に連絡通路が繋がっているショッピングモールへと足を運び、その一階に居を構えている衣料品店へと向かった。順番にサイズ違いの下着を試着室に放り込んで、二人にそれぞれ試着してもらう。始めは着けられずに私の手を借りることもあったけれど、自分に合うサイズの下着を見つける頃には彼女達ひとりでも着けられるようになっていた。
これで、明日からの着替えも心配ない。
マルは予想通りの華奢な胸囲だったけれど、ラグは私が予想していたよりも大きかったみたいだ。大きい人が下着選びを失敗すると背骨や腰にも負担が掛かるらしいと聞いたことがあったから、近くを歩いていた店員さんに選んでもらうことになった。割合可愛らしいデザインのものもあったけれど、ラグが選んだのは落ち着いた色の、どちらかと言えばオトナって感じの下着だった。
こいつ、自分の武器を分かっておるな? と私は自分が身に着けているザ・平凡という感じの下着を思い出して溜息を吐く。体格の近いラグはともかく、マルがちゃんと着まわせるようにと彼女にあった服を購入してから店を出た。
ふーむ、彼女達も私のお財布事情を鑑みてくれているのか、高くてお洒落な服ではなくても許してくれるようだ。我慢しているのか? それとも
藪蛇で触らぬ神に祟られても怖いので、喋らないことにする。
それが安全ってことだから。
さて、ここは駅に隣接した建物である。ここから自宅まで徒歩二十分だ。自転車に載せられる荷物もあるけれど、そうでない荷物も多い。もう少しかかるかもしれないな、と気合を入れ直した。
「そういえば、今日のご飯はどうしよう」
「私は特に希望ないけど」
「ふむ。マルはどうだい」
「んー。カレーが食べたいです」
「カレーかぁ。私も食べたいけど、ご飯足りるかなぁ」
そもそも論として普段は家に帰ってから思い付きで料理をすることが多かったのだから、ご飯を炊いているかどうかが問題だ。うどんしかなかったらカレーうどんになるなぁ。
「というか、二人ともお昼は何食べたの」
「食べてないけど」
「えっ。何も?」
「そうです。だからお腹すいたのです」
「冷蔵庫にあるものとか、適当にちゃちゃっと食べればいいのに」
「何食べていいか分かんないし。あと、料理なんて出来ないから」
「そっかー」
ヨハネちゃんのお料理教室を開く必要があるな。丁度今日は金曜だし、土日は当然のように会社がお休みである。この機会を利用しない手はなさそうだ。
話しながら駐輪場へ向かうと、すぐ傍の駐車場で何やら男性が声を荒げているのが聞こえる。聞こえてくる声から考える限り、兄弟喧嘩かもしれない。怒られている方は弟だろうか、兄貴、兄貴と何度も反論を試みている。
「なんだろ」
触れなければ神は祟らないハズなのに、ラグは首を突っ込みたがるようだ。
好奇心に負けて私も顔を覗かせる。駐車場の片隅で、電灯の光をスポットライトのように浴びているのは二人の男性だった。金髪の人と、スーツ姿の人がいる。
地面に両手を付けて謝っているのは金髪の青年だ。その前にいるのはスーツ姿の男性で、こちらからは表情を伺い知ることが出来ないが怒っているようにしか見えなかった。何もこんなところで喧嘩しなくてもいいのに。
まだ続きを見たがるラグの裾を引っ張って諫めると、またスーツ姿の男性が怒り始めた。
「いいか、今度勝手に俺の部屋を荒らしたら家から出て行ってもらう。それに――」
「あれっ」
金城さんの声だ。朝から機嫌が悪かったのは、眠そうにしていたのは、あの人が原因なのかな。見てはいけないものを見てしまったような気がして急いで身を潜めようとしたけれど、背後に立っていたマルにぶつかって逃げられなかった。万事休すだ。
電灯に照らされたまま、金城さんがゆっくりと振り返る。
目が、
「そこにいるのは新堂だな」
「はい。あの、金城さんですよね」
「そうだよ。あぁ、お前もこの近くに住んでいたんだっけな」
困ったことになったぞ、と金城さんが眉間にしわを寄せる。
深い溜息を吐く姿は、先週の金曜日の頼もしい彼とは別人物に見える程だった。
「えっと、そちらの方は……」
「え? 俺ッスか」
金髪の青年は自分の顔を指差すと、あっけらかんと笑った。
金城さんが彼の肩を掴み、何かを言おうと口を開き、そして閉ざした。
背中を押された彼は了承を得たとばかりに私達の方へ近寄ってくる。
私の斜め前へ進むラグ。背後でぎゅっとスーツの裾を握るマル。
そして、私は笑う膝を抑えつけるように、キッと顔を上げた。
「なんスか、俺は犬ッスけど」
にこやかに笑った彼は金城さんよりも僅かに背が高いようで。
そして、驚くほど美形だったことに、私は感嘆の吐息を漏らすのであった。
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