第5話 猫と寝る子。

 仕事を終えてアパートまで帰ってきた。気紛れな雨に打たれてスーツが僅かに濡れてしまったけれど、それが気にならないほど機嫌がいい。帰りの電車でも金城さんと喋っていたし、駅の駐輪場に放置していた自転車の回収も済ませてきた。気分は上々だし、あの二人と対峙する気力も充分にある。

 よっしゃ、頑張ろう。

 まずは帰宅することだ。

 部屋まで無事に辿り着くことだ。

 晩御飯用の冷凍餃子が入ったビニール袋を振り回しながら、アパートの階段を上っていく。途中ですれ違った大家さんにペコペコと頭を下げながら、同居人が増えても家賃があがることはなかったハズ、とうろ覚えの契約書を脳内に思い返す。ペットが人間になりました、なんて言えるはずもない。

 親戚の子供を匿っていると言っても、別の問題が発生するような気がした。例えばマルは学校に通ってないの、ラグはどうして働いていないの……とか。うん、警察に通報しなかったのは結果的に僥倖だったと言えるだろう。

 帰ってからは金城さんの提案を素直に受け入れて、彼女達から色々と話を聞くつもりだった。昨日も話を聞く努力だけはしていたんだけどなー。一日経てば、お互い冷静になって話の進度が変わってくるかもしれない。

 よっし。

「ただいま。うわっ」

 玄関を開くと、中から飛び出してきたのはラグだった。彼女は私への誕生日プレゼントとして、友人の女の子が冗談交じりに押し付けてきたネグリジェを装備していた。それは寝間着だぞ、普段着として使うようなものじゃないぞと小一時間くらい説教をしてあげたい。私も休日は一日中パジャマで過ごしたりするダメ人間だから、言っても鼻で笑われてしまいそうだけど。

 私は沢山の服を持ってないし、彼女達が好む服装というのもあるだろうし。

 まずは離れてもらおう。

「ご主人様特権により命ずる! 私から離れよ!」

「ご主人、その特権は一日三回までだからね?」

「昨日も言ったはずだけど、そのご主人って呼ぶのもやめてよ。仮にも人の姿をしている相手からご主人様扱いされるの、なんか嫌なんだけど」

「でもー、そうするとご主人様特権とは何ぞやって感じじゃない?」

 それはノリというか、言葉の綾と言うか。細かいことは気にしないで欲しい。

 思ったより背が高くて、私と同じくらい上背があるラグの頬をつねったり横に引き延ばしたりしていたら、部屋の奥からマルが顔を覗かせた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 微笑むマルは天使みたいだ。汚れ一つない真っ白なシャツと、ほんのり明るい色のスカートを着て、あぁ、心の保養になる。ラグが求愛魔人になってしまった今、私を癒してくれる存在はマルただ一人になってしまったようだ。

 にこにこと微笑みながらも、マルは私達の喧噪を遠巻きに眺めていた。

「やっぱり仲良しですね、二人とも」

「でしょ? マルなら分かってくれると思ってた」

「いや、仲良しと言うか、コレは次元が違う気がするんだけど」

 私が定義する仲良しとは随分、毛色が違うんじゃないかな。

 私の首筋の匂いを存分に嗅いでいたラグは、お腹を下から上に押すことで何とか離れてくれた。抗議の意志を示すように頬を膨らませて両手を腰に当て、瞳は恨みがましく揺れている。

 彼女はスタイルも容貌も完璧だから、怒っている表情すらも様になる。それってずるい、羨ましいと思いつつも相手が猫だからと自分を慰めることにした。どうみても、人間にしか見えないんだけどなぁ。

 葵と黒を丁寧に煉り合せたような濃い紫のネグリジェは、夏場を涼しく乗り過ごすために薄めの素材でできていた。流石に透けた状態のそれを直に着る、というのは昨日一日かけて下着を身に着けることの重要性を教え込んだ後だけあってしていないようだ。良かった。ネグリジェの下に透けているのは、私が好んで着ていた半袖のシャツみたいだ。

 私のではサイズが微妙に合わなかったから、下着を未装備なところが問題だな。

「今日もお疲れ様です。ところで、ご飯は何ですか?」

 てこてこと部屋から出てきたマルも似たようなものだ。可愛いけど、下着を身に着けていないのである。早めに衣料品店へ連れて行かねば社会倫理に反してしまう。あぁ、お財布から諭吉が旅立っていく! でも、あれだな。私が着ても似合わなかった服なのに、美少女が着ると何でも見栄えよく見えちゃうな。

 ラグも綺麗だった。言動を無視することが出来れば、彼女は夜の闇に映える深窓の令嬢と呼ぶに相応しい美貌を携えているのであった。

 それはさておき。

「今日は色々と話したいことがあるんだ。特にマル、晩御飯の後に話す予定だけど寝落ちしないでよ」

「はーい」

「話ってなに?」

「これからの私達の生活とか、その他諸々について」

「とりあえず私とキスすれば丸く収まるんでしょ? ちゅー」

 ひぃぃ、綺麗な顔をしているだけにガチなキス顔も怖いぞ。本気度合いが違う!

 あまりに雑なセクハラに気絶しそうになったのは内緒だ。調子に乗って更に雑なコミュニケーションを取ってくるに違いないからな。

「私が着替えて、それからご飯だから。話し合いはその後ね」

「で、寝るときは勿論一緒の布団で」

「次許可なく入って来たら家から追い出すからな」

 釘を刺してから着替えを取りに居間へと向かう。ふむ、未着用ならば下着もただの布と言うことなのか、箪笥の中を掘り起こした形跡は見当たらなかった。服の方も、マルに関しては私が見繕ったものをそのまま着ているみたいだし。

 よし、お風呂に入るか。

「ラグ、覗いたら今度こそ追い出すからね」

「大丈夫ですとも。一緒に入れば問題ないし!」

「叩き出すよ。マル、ラグのこと見張っといてね」

 言って、すぐにドアを閉めた。ちょっと遅れてマルの間延びした返事が聞こえる。

 ふむ、段々とラグの扱い方がわかってきたみたいだ。あぁ、喋らなければ深窓の令嬢と呼ぶに相応しい眉目秀麗な外見をしているだけに、勿体ないと感じてしまうなぁ。くそぅ。

 軽くシャワーを浴びた後、脱衣所にある鏡の前に立った。何を血迷ったのか、初任給で買ってしまった全身鏡である。買った当初はスタイル維持が目的だったけれど、実際に効果があるのかは怪しいところだ。高校の頃と比べて胸囲のサイズがアップしてはいるのだけれど、それが成長なのか太ったのか、自分一人じゃ分からないところが残念である。

 そういえば、停滞は衰退みたいな理論を武器に友人達をダイエットの世界へ引きずり込むのが上手い先輩がいたなぁ。中学の頃の生徒会長だった気がする。ま、それはいいか。

 鏡に映った、全裸の自分を見つめた。

 やや内巻き気味の髪は洗うのが面倒だから短めに切り揃えている。昔から割合痩せている方だし、スタイルには少なからず自信を持っていたけれど、ラグみたいな完璧体形ではない。そもそも、猫から変化した少女に勝負を挑んでいいものなのか? 彼女達しか実例を知らないけれど、その理論で行くと動物はみんなイケメン美女に変身することに……。

 はっ。

 いいことを思いついた。

 ラグやマルの話を元に小説の原作者になるのはどうだろう。詳しい設定資料集を作って、アマチュアの小説家さんとかに書いてもらうのだ。その時は金城さんのことも動物から人間になった設定にしておこう。進学しなかったのは生活費が必要だったからで、風貌がちょっと強面なのはニホンオオカミの生き残りだったから……ふむ。

「私、天才か? 作家になれそうだな」

「アホっぽいこと言ってないで、早く出てきてよ」

「アホとは何事かね」

 ぷりぷり怒りながらも着替えを済ませて、脱衣所から出ると横から出てきたラグに背後から抱きつかれた。想定内の事態である。もう振り払うのも疲れたから、ラグを背負ったまま冷蔵庫をのぞく。買ってきた冷凍餃子の他は、特筆すべきものがない。

 どうしようかな。

 考えていると、ラグが話しかけてきた。

「ごしゅじーん。何を作るんだ?」

「犬とか猫が食べれる奴」

「えっ。普通に人間用のでいいよ」

「……昨日もそうだったけど、なんで玉葱とか食べれるんだろ。どうして人間になったか覚えてる?」

 ラグからの返答はない。いつの間に来ていたマルも首を傾げている。ふむ、子は親に似るようだ。私の子供じゃないけど。

 質問が意味をなさないことが分かったので金城さんのアドバイス通り、お喋りに興じることにした。

 晩御飯の方は、冷蔵庫の野菜でつくる適当な炒め物と焼き餃子に決定だ。

「二人は、私がいないとき何してるの?」

 準備をしながら尋ねると、彼女達は顔を見合わせた。ラグの顔は見えないけど、マルの視線を追いかける限りそうだと思う。小さく唸ってから、マルが口を開いた。

「本を読んだりしてます。この部屋にあった本です」

「マンガとかね。ごしゅ……夜羽は何が好きなのか、参考にもなりそうだし」

「文字読めるの? 今更だけど、普通に喋れるのもすごいよね」

「文字だって書けますよ。お姉ちゃんは私達を何だと思っているんです?」

「犬と猫、だけど」

 お姉ちゃんか。いい響きだ。

 私の回答に「そっか」とマルは素直に頷いている。それでいいのか、ホントにいいのか。かわいけど将来が心配だなぁ、こういう子が悪い大人に騙されるんだろうなぁと三十代主婦みたいなことを考えてしまった。私はこの子達のお母さんじゃないのに。お姉さんでもないぞ。

 ちょっと心が揺らいだけど、この程度で突き崩されるわけにも行かない。

 野菜を切るための包丁を取り出すと、危機予知能力を存分に働かせたラグは私の背中から離れた。でも距離を遠くすることはなく、喋りかけてくる。

「知識量には差があるんだけどね。私の方が頭いいんですよ」

「そうだね。ラグちゃんの方が賢いもんね」

 ふふ、とラグは自慢げに胸を張る。ちょっと揺れた。震度二だな。

「そっか。それで、どんな本を読んだの?」

「私はですね――」

 彼女達とお喋りをしながら、ふと気付いた。

 意外と、普通に話せるじゃないか。昨日まで感じていた抵抗や苦手意識は鳴りを潜めて、楽しそうに話す彼女達の言葉を耳と心が素直に受け入れている。これも金城さんとの会話の成果か? 単純に、私が現状を受け入れたと言うことだろうか。

 分からないなぁ。

 パパっと作ったご飯の配膳だけは、彼女たちにも手伝ってもらった。母親から無理矢理に渡されてホコリを被っていた大量の食器類も、彼女たちに使われることでイキイキしている。

 三人揃って晩御飯を食べた後は片付けの手伝いをして貰った。彼女達がお風呂を済ませた後、もう一度お風呂に入った。今度は湯船につかるためだ。そして、ぬるくなったお湯の中で考え事に耽る。

 甘えるのは元飼い主としての矜持が許さないけれど、彼女達を甘やかすくらいならいいじゃないか。うん、そうしよう。駄々をこねたところで彼女達が猫や犬に戻るわけでもないし、現状が改善されるわけでもない。

 今の私がすべきは、彼女達を甘やかすことだ。たぶん。

 養ってくれ、とか言っていたし!

 お風呂を出たところで再び抱き付こうとしてきたラグを押しとどめて、溢れんばりに好意を向けてくる甘えん坊を大人しくさせる方法を考える。ふむ、こうしたらどうだろう。

「頭をなでてあげるから、急に抱き付くのはやめて。ね?」

「なんですと。それはどういう……」

「夏場だから抱き付かれると暑いし、ラグは綺麗な子だからさ。妙に緊張するんだよね」

「…………綺麗? 私が?」

「うん。だから無暗にくっつかないよーに」

 言って頭を撫でると、彼女は嘘みたいにおとなしくなった。実のところ調子付いて過激な求愛行動をしてくるのではないかと危惧して居たりもしたのだが、そんなことはなかったようだ。安心である。

 昨日開封したばかりの新品の歯ブラシを各々が持って、三人横並びに歯を磨く。色々と必要な準備を済ませて、今日はもう眠ってしまうことにした。私はベッドへ、彼女達は床に敷いた敷き布団で眠る。三人分も布団を持っているわけがないから、彼女達には冬場に使っているやや大きめの敷き布団で添い寝してもらっていた。

 ベッドの上で電気を消そうと、彼女達の用意が出来るのを待つ。ラグもマルもバスタオルをタオルケットの代わりにして、ごろんと横になった。消灯した後も私はすぐには眠れない。なんだか、寝る気になれなかったのだ。

 すぐに寝息を立て始めたラグを眺めていたら、その隣にいたマルがゆっくりと起き上がった。見ていると、こちらに歩み寄ってくる。暗闇でもしっかり見えているのか、私と目を合わせてきた。何かあったかなと考えて、マルを甘やかしていないことに思い至った。

 何かをして欲しいのかな。

 えっと。よし。

「おいで」

 小声でつぶやくと、彼女はベッドのすぐ脇に寄って来た。抱っこしてもいいかを尋ねると、彼女は小さく頷いた。本人からの許可も貰ったということで、遠慮なく。

「…………ぎゅっ」

 軽く抱き締めてあげたら満足そうに微笑まれた。細い腕が、私の背中に回される。

 結構ドキドキした。この子は天使か。

 腕の中にある小柄な少女に感動していると、彼女は煙のように腕を擦り抜けた。最後にもう一度微笑むと、マルは何事もなかったかのように自分の布団へと戻って行った。

 実は、マルの方が小悪魔系なのかもしれないな。

 そしてラグが私の家に来てから、初めての平穏な夜が過ぎて行った。

 夜這いされないことの喜びを、私はひしひしと感じていた。

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