第4話 私の仕事(つらい)

 そうか、お前は猫だったのか。

 たった一言頷いて、彼女を抱きしめればすべては丸く収まっていたのだと思う。しかし飼い猫が人間になった、飼い犬も人間になったなどということを数分で納得できる方がおかしい。金城さんの適応力が高すぎるだけの話なのだ。

 結局、何ひとつ解決しないまま月曜日の出社時間を迎えることになってしまった。

 今朝の目覚めは最低で最高な、自分でもよく分からないものだったし。少なくとも一昨日は金城さんの庇護下にあったから安心していたけれど、それじゃダメだったみたいだ。

 成人式を終えて半年後、恋人がいない歴イコール年齢の私は、ちゅんちゅこと鳴く雀とも、婚活熱心な蝉の声とも違うもので目覚めてしまったのである。布団から突き落として床で眠っていたはずの黒髪の美少女、ラグが私にぴったりと密着して眠っていたのだ。ラグだけではない。茶髪のマルも私に腕枕をしてもらう形で安らかに眠っていた。柔らかいし、なんかいい匂いがしたけれど、ひたすら暑苦しかった。これが冬ならもっと楽しめたのかもしれないけど。いや、それはないか。私は女の子が好きなわけじゃないのだ。うん。

 それにしても、と寝惚けた頭で思い出す。

 文句のつけようもない、いい寝顔だった。私が愛と欲望のケダモノだったなら、彼女達が放つ美少女オーラにタジタジになっていたところである。ふふ、例えが古すぎてあの美少女たちに言っても伝わらない気がして来たぞ。

「ふあ、あ……あかん、本当に眠い」

 隣に立っていた女子大生っぽい人が驚くほどの欠伸を漏らしつつ、朝の電車に揺られている。入社したての頃は仕事に役立つからという理由で校正に関する様々な勉強をしたりスマホで日々のニュースを追いかけていたりしたものだけど、最近は車窓から外を眺めていることが多くなった。

 私には明確な目標がない。

 生活にメリハリがないのだ。

 猫と犬に癒される他は、会社と自宅の往復ばかりだし。将来のことを考えて一人でも暮らせるようにしろ、と母親に実家を追い出されてからは帰省もしていないし。一人暮らしに馴れてしまってからは、もう実家での暮らしに身体や心が順応できるか不安だし。あと、職場からも遠くなっちゃうから通勤が辛いし。

 考える程に、将来の雲行きは怪しくなっていくのであった。

 田畑に囲まれた田舎から、ビルがひしめく街へと景色が変わっていく。昇っていく太陽に照らされた人々の顔は、いつまでも眠そうだった。

 私もしんどいよ。

 日課だった動物たちとのお戯れが出来なくなってしまったのが、とてもしんどい。

「どうして、私の猫ちゃん達が……」

 あの後、ラグとマルが本物であるかどうかを独自に調べることにした。金城さんにも色々とアイディアを出してもらった結果、私が普段からラグやマルに対してどんなことをしていたか知っているかどうか、を判断基準にすることにした。金城さんも私に散々聞かされていたし、それくらいしか彼女達が「本物」であるかどうかを見極める手段がなかったのである。

 結果、彼女達は私と一緒に暮らしていたペットしか知りようのないことを知っていた。

 いや、だからと言って今現在身に着けている下着の色まで当てろなどと言った覚えはないし、今朝方着替えを見ていたのだから知っていて当然、さぁ答え合わせをするために脱げと強要されたのも怖かった。どうして男の人の前で脱衣しなくちゃいけないんだ。せめて金城さんのいないところで……それはもっと危ないか。ラグは危険な女の子、それは私にも分かるのだった。

 ふぅ。

 あれは本当に、私の知っているラグなのだろうか。

 私が毎日のように可愛がっていたラグはもっと気品があって、余裕しゃくしゃくで私に撫でまわされているイメージだったのに。

 イメージの話をすれば、マルの方も犬だった頃とは印象が違う。

 私に近寄ってきたかと思えば、ご飯をせがむだけのハラペコ女子になってしまうとは。太ってしまうよと遠巻きに教えることで、彼女には我慢を覚えてもらうことにしたけれど大丈夫だろうか。犬と人間では代謝が違うはずだし、でも昨日は犬には食べられないはずの玉ねぎを平然と食べていたし。そもそも、二人は電子レンジとか使えるのか? あぁ、昨日のうちにもっと話をしておくべきだったなぁ。でも、飼い猫と飼い犬が人間になってしまうだなんて、はいそうですかと信じられるものじゃないだろう?

 逆に聞きたい。

 近所のゴミ捨て場を漁っていたカラスが雲一つない青空みたいに爽やかなイケメンになっていたとして、私が彼を自宅へ連れ込んで同棲を始めると思うか? それで思うと答えたなら、それこそ、小説の読み過ぎというものである。

 私は、癒しが欲しいだけなのに。

 電車を降りてから会社のある小さなビルまで、てってこと五分ほど歩く。それだけの運動でも、寝不足の身体には随分と堪えた。普段は階段を使っているけれど、今日くらいはエレベーターを利用しよう。

 目的の階をボタンで入力して、到着した後はゾンビのようにおぼつかない足取りで廊下を歩いていく。そうして目的の部屋へと到達した。主に校正や、それに順ずる仕事をこなす人達の事務室だ。

「うぅ、眠い……」

 ふらつきながらタイムカードを切る。紙切れに印字された数字と腕時計とを照らし合わせて、今日も遅刻せずに済んだことに安心した。

 出勤日は会社が別個に管理しているはずなのに、これホントに切る必要あるの? と疑問に思うことはあるけれど、これがないと時間制限なしで働かされることになるよと課長に教えて貰ったことがある。それは辛いので、毎日真面目に押すことにしていた。

 閑話休題。

 席に座って荷物を整理していると、金城さんが私の席へとやって来た。

 彼も眠そうな顔をしている。

「おはよう、酷い顔してるな」

「おはようございます。だって、一日中ラグが色仕掛けをしてくるものだから」

「そりゃ大変だ。で、これからどうするんだい」

「どうするって、管理人さんに通報するわけにも行かないし……」

 彼女達は私のことを隅から隅まで知っていた。自宅に盗聴器やら監視カメラやらが取り付けられていると思うとゾッとするし、今更逃げたところで無駄な気がする。通報したら酷いことされそうだし、それなら彼女達が私の家族たるペットだったものだ、と考える方が精神衛生上よろしいだろう。

 家出少女なら複雑な家庭事情があるはずで、それに踏み入るのも気が咎めるし。

「取り敢えずは、彼女達と対話してみる他ないんじゃないか」

 まだ、隣の山川という女性社員さんは出社していないようで、彼は彼女の椅子に腰を下ろした。

 対話、ねぇ。

「お喋りはしましたけど」

「一日二日じゃ足りないな。一ヵ月くらいは、正面から向き合う必要があるだろう」

「いっかげつ……」

「脳の処理を止めるな。真面目に考えろ」

 考えただけで解決できるなら、私はもっと幸せになっている気がするぞ。

「新堂なら大丈夫だ。たぶん。きっと」

「金城さんも考えるのを止めていませんか?」

「ハッハッハ、そんなことはないぞ。後輩の為に出来るアドバイスは全部するさ」

 じっと見つめていると彼の作り笑いはみるみる剥がれて行って、気まずそうに顔を逸らした。ふむ、正直に喋っているようだな。許そう! 何をだ。

「それじゃ、そろそろ始業の時間だから」

 そう言って彼が後ろに手を回すと、どこに隠し持っていたのか、机にドサっと原稿を前に私の息が詰まった。これを校正するのがお仕事なのだけど、毎日毎日どこから原稿が生まれてくるのだろう。

 世界中の作家や雑誌記者が風邪になったりしない限り、これはなくならないんだろうなぁ。ま、今日もお願いだけはしておこうか。

「金城さん、これも青春群像劇ですよね。たぶん、中高生向けの」

「ん? ……そうだな。そういう小説だろうな」

「なーんか、私だけ小説の校正多くないですか。雑誌とか、入ったばかりの頃はやっていたような気がするんですけど」

「その仕事もないことはないが、新堂に任せると再校の山川さんが死んじゃうだろうが。どうしても嫌なら別の作者の原稿があるけどやるか? 科学知識が必須の現代推理モノだぞ」

「私、この作品がやりたいです! やらせてください!」

 だよなー。毎日のように甘い恋愛モノや輝かしい青春モノばかりの校正をやっていると、素読みしているだけで死にそうになるんだけどなぁ。くそぅ、あんまり他人様に話せるような青春を送ってこなかった私なんぞに、青春待っ只中にいる少年少女向け作品の校正は任せないで欲しいものだぜ。

 ふぅ。諦めて仕事するか。

 溜め息を吐いたところで仕事が減るわけでもないので、私は腰を上げた。

 よっし、今日も仕事だ!

「それじゃ、校正してきますね」

「おう、いってらっしゃい」

 金城さんに手を振られながら、向かう場所はいつもの部屋だ。同じ階層の、別の部屋。校正担当の人間が好んで利用する、通称「図書館」であった。誰が最初にそう呼んだのかは知らないけれど、ここでのルールは無言厳守。飲食は他人に不快感を与えない程度のものが許されている。うん、飲食可の図書館とは? って感じだ。課長はそれだけで小一時間笑っていた。私も十分くらい笑っていたので、他人のことは言えないけれど。

 様々な業界で使われる基本的な単語をまとめた用語集も完備されているし、校正を行う上で必要なものは完璧に揃っている。すごい部屋だ。金城さんも、私が入社した頃はこの部屋での仕事が主だった。今は、さっきまで私達がお喋りに興じていたあの部屋で、他の社員さんと雑談を交えながら校正をしているようだ。その方が捗る人もいる、ということなんだろう。勉強と一緒だなぁ。

 かぽっとペットボトルの水を飲んでから、図書館の扉を閉めた。

 私が座るのは入り口から入って右手側奥にある、角っこの場所だ。

 周囲の視線が気にならないように仕切りが立てられていて、万が一校正中に寝落ちしてもバレないようになっている。その場合は原稿の進みが遅いから、妙に遅い提出時間でバレる仕様だ。ふふ、あの時は納期に余裕がある仕事で助かったぜ……。

「…………ぁ」

 校正の道具を取り出してごそごそとやっていたら、山川さんが私の隣に着席した。

 彼女は、私に校正のイロハを教えてくれた先輩社員である。確か、今年で三十歳になる……というようなことを他の女性社員さん達が言っていた。妙齢の女性に年齢を尋ねるのは失礼なことであると言うのは一種の社会常識として語られているため、彼女の正確な年齢は知らない。

 それでも大人の女性だなぁ、かっこいい人だなぁ、という風には思っている。キビキビとしているし、普段の喋り方を見ていても教養が深くて知識の海の底を悠々と泳いでいそうな人だ。

 私は、ちょっぴり苦手である。

 一人でも生きていけそうな、強い人が苦手だからね。

 挨拶をしようか迷ったけれど、ここは無言厳守の図書館だ。突然現れた後輩に肩を叩かれ、ぺこりと頭を下げられても困ってしまうと思ったので特に何もしないことを決めた。これで「マナーがなっていない」と怒られたり、陰でねちっこく言う人でもないし。

 山川先輩は、そういう意味でもオトナの女性なのである。

「…………」

 今日校正する原稿は、どこかで目にしたことがある小説家のものらしかった。

 しかも、事実や描写による建物の配置などの確認を行う必要がない。やった! 楽できるぞ! とほくそ笑んだ直後、人物ごとの相手に対する呼称一覧が付属していないことに気付いてげんなりした。もしやこの作者、もしくは編集者が、呼び方の統一とかをしていないのかもしれない。だとしたら出版社も色々と諦めてからこっちに投げてきたような、手に負えない問題作だったりするのだろうか。まぁ、頑張るか。やるしかないのだ、お仕事だから。

 私達校正が行う事実確認には、月の満ち欠けや、潮の満ち引きなどの自然現象が含まれていることもある。実際の暦と作中に明記されている年月日を照らし合わせて、本当にあっているかを確かめることも多いのだ。

 小説なんだからいいじゃないか、と思う人も多いだろう。私だってそうだ。しかし作者の中には年月による登場人物達の成長を主軸にしている人も多く、そういった場合には些細な舞台装置ひとつの歪みが全体の雰囲気や作中人物の努力を無駄にしてしまう。そういったことを防ぐためにも、校正の仕事は結構大事なものなのである。

 多分。私達の存在意義とは、そういうところに在るべきだ。

「…………ふぅ」

 校正をしながら、色々と考え事をしてしまう。

 文章を読むのは好きだけど、別に趣味ではない。活字を追いかけるだけなら私でも楽勝! という感じの、適当な気持ちで就職したことを今でも後悔している。というか、そんな私を拾い上げた当時の人事部長は何を考えていたのだろう。きっと徹夜明けで人を見る目が狂っていたに違いない。実務経験も資格もなく、やる気と好奇心だけで門戸を叩いた十八歳の少女に何を見たと言うのだろうか。

 ……ひょっとすると、私が超絶ドストライクの美少女だったとか?

 それはないな、と脳内に反芻したラグの笑顔を振り払った。私に好意を向けてくる人物一覧の最初に、派手な装飾付きでチラつくあの子が怖くなってきたぞ。

 それからお昼休みの目安にしている午後十二時三十分まで、私は黙々と作業をした。呼称一覧、学校の名称、その他様々な設定。作者が途中で作品の執筆を放棄したとしか思えないような矛盾した設定を見つけて苦しんだりもしたが、まぁ、うん。

 納期には他の原稿の三倍という吃驚するほどの余裕があったから、どうとでもなるに違いない。なんとかなるよね! ぜんぜん終わる気配がないけど!

 主人公の名前すら間違える作者って、かなりヤバいと思いました。現場の校正担当者からは以上です。

 大きく伸びをしてから、今日も一日涼やかな顔で校正をしていた山川先輩の後を追って図書館を出る。元の部屋へ戻ると、金城さんが私の椅子に座っていた。周囲には何人かの女性社員がいて彼をランチに誘おうとしていたけれど、私の姿を見て取るとすぐに離れていった。

 うーん、私は爆弾か?

「金城さん、何しているんですか」

「お帰り。いや、君の『妹達』について相談の続きを聞こうかと思って待ってたんだ」

「妹って……あぁ」

 他の社員さんたちがいるから、猫とか犬っぽい名前は使えないもんね。犬や猫が人になったという話を公然としている人がいたら、脳の検査をオススメされてしまうに違いない。

 でも、ありがたいなぁ。お昼休みの間も、相談コーナーは継続中ということか。

 優しい人は、嫌いじゃない。

「あ、昼飯奢るから、ついでにどう?」

「わーい! 行きましょう!」

 優しい人は、大好きだ。

 金城さんの提案に甘えて、社屋外にあるオムライス屋に行くことにした。興味はあっても、小洒落た店だったから一人で入る勇気が持てずにいたのだ。他の女性社員さんは私よりも五歳以上も年上の人ばかりで、あんまり気軽に誘えないし。

 ふふ、割と気分が高まって来たぞ。

 注文を済ませると、金城さんはグラスに注がれた水を一気に煽った。校正している間は、延々としゃべり続ける他の社員さんに相槌を打っているらしい。そうしていた方が図書館よりも仕事が捗ると言うのだから、人間というものは不思議だ。

 彼は煙草を取り出して、しかし中身を取り出すことはなく卓上に置いた。

 一昨日は、何か特別な日だったのかもしれない。

「さて、ラグとマルのことなんだけど」

「はい! どうすればいいですかね」

「いっそ、彼女達に甘えてみたらどうだ」

「はい? それ真面目に言っているんですか」

「本気じゃなかったら何だと言うんだ」

「ぐぬぬ……」

 ラグの、爆発寸前の好意を受け取れと言うのか。

 マルの幼気な瞳に罪悪感を覚えつつ頬を突きまわせと言うのか。

 この人、本当に人間か? 蛇みたいに腕を突き出して威嚇してやろう。

「鬼だ。鬼に違いないぞ……クォォ」

「ひょっとして、それは敵対しているというポーズなのか」

「それ以外に何があるというんですか。クォワ!」

「あのな、俺だってふざけているわけじゃないぞ。真面目に相談を受けているんだ」

「だったら私が満足するような回答をください」

「そうだとすると――」

 彼が何かを言おうとしたところで、注文していたオムライスが運ばれてきた。とろとろの半熟卵と香るバターの風味、そして熱々のご飯が立てる湯気が店内のBGMと共に揺れる。緩やかに注がれたデミグラスソースは新進気鋭の女優さんよりも優雅に私の食欲を誘っていた。

 ゴクリ。

「新堂?」

「あっ、いえ、大丈夫です。聞いてます」

「…………先に食べるか?」

「いいえ。食べたら満足しちゃって、話を聞けないと思うので!」

「正直な奴だな」

 金城さんは肩を揺らして笑うと、スプーンを手に取った。照明が反射して、銀の匙が白く光る。

「彼女達はもう、猫じゃない。犬じゃない」

「ふむ」

「だから君は、彼女達と友達になる必要があるんだ」

「なるほど」

「ということでまずは、彼女達ともっと仲良くなることから始めてみよう」

「ほー……ん? ひょっとして、解決したようでしてない?」

「どうだろうな。案外、遠回りが一番の近道かもしれないぞ」

 本当かなぁ?

 納得するわけにはいかない。だって、このままだとラグから放たれる百合ビームに負けてしまいそうだし。……百合ビームってなんだ。

 その後もいくつかの提案をしてもらった。実家に預けるとか、知り合いを頼るとか、そういう話も真剣に考えた。でも結局、明確な対応策は出ないままにお昼休みの時間は終わってしまった。

 奢ってもらったオムライスが美味しかったことばかりが記憶に残って、現状への不満もどこか遠くへと消えてしまったのであった。

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