第2話 私の同僚たち(人間)
そういえば、私の名前は
私は、そういう人間だった。
閑話休題。
夏休みだなぁ、そろそろ八月になるなぁと考えてはいるのだけれど、社会人には夏休みが存在しない。お盆休みがあるくらいだ。子供時代はあれほど楽しみだった長期休暇も、社会人になってからは親に帰省を促されるつまらないイベントのひとつになってしまった。
それもこれも、遊ぶ相手がいないのが悪い。なんで私の友達は大学へ進学してしまったのだろう。仕事をすればお給料が貰えると聞いて! と鼻息荒く入社試験を受けに行った私がバカみたいである。
いやまぁ、実際その通りなのかもしれないけれど。
社会人になってから、遊ぶ時間がすごく減った。大人同士で遊んでいるんだろうというのが子供心に想像していた世界だったけれど、それは間違いだった。大人になっても子供の頃からの付き合いは変わらないし、浅くても、きっとずっと続いていくものなんだろう。大人になってから生まれる人間関係には少なからず嘘が付きまとう。
そういうわけで、私は職場の人とは仲良しじゃない。勿論のことだけど、それは休日に遊びに出かける程の仲じゃないというだけで普通にお喋りをする相手くらいならいる。飲み会を開くぞと声を掛けられたら、ふたつ返事で了承するくらいには居心地のよい場所だったりもするのだ。
いや別に、予定がなくて暇だからいつでも参加可能ってわけじゃないんだぞ。
今回の飲み会だって、私が入社した当初から気になっている相手が参加していたから手を挙げたのである。出会いを求めたとか、そういうわけでもないんだぞ。気になっていると言うのは、強いて言えば友達になりたい! というレベルのアレである。
アレって何だよ。
それはさておき。
ひとつ年上の
勤務態度が真面目なら性格も真面目、休日は映画館や美術館、本屋を巡ることにほとんどすべてを費やす珍しい人らしい。同僚に誘われて渋々、アウトドアの催し物に参加することもある。だけど基本的には、家に籠っている方が好きなタイプみたいだ。
同僚や上司からの誘いには本人曰く喜んで参加しているとのことだったけれど、本当にそうなのかは怪しい。きっと、悪くない風貌とミステリアスな雰囲気を好んだ女性社員によって無理やり招集されているに違いない。そうであって欲しいなぁ、と近頃お呼ばれすることが少なくなった私は思うのであった。
金城さんはどちらかと言えば精悍な顔つきをしていて、我がアパートで私の帰りを今や遅しと待ちくたびれている子たちと比べれば怖い感じのする人だ。だけど喋ってみれば意外と優しくて丁寧な話し方をするし、何より私が毎日のように職場へ持ち込んで癒しにしていた飼い猫たちの写真に唯一興味を持ってくれた相手である。
好きとか嫌い以前に、大事な話し相手なのだ。
もはや、逃がすなどという選択肢はない。
だから絡み酒をしていても許される、と思いたいのだけれど。
「それでぇ、このラグがヤバイんですよね。お腹が……セクシー!」
「昨日も聞いたぞ、新堂」
「何度だって話しますよー。ほら、こっちの写真だと横顔がキュートで、もう、最高なんですよぉ」
金苦笑いをしているのは分かる。うん、困らせているんだな。
苦労しているのも分かる。うん、悩ませているんだな。
逃げ出そうとしているのも分かるけれど、そこは彼を角席に押し込むことで手立てを封じ込めた。いやー、この人も他の社員さんと同じで、私ほど猫やら犬やらが好きなわけじゃないんだなぁというのも察しているんだよ? 私だって本当は犬や猫が好きなわけじゃなくて、自分のペットだから好きなのだというのも自覚している。世間ではこういうのを親バカと言うらしい。
だけど、無趣味人間の私にはそれくらいしかストレスの発散方法がないんだよ! それだけは分かって欲しいんだ。
微妙に立場が上と言うだけで上司扱いしているけれど、実際には同僚であるだけの男性を捕まえて我が子自慢をするだけが幸せの女性社員、それが私だ。友達に知られたら小一時間は笑いの種にされてしまうだろうけれど、それが私なのだから仕方ない。
そんなことより、もっと私の家族を自慢しなくては。
「んで、マルちゃんも可愛いんですよ~。あ、これお風呂の写真」
「そうか」
「私と一緒に入ってるのもありますけど、こっちは見せられませんねぇ」
「見せなくていいから。ほら、注文してたのが来たぞ」
「なんですか、もぅ。そんなんじゃ恋人の一人も出来ませんよ」
お前だっていねぇだろうが、みたいな小言が聞こえた気がするけれど、じろっと見つめたら金城さんはそっぽを向いてしまった。案外分かりやすい、というか硬派な人である。若いこともあって社内の女性人気だって高いらしく、さっきから何度か別の課の人が顔を覗かせている。
けれど私を見て逃げ出すあたり、意志が弱いに違いない。
……私は危ない人なのだろうか。そんなバカな。
金城さんを譲るわけには行かないからと、毎回彼の隣の席をキープしていただけなのだ。こういう場所でなければ、私の愛猫と愛犬を自慢する機会も滅多に訪れないのだから、存分に甘えさせて貰わなければ。
入店時からずっと手羽先を食べている金城さんに擦り寄って、日頃溜まった鬱憤やら何やらを自慢に変えて発信する。それも、私のストレス発散法のひとつだった。
「それで……聞いてますか?」
「はいよ。猫と犬が可愛いって話だろ」
「そうです! 私のラグちゃんとー、マルちゃん! 最高なんですよ!」
「ふははっ、また金城が新堂に絡み酒されてるや〜ん」
にこやかに談笑をしていただけなのに、禿頭のおじさんが遠巻きに声を掛けてきた。仕事は遅いけれど、部下の為ならどこへでも頭を下げてくれる有能上司の課長さんだった。心配性が原因でハゲたのだ、と取引先ではいつもその話題から入っていくらしい。実際喋っていると楽しい人なのは本当の話なんだけれど、人をからかってくるのが玉に瑕だ。
それさえなければ、多分完璧な上司に違いない。
「課長は黙っててください。私の可愛い子ちゃん達を理解してくれるのは金城さんだけなんですから」
「そんなこと言って、本当は別の思惑があるんだろ。例えばホラ、金城のことを愛している! とか」
「そういうんじゃないですってば。しっしっ」
小うるさい上司を追い返して、金城さんの顔色を伺ってみる。いつもと同じように涼しげな顔つきだった。この人が酔っ払うと滅法話し好きになるということは以前の飲み会を通して知っているので、今日はまだ飲み足りないのかもしれない。
んー、私の話、やっぱりつまらないんだろうか。
でも、文芸オタクの金城さんの話題も、ものによっては深すぎてついていけないものだしな。
私達に石を投げてきた課長はと視線を向けると、奥さんに怒鳴られた話を面白おかしく披露していた。むむ、案外楽しそうにやっているじゃないか。こっちも負けてはいられないな。
いつの間にか届いていた日本酒をお猪口にいれて、くいっと飲み乾した。お酒の味はよく分かんないけれど、日本酒の純米吟醸から選べば飲みやすいものが多くて、大抵の場合外れないことだけは母親から教えて貰った。というか、二十歳になった誕生日のお祝いメールに書いてあった。
いやぁ、だからと言って失態を犯さないわけじゃないんだけどね。
「それでー、昨日もうちのラグがー……っと」
大分酔いが回って来たらしく腕を滑らせた私は、金城さんの肩にぽてっともたれかかった。ここまで飲んだのは初めてだし、男の人に寄りかかったのも初めてだ。
金城さんは、不安そうに眉をしかめた。
「飲み過ぎじゃないか」
「ぜーんぜん。大丈夫ですとも」
「あー……今日はもう帰った方がいいと思うぞ」
「どーしてそういうこと言うんですか。あ、私をお持ち帰りするつもりですね? 真面目な顔してー、このこのー」
「お前、本当に…………はぁ……」
金城さんはマリアナ海溝より深い溜息を吐いて、私の頭をぐりぐりと撫でまわした。驚くべきことに、彼はこのダメ人間を前に薄ら笑みを浮かべている。
うーむ、酒に酔うと他人を甘やかす癖のある彼を、空いた心の穴埋めに利用する私は悪女だろうか。彼の方だって甘やかされたいと願う私を存分に活用して己の欲を発散させているわけなのだから、この頭を撫でる行為はいわば等価交換なのである。
などと自分でもよく分からないことを考えているうちに、会場からつまみ出される運びとなった。うん、これ以上ここにいたら飲み過ぎて倒れちゃいそうだし。
仕方ないよね。
金城さんに肩を貸して貰って、上司の元へえっちらおっちらと歩いて行った。
「すいません、今日はもう帰らせていただきます。新堂も連れて帰るんで、会費の支払いだけ……」
「おっ、やるなぁ金城。遂にお持ち帰りか!」
「違いますよ。あと、考え方が古すぎます」
「そうですよ課長。私には愛する猫ちゃんとワンちゃんがいるんですから~」
「新堂はもう喋るな。なんかアホっぽいぞ」
アホとはなんだ、アホとは。でも、彼の言う通りかもしれないと妙に納得したので、口はしっかり閉じておくことにした。
あむ。
私がお手洗いを済ませて気分を落ち着けている間に、財布やらスマホやら仕事で使っている書類やらが入った鞄を投げつけて、金城さんに会計を済ませて貰うことにした。色々と問題のある行為な気がしなくもないけれど、金城さんほど真面目な人が泥棒になるはずもないだろう。そういった信頼も込めての委託である。
決して私がお札の枚数を数えられないわけじゃないし、酔っ払い過ぎて幹事が誰なのか分からなくなっているとかではない。違うのだ、信じてくれ。私が真面目人間じゃないことは、家で待つラグやマルでさえも分かっていることだとは思うけれど。
「お疲れさまでした」
「でしたー!」
二人で抜け出した外の空気を吸い込めば、大人数で籠る居酒屋よりも開放的な気分になれた。日頃の鬱憤で澱んだ空気にアルコールを付加するよりも、澄んだ夜空を気心の知れた友人と眺める方が癒されるというものである。
……金城さんは、私のことを友人として認識しているのだろうか? 私しか友達と思っていなくて、彼が私のことを迷惑千万な無能後輩と考えていたら恥ずかしいな。明日から会社に行けなくなっちまうぜ。
歩いているうちに酔いも深まって、あまり喋れなくなったので彼の誘導に従って黙々と歩く。駅のホームについてからも、なんだか夢を見ているような気分だった。
学校も学年も違ったし、入社しても一年ほどは知らないまま過ごしていた事実なのだけれど、金城さんと私は同じ地元出身だ。降りる駅も同じだから乗り過ごしの心配もいらないよねー、と電車に乗り込んだ後は彼にすべてを任せることにした。
金城さんが私を揺り起してくれなかったらと考えるとかなり危ない行動だ。でも彼ほど生真面目で嘘を吐けない人もいないから大丈夫だろう。実際、目的の駅に着く三分前に揺り起してくれたおかげで、改札を通るころにはスキップが出来そうなほどに回復していた。
駅へ吹き込んでくる、夏の湿気た風すら心地よいくらいだ。
「うーん、よく寝たような気がします! 三十分ほど時間が飛んだみたいです!」
「そうかそうか。こっちは気苦労ばかりで、胃が痛くなってきたんだが」
「胃薬飲みますか? 水なしで飲める顆粒タイプですよ」
「いらないよ」
金城さんは、また溜息を吐いた。
「新堂は幸せそうだなぁ」
「猫と犬に毎日癒されてますからね。金城さんもペット飼ったらどうですか」
「やめとくよ。……あれが、新堂みたいになったら困る」
それはどういう意味なのか。私がバカっていうことか? 覗き込んだ彼の横顔からは何も読み取ることが出来ない。仕方ないので、深くは考えないことにした。夏だし暑いし、疲れることはしたくないのだ。
私の家はこっちだからと、歩き慣れた道を指差して進む。といっても、駅からは直線! 右折! 直線! という感じの超簡単な道しか歩かない。時間こそ掛かってしまうけれど、目隠ししても帰りつけることだろう。
てこてこと歩いていく夜のバイパス道路は、味気ない街灯によって照らされている。五分も歩けば薄らと汗ばんできて、不快指数がグングン上がって行く。
それでも月が綺麗だったから、今日の私は寛容な気分になった。
「ところで、どうして手を繋いでいるんでしょうか」
「新堂がフラフラしているから、だろうな。路上で倒れたり事故に巻き込まれたりすると会社の問題になるじゃないか」
「本当にそれだけなんですか?」
「それ以外の理由があっても、色々と困るだろうが」
誰がどうして困ると言うのだろうか。機械仕掛けの神様ごっこをしている小説家あたりかな。作品の帯に百合と書いているのに、一章三節まで一切それっぽくないことを書いている人がいたとか。読者の趣味を無視した独自路線に走り過ぎた結果、編集者からダメだしを受けて泣き始める新人作家とか。
違うなー。これは先週のクライアントの話だし。私と金城さんには一切関係ないじゃないか。
「ほーんと、よく分かりませんねぇ」
呟いてから、そういえば普段は駅まで自転車で通っていたことを思い出した。今日に限って、どうして歩いているんだろう? 金城さんと繋いだ手を眺めて、首を傾げて、これ以上考えると何やら袋小路に捕らわれたネズミになってしまいそうだったので止めることにした。
逃げ道、大事。
ようやく自宅のアパートまでたどり着くころには、歩いているうちに酔いが回ってきたのか、金城さんもほんのり柔らかい表情になっていた。階段でコケそうになって笑われて、仕方ないからと部屋まで背中を押してもらった。いっそのこと、御姫様だっことかしてくれても良かったと思う。本当にやられたら困るけど。
部屋の前でくるりと振り返って、ずっと繋いでいた手を離す。
私は、ぺこりと頭を下げた。
「今日はありがとうございました。また明日、会社で会いましょうね」
「明日は休みだぞ。日曜なのに、どうして出社しなくちゃいけないんだ」
「あれ、今日は土曜日でしたっけ」
「新堂、お前本当に大丈夫か?」
「だーいじょうぶですって。安心してください」
お金が貰えるなら私は頑張って出社しますとも。明日の生活と我が家族の為に。
「それじゃ、また明後日」
「やり直したな……じゃあな」
「はい。おやすみなさい」
にこやかに手を振って、扉を、するっと。
……開いている? 閉め忘れていたのかな。そういえば鍵を挿した覚えもないな。
そっと中を覗き込むと、玄関前に何かがしゃがみこんでいるのが見えた。そっと扉脇の照明に手を伸ばすと、三和土が眩しい光に包まれた。
ふんわりと浮かび上がる影がある。
真っ白なワンピースに、長い黒髪。
病的に白い素肌と、あまりに完璧な均整が保たれた細身の身体。
明らかに猫のラグではない。犬のマルでもない。知り合いでもなければ、親しい友人にもこんな人はいない。走馬灯のように流れる二十年間の人生において、こんな人物が私の眼前に立っていたことは、ただ一度としてなかったのだ。
ふむ。なるほど。
ダメじゃん。
「金城さん!」
慌てた私は扉を蹴っ飛ばして、帰ろうとしていた金城さんに縋りついた。何事かと驚いた彼も、異常事態だということだけは理解してくれたらしい。
「中! 中にいる!」
「どうしたって言うんだ」
「人! 知らない!」
「落ち着け、何も伝わって来ないから。落ち着けって」
冷静になってしまったたら玄関にいた謎の女について考えないといけないじゃないか。ダメだよ。私、幽霊とか嫌いなんだよ。
怖くなって酔いも醒め、思わず金城さんの袖を握りしめる。私を庇うように前に立った金城さんは、ドアノブを掴んで勢いよく扉を開いた。そしてやはり、何かはそこにいた。確かな温もりのある彼の背中に縋りつくようにして、部屋に現れた見知らぬ存在に視線を向ける。
白く透き通った肌。長い黒髪。あまりにも幻想的で、美しい少女。
「おかえりなさい、ご主人様」
玄関には、映画から飛び出してきたような、一点の曇りもない美少女が立っていた。
……割と、際どい恰好で。
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