ねこです、やしなってください。

倉石ティア

第1話 私の家族たち(人外)

 白い毛並みに柔らかな瞳。筋肉質な体躯は暖かく、抱けば頬をすり寄せてくる。これが人間だったら犯罪的というか、かなり問題があるような気もするけれど人間じゃないから問題じゃない。人間じゃないから、突然抱き付いても怒られたりしない。ひっ掻かれることがあっても、それすら麗しき愛情表現だ。

 あぁ、美しきかな愛猫との生活。

 高校を卒業してから、会社勤めをすることによって手に入れた私の幸福。

 やっぱり猫は最高だ。今や七月末日、うだるほど暑い時期になっても人間の心に涼やかな風を吹き込んでくれるのだから、文句のつけようもないだろう。いや、抱き付いていたら流石にむわっとくるし、眠っている私の上にどっしり腰を据えて起こそうとして来ることもあるけれど、それは別の話である。

 私にとっての猫とは、一人暮らしをしている間に開いていく心のスキマや、気付かないうちに付いた傷を埋めてくれる大切な同居人であったのだ。

「ただいま、ラグ」

 飼い猫に声を掛ける成人済みの女性、というあたりで字面が若干怪しいのは自覚している。だが、それでも止められない。共通の趣味を持った相手を探せるほど人付き合いに自信があるわけじゃないし、高校時代の同級生は大学での生活に染まり過ぎて社会人の私にはあまり声を掛けてくれない。ニ十歳になったからと言って、大人の世界に踏み込む勇気だって持っていないのだ。

 手持ち無沙汰になってスマホでネットの海を泳いでみても面白いものは見つかりそうもなかった。仕事帰りの疲れを癒そうと思ったら、やっぱり飼い猫を甘やかすに限るのだ。それしか、私には残されていないのだ。

 些細な失敗を上司に責められようとも、上手く事が運ばず同僚と気まずい雰囲気になったとしても、飼い猫を抱きかかえているときは何も考えなくて済む。

 寂しくても、苦しくても、すべてはペットが癒してくれる。

 なんて最高なんだろうな。

 ……こういうの、なんて言ったっけ。もじょ? ネットスラングに詳しい、大学生の友人に訪ねてみればすぐに答えてくれるだろうけど、その為だけに手を煩わせるのもどうかと思った。

 ということで、何も考えずラグを可愛がることにした。やっぱり猫ちゃんは最高だ。

 ふふ、これが脳死という奴だな。

 たぶん。

「お前ほんと可愛いよなぁ」

 わっしわっしと飼い猫のラグドールの頭を撫でる。抱きかかえても撫でまわしても、ラグは微動だにしない。非常に大人しくて、いつも昼寝ばかりしているような猫である。定期的に毛並みを整えたり、ほどよい抱き心地になるよう積極的な給仕を施しているから抱き心地は抜群だ。きっと、そこらのクッションよりも人をダメにする能力を持っていることだろう。

 こんなに危ない奴は、私のアパートに封印しとかないとなぁ。他の人には絶対取られたくない宝物みたいな子だぜぃ。

 背の低いソファに腰かけて、テレビでニュースを垂れ流しつつラグと戯れる。強盗や交通事故といった危険な単語が飛び交うニュースキャスターの言葉を右から左へ受け流し、今度はお笑い番組に切り替えた。私のツボとは微妙にずれた芸人ばかりがひな壇に座っていて、またリモコンをいじる。

 チャンネルを変えていくと、結局いつもの旅番組になった。自転車に乗ったおじさんが視聴者から寄せられた懐かしの風景を巡る番組である。

 今日も今日とて自転車にのり、地域のレストランで美味しそうなオムライスを食べていた。いいなぁ。

 この番組も、高校生の頃、母親と一緒によく見ていたなぁと寂寥感に押し潰されそうになった。ちょっとだけ泣きたくなって、ラグを思いきり抱き締める。彼女のお腹を擦っていると、小さな鳴き声が漏れた。

 気持ちよさそうにラグは目を細めている。

 口許に手を持っていくと、指を甘噛みされた。

 どうやら今日は、ラグのご機嫌がいいらしい。拗ねると御主人様である私を無視して部屋の隅へ逃げ出したりするし、尻尾で追い払われたりすることもあるのだ。こうして甘えてくれるのも、生まれたときから世話をしているおかげかもしれないな。

 ラグがまどろみ始めた頃、脛をツンツンと突くものがあった。

 ラグとはまた違った、可愛い生き物である。

 マルチーズのマルだった。高校時代の友人に名付け方が安直だと散々笑われてしまったが、それでもこいつはマルなのだった。マルは潤んだ瞳で何かを懇願するように私を見上げていたが、気にせずラグを抱きかかえていたら足を踏みつけてきた。小型犬だから気になるほどの重みもないのだけれど、ラグばかりを甘やかしていたから拗ねているようだ。

 いやまぁ、犬も嫌いじゃないけど。私、猫の方が好きだからなぁ。

 ともかくラグをソファに降ろして、代わりにマルの脇を抱える。

「甘えん坊め、もうちょっと待てないのか」

 軽く文句を言ってみたが、全く意に介している様子はない。それどころか積極的に近づいて顔を舐めようとしてくる。うーむ、これだ。これだけが苦手なんだよ。これがなかったなら、私は犬という生き物を猫と同じくらい、ひょっとするとそれ以上の手放しで褒めたたえていたかもしれない。

「うぶ、ちょ、ちょっと。ステイ!」

 あらんかぎりの力を込めて舌を伸ばしてきたものだから、吃驚してしまった。

 マルにとっては最大の愛情表現なのかもしれないが、顔を舐められるというのが一種のトラウマなのだ。小学生の頃に、蛇にも舐められたからな。あれが随分効いている。

 一応抱っこしてはいるけれど、決して顔に近づけようとはしない。そんな状況を続けていたら、腕からマルが逃げ出していった。短い脚をバタつかせながら部屋中を走り回りだしたところで、もっと小さい頃から躾けておけばよかったなと後悔した。無駄吠えこそしないが、部屋の中で暴れられるのは困ってしまう。慌ててソファから腰を上げた。

 中にバネが入ったスーパーボールみたいに、まるで予想外の方向へと飛び跳ねるマルを押さえつけて全身をごしごしと強く撫でる。恐ろしいほどの速さで大人しくなり、そして飼い主の私も吃驚するほどの速さで眠ってしまった。

 ……本当に不思議な犬だ。高校卒業後、働くために実家を出る際、閉じようとする扉を押しのけて出てきただけのことはある。全身に体力が漲っていて、そのほとんどを私へとぶつけてくるのだ。

 私を癒してやろう、という意気込みだけはラグよりも強いに違いない。

 それが空ぶっているのが、惜しいけどな。

「さて、やるか」

 ペットとのじゃれあいが済んだところで台所へと向かった。

 眠ったままの同居人を放置して、自分のご飯を作ることにしよう。

 包丁やらまな板など、料理に使うものを一通り準備してから材料を探す。小さな冷蔵庫の中には、大量の野菜が詰め込まれていた。うーむ、一人暮らしだということを忘れて、ついつい買い込んでしまうんだよなー。大は小を兼ねる、というのを信じすぎているに違いなかった。

 ごそごそと材料を準備して、腕をまくった。

 ふんす、やる気も十分である。

 高校を卒業してから三年、働き始めてからも同じだけの年月が経過しているけれど、出来るだけ自炊するようには心掛けていた。理由はいくつかあるけれど、猫と戯れる以外に時間を使うべきだ、と母親から言われたことがきっかけになったのかな。アウトドアみたいにタフな趣味も、読書や美術鑑賞というインテリな趣味も持ち合わせていない。精々、有名になった映画を観たりする程度だ。

 趣味がないというのは恐ろしいぞ。

 毎日、時間が腐る音を耳元で聞かなくちゃならないんだからな。

 今月が旬だからと大量に買い込んだピーマンを塩コショウとベーコンで炒めて、ついでに釜玉うどんも作る。作り終えたものを卓上に並べたところで、やっぱり作り過ぎているということに気付いた。このままでは体脂肪率がせり上がってしまう。体質で誤魔化せる年齢から、ちょっとずつ遠ざかってきているんだよなぁ。お腹まわりだって、最近ちょっとずつ柔らかくなってきたし……。

 しかし、彩りがあんまりにもチグハグだから笑ってしまった。

 緑の野菜! 白いうどん! あと適当にベーコン!

 緑白赤とか、信号機としても失格じゃないか。

 うーん、ダメだ。独り暮らしをするようになってから、食卓に並ぶものに和洋中の統一性がなくなってしまった。仕事をしながら家事をこなし、料理を娘任せにしていたとはいえメニューだけは毎日考えてくれていた母親は偉大だったんだなぁと、自動車で二時間ほどの場所に住んでいる人のことを思いながら箸を取った。

「いただき……ん」

 視線を感じて足元を覗くと、ラグが私をじっくりと眺めていた。にゃーご、と低い声で鳴いている。暗い空間で、彼女の瞳だけが爛々と輝いていた。トンネルで燃える蝋燭のように、怪しげな光を放っている。

 ちょっとだけ怖かった。

「待ってちょーだいな。食べ終わったら準備するから」

 言い訳をしてから箸を取ったが、聞く耳を持ってくれないようだ。私の脚にどっしりと座り込んで、早くやれと言外に急かしてくる。

 仕方ないから急いで晩御飯を片付けて、我が家の御姫様にお食事を出す準備をすることにした。さっきまで寝ていたんじゃないのか、とか色々と思うことはあったけれど心を無にすることで乗り過ごす。引っ越してきたばかりの頃は食卓の上に飛び乗って私を困らせていた。それを考えれば、この数年でラグも成長したんだなぁ、と少しだけ胸が熱くなる。

 んなわけないじゃないですか。

 本当に御主人様のことを考えるなら、自分でご飯くらい用意してくれっていうの。

 ついでにマルの分のご飯も用意して、床でぐっすり眠っている彼女を起こすことにした。

「ほれ。起きんかい。ご飯だぞー」

 わしわしとお腹を揺すると、人間なら「はぶっ」とか、そういう感じのどんくさい身体の起こし方をして、マルは台所へ駆けていった。

 いやぁ、動物はいいなぁ。自由だし、悩むことも少なそうだし。 仕事をしなくていいのなら、私も猫になってみたいくらいだ。

 働かなきゃ、人間はいきていけないのだから。

 特にすることもなかったからお風呂に入って、戻ってきたときには空になっていた皿を部屋の隅に足を使ってどけてしまう。寝室へ戻ると、マルが幸せそうな顔で眠っていた。ラグは澄ました顔で窓の外を眺めている。別段綺麗な景色じゃないのに、毎日そうしている。飽きないのだろうか。

「……お酒、飲むかァ」

 本当にやることがなくなってしまったから、最終兵器を冷蔵庫から取り出すことにした。

 そして今日も、私は遅々として進まない時計の針を眺めるのであった。

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