第四章 アリアドネの暗号(17)
「や、山本君っ! 止まって!」
K号館から南向きに走り、グラウンドまで来たところで、紗那は力尽きた。
「ごめん。えっと、座る?」
立ち止まった浩一郎は、多少息が上がっているものの紗那よりも余裕がある。空き時間は読書をしている印象があるのだけれど、意外に体力があるんだろうか。
浩一郎に促されて、紗那はグラウンドの端のベンチに腰掛ける。背後の建物はサークル棟だ。
息を整えている紗那を、浩一郎は立ったまま見ていた。
「碓井さんは、隼人先輩と付き合ってるの?」
「違うよ。付き合ってるフリしてもらってたの」
「フリ?」
説明する気力がなく、紗那はうなずき返すだけにとどまった。
「山本君は? 何かあった? 用事?」
「幽霊が」
「え?」
「あ、いや。それはいい」
浩一郎は言葉を切ってから、
「隼人先輩が悪い人みたいに見えて、逃げた方がいいと思ったから」
「悪い人……」
浩一郎が言っている意味がわかるような気がした。実際に隼人と付き合うなんて紗那には無理だろう。茗子が言っていた「おかしなこと」「こじらせてる」が、これだろうか。
「迷惑だった?」
浩一郎に聞かれて、紗那は首を振った。
「ううん。思い切り走ったら、ちょっとすっきりしたよ。ありがとう」
紗那が笑顔を向けると、浩一郎は思いつめたような真剣な表情でこちらを見ていた。
「碓井さん」
首を傾げる紗那に浩一郎が口を開く。
その瞬間、背後から声を掛けられた。
「紗那ちゃーん!」
「あ! いたー!」
「碓井さん!」
アイドル研の美以子と詩以子、それから湊だ。
「良かった。碓井さん、スマホ持ってないんですか?」
「え?」
紗那は両手が空なのに気づいた。
「カバン、さっきの教室に置きっぱなしだった」
「メール送ったんだけど返事なかったから、忍びの者に手伝ってもらっちゃったよー」
「忍び?」
今日も鳥の絵のTシャツを着ている美以子に、紗那は首を傾げる。答えたのは猫のTシャツを着た詩以子だ。
「うん、今日はあちこちで見守ってるから」
「その辺ですれ違っても見なかったことにしてあげてね」
「見守ってる……?」
辺りを見回すと、生垣の向こうで黒い影がさっと伏せるのが見えた。
「カバン、高野名誉会長が持って来てくれるみたいです」
湊が電話を切って、紗那に向き直った。
「いよいよミスコンですね! 碓井さんがステージに乗るのが今から楽しみで!」
「紗那ちゃん、緊張してる?」
「大丈夫ですよ! 全然、大丈夫。碓井さんなら余裕です!」
「そうかなぁ」
不安を声に載せると、湊は胸を張る。
「僕が保証します!」
美以子と詩以子が紗那の両手を掴んで、ベンチから立たせる。
「まあ気楽にね?」
「そうそう。落ちたっていいんだよ」
「そうなんですか?」
「当たり前じゃない! 皆で何かするのが楽しいんだから」
「嫌なら棄権したっていいんだよ。ここまででも十分楽しかったしね」
二人に気遣うように言われて、紗那は微笑んだ。
「いえ、出ます。大丈夫です」
「お、いいねいいねー」
「その笑顔だ!」
まずは部室で着替えよう、と歩き出そうとして、紗那は浩一郎のことを思い出した。
慌てて振り向くと、浩一郎は「客席で見てる」とだけ言って、行ってしまった。
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