第四章 アリアドネの暗号(16)

 紗那は隼人と模擬店を回りながら段々不安になってきた。

 驚くほどスムーズに恋人らしく振る舞う隼人にではなく、認めないと怒鳴って去って行ってしまった義弟の奏真にでもない。ミスコン参加にだ。大勢の人の前に出て、果たして自分はきちんと話ができるのだろうか。

「どこか座って食べましょうか」

 隼人に促されて、経済学部の敷地にあるK号館に来た。一階に大講義室があり、経済学部以外の講義でも使われていた。模擬店がないせいか、建物の周りは閑散としていたけれど、講義室では休憩しているグループが何組かいた。

 階段状になっている座席の一番前に並んで座り、買ってきた食べ物を広げる。

「心配ごとですか?」

 フライドポテトを割りばしで食べながら、隼人は紗那に話しかけた。

「いえ、すみません」

 とっさに謝ると、隼人は首を振った。

「謝らなくてもいいんですよ。弟さんのことですか? それともミスコン?」

「ミスコンです……」

 素直に白状すると隼人は微笑んだ。それに後押しされるように、紗那は思い切って尋ねた。

「遥ちゃんのお姉さん――南さんは、どうしてミスコンに出ようと思ったんでしょうか」

 隼人は少し遠くを見るようにして考えてから、

「たぶんメイが巻き込んだからでしょうね」

 高野茗子のことを隼人はメイと呼ぶ。元恋人だと聞いたときには驚いた。

「君だってそうじゃないですか? 細川君に熱心に勧誘されていたでしょう?」

「ええ、はい。そうですね」

 細川湊は都歩研に参加した初日、遥を勧誘しようとしていたけれど、そのときにはもう遥は茶髪のボブカットになっていた。遥と史郎は明らかに両想いで、アイドル研独自のルール「恋人がいない人」に合わなくなるのは時間の問題だった。湊が史郎に気を使ったのか、史郎が意見したのかもしれない。次に都歩研に参加したときから、湊は紗那を勧誘し始めた。

「碓井さんしかいません」

「碓井さんなら優勝狙えると思います」

「絶対いけます。シンデレラになりましょう!」

 遥にも言っていたと知ってはいるけれど、何度も繰り返されると、不思議にそんな気がしてきた。

 母親が苦労して自分を育てているのを理解していた紗那は、できるだけ母親に手間をかけさせないように『良い子』を目指していた。結果、放っておいても大丈夫と思われていた気がする。

 一方で、奏真は紗那を「心配だから」「頼りない」と構いたがった。

 そんな中、湊の「碓井さんだけしかいない」「碓井さんならできる」という勧誘は、紗那を高揚させた。今思えば、おかしな宗教のようで、苦笑してしまう。

 パーマを落として髪を黒く染め直したときは、湊はすごく喜び、大感謝された。家事を一人でこなしても良い成績をとっても、こんなに褒められたことはない気がする。こんなことで喜ばれるのかという戸惑いと、今までの人生全てが報われたような充足感があった。

 あのころは事情を知らずに、でも遥の「変わらなきゃ」という気持ちだけは感じていた。それに感化されて、自分も変わらなきゃと思い、湊の言葉で変われるかもしれないと思い始めた。その結果のミスコンエントリーだ。

 隼人は紗那に最後のたこ焼きを譲って、

「別にいいんですよ、優勝できなくったって」

「でも……」

「怖いですか?」

 響くような低音で聞かれる。紗那は思わずうなずいた。

「それじゃあ、逃げてしまいましょうか?」

「え?」

 隣を振り返ると、隼人は紗那の耳元に顔を寄せた。手を握られる。

「怖いなら、逃げてしまえばいい。一緒に逃げようか?」

 悪魔のような囁きから、紗那はとっさに席を立つ。紗那の方が通路側に座っていたのが幸いした。隼人の手はあっさり離れた。

 瞬きをして隼人を見る。いつもと同じ穏やかな微笑みを返される。

 冗談だったの? と思いながらも、言葉にならない。

 立ち尽くす紗那は、今度は後ろから手を掴まれた。

「逃げよう!」

「え?」

 くるりと反転させられ、引っ張られる。前を走るのは浩一郎だった。

 講義室の入り口ですれ違った茗子が「あれは私が殴っておくから」と隼人を指差していた。

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