第四章 アリアドネの暗号(12)

 中井と同じことを考えたのか、廊下を歩きながら落合は両腕を擦る。

「牟礼がデートしてるのって幽霊? 付き合ってたんだろ」

 中井は「違うよ」と否定した。

「牟礼が付き合ってたのは高野」

「高野? 柘植だろ?」

「違うって、柘植とは付き合ってなかったの」

 嘘だろ、まじか、とつぶやき出す落合を横目に、中井は内心ため息をつく。

 落合も柘植狙いだったのか。


 D号館の五階。廊下ですれ違った男女――学生には見えなかった――の話が耳に入り、尾形おがた矢本やもと久保田くぼたの三人は思わず黙った。

 男女の姿が完全に見えなくなってから、尾形が口を開く。

「さっきの話、牟礼って牟礼さんだよな」

「高野と柘植って、花火のときにいた……?」

 矢本が首を傾げると、久保田がうなずいた。

「今の卒業生っぽいし、牟礼さんの友だちじゃねぇ?」

 牟礼隼人は、三人と同じゼミに所属している。隼人は二度留年しているため、現役入学でストレートに進級してきた三人よりも年上だった。

 夏休み直前、隼人を経由して、心理学科の企画で知り合ったのが、院生の高野茗子と一年の柘植遥だった。

 隼人と遥、それから、同じくそのときに知り合った浜崎美咲と逸見里絵奈が所属しているサークルの展示を見に行く途中だった。

「牟礼さんは、高野さんと柘植さんの二股かけてんの?」

 久保田が大きな声を上げる。

「柘植さんとは付き合ってないって言ってなかったか?」

「じゃなくて、幽霊と付き合ってるんでしょ」

 矢本の発言に、久保田と尾形は両側からつっこむ。

「それだけはねぇよ」

「どうやって付き合うんだよ」

 矢本は頭を掻いて、「牟礼さんならありそうかなぁって」

「ああ、まあなぁ」

「あの人、謎だよな」

「たまに何もないとこじっと見てんだぜ」

「猫みたいに?」

「猫? それは知らんけど」

 矢本に首を傾げてから、久保田は「それで結局どうなの? 二股?」と話を戻した。

「そんなに気になるなら聞いてみろよ」

「無理無理無理。にっこり微笑みながら怒りそうだよな。やべぇよ」

「じゃあ、じゃんけんで」

 矢本が突如右手のグーを差し出すと、尾形も久保田もそれに乗った。

「最初はグー!」


 紗那の義理の弟、碓井奏真うすいそうまは、D号館の五階廊下をとぼとぼと歩いていた。思わず飛び出してしまったけれど、一人では行きたいところも特になかった。紗那に案内してもらうつもりだったのだ。それなのに。

「彼氏ってなんだよ。しかも年上かよ」

 何度目かわからない悪態をつき、足を踏み鳴らして歩く。

 父親の再婚で姉ができたのは二年前だ。奏真は高校一年、紗那は三年だった。

 母親もきょうだいも今さらいらねぇよ、と顔合わせする前までは思っていた。しかし、奏真は紗那に一目惚れをした。

 きょうだいはいらない。それは今でも変わらない。紗那が欲しい。姉じゃなくて、恋人として、そしていずれは……。

 そこまで思いを馳せて「いやいや、まだ早ぇし」と一人つっこみ、現状を思い出してため息をついた。

 昨日からの付き合いなら、まだ入り込む余地はあるだろう。

 偶然同じ高校だったことを幸いに、できるだけ視界に入るように登下校も一緒にした。牽制目的で義理の姉弟だと言いふらした。紗那の母や奏真の父が家族にこだわりがあるのをいいことに、休日はでどこに行きたい何をしたいと主張し、紗那を独占した。

 自分の思いは絶対伝わっていると思っていたのに。

 それどころか、昨日出てきたばかりの男に取られるなんて。

 牟礼隼人なる男を紹介され教室を飛び出して、冷静になってから、紗那にメールを送った。しかし返事はなかった。

 行くところもなく、かといって帰る気にもなれず、奏真はもう一度紗那のサークルの展示教室に戻るところだった。

 突き当たりの廊下を男子学生三人組が歩いていく。彼らの話が聞くともなく聞こえてきた。

「牟礼さんは、高野さんと柘植さんの二股かけてんの?」

 全ては聞こえなかったけれど、その発言だけは大きな声で響いた。

 奏真は拳を握りしめる。

 紗那はあの男にだまされているに違いない。今の話を聞いたら紗那も別れたくなるはずだ。

 ――構内を駆けずり回ってでも紗那を探し出す。そして、別れさせる。

 そう心に決めると、Uターンして階段に向かって走り出した。


「隼人先輩のデートの相手って柘植さん?」

 正門前の広場で見知らぬ男に話しかけられたことを思い出し、浩一郎は優莉に尋ねた。

「え?」

 いちおう隼人に伝えようとスマホを弄っていた優莉は、驚いたように顔を上げた。

「違うよ。紗那だよ」

「ええっ! 碓井さんと隼人先輩って付き合ってたの?」

 思わず声を上げる浩一郎に、優莉は目を瞠る。

「待って、山本君、紗那のこと好きなの?」

「や……俺は別に……」

「別にって……、あーうん、まあいいけど」

 どう考えても納得はしてない表情で優莉はスマホに目を戻した。

 隼人なら仕方がない気がした。

 そもそも自分が紗那とどうにかなれるとは思えない。どうにかしようとも思えない。

 他の知らない誰かよりは隼人の方が良くはないだろうか。

 デートってどこに行ったんだろう。

 開いた文庫本は、ページがめくられないまま。

「隼人先輩と紗那、K号館の空き教室にいるって。あっちって模擬店も展示もないから人少ないんだよ?」

 顔を上げると優莉と目が合った。

「気になるなら行って来れば?」

 講義室の部屋番号を付け加えて、紗那は浩一郎の肩を押した。

「こっちはいいから」

「悪い」

 短く謝って、浩一郎は廊下に出る。走り出しそうになりブレーキをかけた。前方から男子学生三人組が歩いてきたからだ。

「牟礼さんは、高野さんと柘植さんの二股かけてんの?」

 大きな声が響く。都歩研の展示教室の前でこの三人の名前なら、同姓の他人の話ではないだろう。

「柘植さんとは付き合ってないって言ってなかったか?」

 遥は同じ一年の和田史郎と付き合っているはずで、アイドル研の名誉会長の高野は隼人の元恋人だと女子が騒いでいた。どちらにしても、今、隼人とデートしているのは紗那なのだ。

「じゃなくて、幽霊と付き合ってるんでしょ」

 すれ違いざまの発言に浩一郎は眉を寄せる。

 隼人は少し不思議なのだ。会話していても、ここじゃないどこかを見ているようなところがある。

 もしかしたら隼人は普通の人が見えないものが見えているのかもしれない。

 浩一郎は早足でエレベーターホールに向かう。

 紗那を助けなくては、と思った。

 隼人が幽霊に好かれているなら、彼と親しくした紗那が危険なんじゃないだろうか。

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