第四章 アリアドネの暗号(6)

 翌週――どこに行ってもキンモクセイの匂いがする十月第一水曜の放課後、遥たちは教養学部のセミナー室にいた。最初は一緒に作業しようと、優莉と紗那に誘われたのだ。さすがにカフェを占領して作業はまずかろうと、優莉たちが自分の学部のセミナー室を借りてくれた。都歩研には部室がなく、こういうときは空き教室か、誰かの部屋で作業するのが常だそうだ。

 優莉と里絵奈と史郎がそれぞれノートパソコンを持って来ていた。ネットのストレージサービスに都歩研のアカウントが作ってあり、過去のレポートデータが残されていて、それを元に今年の分を作成する。さらに、各々が散歩中に撮影した写真をスマホからアップして、今年のレポートに使う。レポートは、散歩の道中に見つけたものの写真――名所や史跡から道端の草花まで――、それに対しての解説やコメントを並べる形だ。名所や史跡は調べないとならず、サークル名の「都内散歩研究会」は思っていたよりも真実だった。

 一昨年のデータに、五月のコースと同じ東京タワー周辺を発見して、「これ同じじゃない?」「ほんとだ」「使えそう?」と言い合う遥たちに、すかさず優莉が声をかけた。

「流用しないようにね!」

「参考にするのはいいですよね?」

「ま、そのくらいは、許してしんぜよう」

「ははー」

「ありがたきお言葉」

 美咲と遥と優莉のやりとりに、紗那と里絵奈が苦笑している。それを全く無視して、自分のパソコンを操作している史郎。今日の参加者はこの六人だった。

 湊はアイドル研が忙しく、「こっちはほとんど押し付けられた」と史郎が嘆いていた。

「地図は山本君が全部作ってくれるから。地図ページができあがったらバーコードを送ってくれるって」

 紗那が優莉のパソコン画面を指して説明してくれる。

 レポートの最後に二次元バーコードがあり、地図サービスに作られたルートマップにアクセスできる。配布用に印刷もする。それは浩一郎が一人で担当することになっていた。――要するに、仕事はするけれど集まりには参加しない、ということだが。

 できあがったレポートはA3サイズで印刷して、パネルに貼って、借りた教室に展示する。その作業は大学祭一日目の金曜日だ。設営が完了したあとは、スタンプラリーのスタンプ係として展示教室の店番がある。まだ決まっていないけれど、スタンプラリーの方で、チラシ配り当番と景品配布場所の受付当番があるようだった。しかし、二十三サークルも参加しているので、サークルごとにどれか一つ担当すれば終わるだろうという話だ。

「そういえば、紗那。和田君ちの部屋借りる話ってどうなったの?」

 知っている人しかいないからか、作業をしながら、優莉が聞いた。

 先週、紗那には遥の状況を伝えた。それを紗那は優莉に話さなかったようだ。紗那は「えっとね」と遥を見た。それで、遥の事情に気を使ってくれたのかと理解した。代わりに遥が説明する。

「私がこないだ母に話したんですけど、母から考えさせてって言われて、もうちょっと保留にしてもらっているところです」

 紗那はそれを待ってくれるそうだ。

 優莉が首を傾げて遥を見た。

「遥ちゃんちはそんなに厳しいわけ?」

 姉のことは秘密にしていないから、皆知っていると思っていた。

「姉が新山大生だったんですけど、一年のときに交通事故で亡くなってるんです。姉は一人暮らししてたので、それで……」

「……あ……そうなんだ……ごめんね」

 優莉は気まずげに目を伏せる。遥は慌てて両手を振った。

「あ、いいえ、全然大丈夫です。けっこう皆知ってるので。隼人先輩と同期なんですよ」

「私も知らなかった。親に話しにくいってそれでだったんだね」

 紗那も痛ましげな顔で遥を見た。優莉が思いついたように、手を叩く。

「じゃあ、紗那と同じなんだ」

「そうですね。大学に入るときは一人暮らししたいとは言いだせなかったです」

「あのさ、私、前から気になってたんだけど。紗那の義弟おとうと。紗那が一人暮らししたら押しかけてきたりしそうじゃない?」

 優莉の発言に、紗那の表情が固まった。

「そうかな……?」

「や、わかんないけど。会ったことないし」

「……私にもわからない」

「和田君ならどう?」

「は?」

 優莉の突然の名指しに史郎が声を上げる。紗那の義弟のことは史郎は知らないはずだけれど、口を挟むことなく黙々と作業していた。でも、話は聞いていたと思う。和田家で史郎の母の雅恵まさえや瑠依と遥が話しているとき、史郎は離れたところで編み物をしているけれど、話を振るといつも的確な答えが返ってくるのだ。

「好きな女子が一人暮らし始めたら、遊びに行ったりしたくなる? 一般論として。どう?」

 里絵奈と美咲がにやにやこちらを見るから遥はいたたまれない。遥が瑠依の部屋を借りたら実現してしまう状況なのだ。一般論と言ったところで、自分に置き換えずにはいられない。

「別にないです」

「そうなの? そういうもの?」

「いや、一般論はわかりませんが。俺は普段会えるなら、部屋に行きたいとは特に思わないです」

 遥は頬を染めてうつむく。里絵奈と美咲が「相変わらず遥以外には言うよね」「本人にももうちょっと強気で行けよって」などと言い合っているのが聞こえる。

 優莉は「そっか」と短く息を吐く。

「遥ちゃんが紗那と同じで親に話すきっかけが欲しいだけなら、お互いがお互いの言い訳になればいいって思ったんだよ。家具付きの部屋が借りられるからっていうよりは、後輩とルームシェアするからっていう方が強くない?」

「確かに、そうですね」

「でもそれじゃ、遥ちゃんと和田君にとっては本末転倒なわけだ」

「え、ええと……」

 優莉がずばりなことを言うから、遥は焦る。史郎を見ると今さら自分の発言の意味に気づいたのか、視線を逸らしてパソコン画面に戻っていった。

「私も思ってたんですけど、紗那さんが彼氏作っちゃえば解決しません?」

 今度は美咲が提案する。そのあとで「こういう話も嫌いですか?」とうかがうように付け加えた。

 紗那は苦笑して、首を振った。

「ううん、大丈夫。キャンプのときはごめんね」

「いえ。私もすみません。私あんま考えてないんで、気に入らないことあったらどんどん言ってください」

 紗那は「ありがとう」と微笑む。

「付き合いたい人いないし、そんな風に誰かと付き合うのも誠実じゃないでしょう?」

「真面目ですねー。もっと皆気軽に付き合ったり別れたりしてますよー」

「でもさ、義弟君、大学祭来るって言ってなかった?」

 優莉が聞くと紗那はうなずいた。

「新山大を受験するからって」

「えー、そうなんですか」

「じゃあ、一人暮らししないと、実家から一緒に通学とかになっちゃいますよ」

「でも、逆に大学周辺で一人暮らししたら、泊めてくれって言われそうですね。優莉さんが心配してたのってこれですか?」

 里絵奈に対して優莉がうなずくと、慌てて紗那がフォローする。

「あ、あのね。同じ空気も吸いたくないくらい毛嫌いしているわけじゃないからね。異性として見てくる人と生活するのが苦手なだけ。本当に私のことそういう風に見ているのかも、はっきりしないんだけれど……」

「あー、わかります! 一番めんどくさいですよね、はっきり言葉にしないやつ。告ってくれたら断れるのにーって。何も言わないくせにプレゼントくれたり、受け取って脈ありだと思われても困るし、受け取らないならその理由考えるのも面倒だし」

 おそらくわざと大きな声を出す美咲に、史郎が一瞬だけ顔を上げた。目が合った遥は、違う、思ってないから、と首を振ってアピールしておいた。

「大学祭のときだけ、誰かに頼んで恋人のフリしてもらって、義弟さんに紹介するのは?」

 今度は里絵奈が提案すると、優莉が「それいい!」と手を叩いた。完全にパソコン作業は止まっている。

「誰に頼む?」

 紗那以外の四人は目配せしあって、「せーの!」で「隼人先輩!」と声を合わせた。

 すると、

「僕がどうしました?」

 件の先輩の低い声が真後ろから聞こえて、皆で「ぎゃあー!」と声を上げる。

「何ですか、その幽霊でも見たみたいな反応は」

「先輩が急に現れるからですよ」

 呆れた声で史郎が言う。「すみませんね」と隼人は微笑んで、

「君には連絡したでしょう?」

 史郎にクリアファイルを渡した。首を傾げる女子組に、

「七月の銀座から築地は、僕が一年のときにも行ったんで、そのときのレポートです。ストレージのデータは一昨年からしかないでしょう?」

「先輩、これ、紙だけですか?」

「そう、申し訳ないけれど、僕はデジタルデータを持っていないんですよ」

 隼人は遥を見た。

「南さんかと思ったんですけど」

「すみません、姉のパソコンはパスワードがわからなくて」

「ええ。大丈夫です。南さんも持っていないって聞いたので」

 誰から? という疑問の答えは、振り返った隼人の視線の先で見つけた。隼人が開け放したままのセミナー室のドアを、高野茗子たかのめいこがくぐった。

「ほら!」

 隼人に何かを投げつける。危なげなく受け止めた隼人は、「どうもありがとう」と微笑んでそれを史郎に渡した。小さなUSBメモリだ。

「ありがとうございます」

「パソコンあるんだったら、今コピーして、メモリは返してくれる?」

 史郎に指示する茗子に、遥たちも礼を言った。

「あれ? あんたって今年のミスコン参加者?」

 紗那を見た茗子が「なるほど」と腕組みをする。優莉と紗那の様子だと茗子と面識がなさそうなので、遥は簡単に紹介した。

「隼人先輩の同期で院生の高野さんです。一年のときは都歩研にいたそうです」

「アイドル研もね」

 茗子がにやりと笑う。

「南がミスコン出たって話は知ってる?」

「えっ! うそ! お姉ちゃんが?」

「あはは。な? 絶対あいつ秘密にしてるって言っただろ?」

 驚く遥を見て茗子は楽しそうに笑って、隼人の肩に手を掛けた。隼人もそれを振り払うことなく、好きにさせている。留年を繰り返して六年生という年上の隼人に対して、こんなに気安く接する人はサークルの中にはいない。背の高い茗子は、やっぱり背が高い隼人と並ぶとバランスが取れる。

 優莉もそう思ったのか、

「お二人は恋人同士ですか?」

「元ね」

 きっぱり言う茗子と、苦笑する隼人を見比べて、優莉と紗那は面食らったように何度かうなずいた。ちなみに茗子が話してもいいと言ったため、史郎と美咲と里絵奈には遥が話していた。

「えっと、今は特に……? お友だちですか?」

「まあね。不本意ながら」

 茗子が眉をひそめると、隼人は「冷たいな」と微笑んだ。

 優莉は少しためらったあと、

「だったら、隼人先輩、紗那の恋人のフリしてもらえませんか?」

「優莉、待って」

 紗那は了承していない話だった。横から腕を引く紗那に、優莉は、

「一日だけだよ。義弟君の前でだけ」

「でも……」

「そのくらいしないと、事態が動かないじゃない! 彼氏だって男を紹介されたら、あきらめるなり告るなり、なんか反応があるでしょ。母親と険悪になりたくないからって、我慢して、気づいたら好きでもないのにそういう関係になってた、って紗那ならありえそうで心配なんだよ!」

「優莉……」

 黙ってしまった紗那を押しのけ、優莉が簡単に説明すると、隼人は少しだけ考えるように斜め上を見つめてから、微笑んで承諾した。

「いいですよ」

 反対したのは茗子だった。

「嘘は良くない」

「嘘じゃなければ? 僕が大学祭初日に碓井さんに付き合ってくださいと頼む。碓井さんが承諾する。大学祭が終わったら、碓井さんがやっぱり別れてくださいと頼む。僕が承諾する」

「何を考えてる?」

「人助け」

「胡散臭い」

 笑顔を崩さない隼人に盛大に舌打ちして、茗子は紗那に目を向ける。

「あんたは?」

「紗那?」

「友だちなら黙ってな」

 心配そうな優莉に茗子はぴしゃりと言って、紗那を待った。

「はい。お願いします」

 しばらく考えていた紗那は、隼人に頭を下げた。

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