第四章 アリアドネの暗号(2)
玄関のチャイムが鳴り、遥はびくりと体を起こす。
亡くなった姉、
九月二十日。東京はまだ夏の範疇と言えた。
締めきっていた部屋は温室のようで、クーラーを入れて、遥は床にうつ伏せに寝転がっていた。
遥は恐る恐る壁に取り付けられたインターフォンを覗く。すると、ドアの鍵が開く音がした。画面に映っているのは母、
一瞬躊躇した遥は、わざと大きな声を上げて、居室と廊下を仕切るドアを開いた。
「お母さん!」
美穂は玄関の靴で遥がいることに気づいたのか、顔色を変えるようなことはなかった。
春にこの部屋で鉢合わせしたとき、遥はまだ南を真似た髪型・服装だった。玄関のチャイムを鳴らした遥を、美穂は南と間違えたのだ。結果的にそれは、ずっと目をそむけていた「南を亡くした美穂と遥」という新しい関係を作り直すきっかけになった。
「遥、どうしたの? 今日から大学でしょう?」
「今日は授業ないし。すぐ終わったよ」
居室は八畳ほどのワンルームだ。遥は窓側にあるベッドに腰掛け、母を中へ通す。
「ちょっと考えたいことあって」
空の冷蔵庫は電源を抜いてある。水道も電気コンロも使えるけれど、お茶を淹れる道具がわからない。遥はここでエアコン以外の道具を使ったことがなかった。
「自分の分しか持ってないや」
持参したペットボトルを振って見せると、美穂は「お母さんも」とコンビニの袋を掲げた。
「お母さんはここでいつも何してるの?」
「お掃除したり、座ってぼーっとしたり、かしら」
美穂は少し手持無沙汰な様子で、ローテーブルの前の座布団に腰を下ろす。
「遥は?」
「私は、いつも編み物の資料探したりとかだから……何もしてないのは今日が初めて」
自由に出入りしていいと鍵をもらったけれど、ここに来たのはまだ数えるほど。編み物関係で姉の持ち物を確認したかったなどの具体的な用事もなく訪れたのは、今日が初めてだった。
「お姉ちゃんの部屋、勝手に入って怒られてたからなぁ」
南は遥の五歳年上。南が小六のとき、やっと遥は小一だ。小学校入学前の遥は、南の部屋に入っては散らかし、何度も怒られた。
今日一人でここに来たのは、一人暮らしの件を考えたかったからだ。
しかしもう考えることなんて、どうやって母に伝えるかの一点だけだった。
ここで今二人きりになれたのは、願ってもない好機だった。どこで話をしても、姉のことは気がかりになるだろう。それなら、いっそこのくらい姉の気配がある場所の方が、話しやすいかもしれなかった。それに、姉が背中を押してくれたようにも思えた。
「あのね、お母さん」
改まって声をかけると、美穂は緊張した面持ちでこちらを見た。
「私、一人暮らししたいんだけれど、いい?」
「一人暮らし……? この部屋で?」
咎める口調に聞こえたのは、遥の被害妄想ではないだろう。美穂も自覚したのか、「あの……」と口ごもる。
「ううん、ここはお姉ちゃんの部屋だもん。私は住めないよ」
遥は即座に否定した。
「史郎君の従姉のお姉さん、七月末に披露宴行ったでしょ? その
「あなたがしょっちゅう泊めてもらっている人でしょう?」
「うん、そう。それで、瑠依さん結婚したから引っ越すんだけど、家具は新居に持って行かないから、そのまま私に住まないかって言ってくれたの」
父にも母にも、話はしているけれど、実際に史郎や瑠依を紹介したことはない。
「大学に近くなると便利だし、一度一人暮らしはしてみたいと思ってたし。エマちゃんの
遥は週一で、近所の中学生の家庭教師――宿題を見てあげたり授業でわからなかったところを解説するくらいだ――をしている。近所付き合いの一環の、家庭教師派遣会社を通じてではなく個人契約のバイトなので、こちらの都合では辞めにくかった。しかし、来年は受験だから塾に通うそうで、遥はお役御免になる予定だった。
「……ダメかな?」
美穂は、「そうね……」とつぶやいた。俯いているから顔は見えない。
「遥もいつまでも家にいるわけじゃないものね」
「うん……」
「そうよね……でも、南……南はなかなか帰らなくて……もう……」
「私は、週一で帰るよ。お姉ちゃんとは違う」
遥は美穂の隣に座り直す。握った母の手は少し震えていた。
「お母さん、大丈夫? 無理だったら、私、別にいいから」
はっとしたようにこちらを見た美穂は、少し微笑んだ。
「いいえ。大丈夫よ」
「そう?」
「一人暮らしのこと、ちょっと考えさせてもらってもいい?」
「うん、もちろん。あ、えっと、瑠依さんが引っ越すの十月くらいだって」
「わかったわ」
遥は、美穂の手を引いて、立ち上がらせる。
「お母さん、今日このまま一緒に帰ろうよ?」
ざっと片づけて、二人で部屋を出て鍵を閉める。
姉を取り残していくようで、気分が塞いだ。
遥が生まれたときには、南は当然生まれていた。
「お母さんと私がいるのに、ここにお姉ちゃんがいないのって、慣れないな」
「そうね」
窓が開いているのか、内廊下を歩く遥たちの足元を風がついてくる。
建物を出るまで、二人は手を繋いでいた。
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