第三章 湖畔のコードネーム(11)
しばらくしてキャンプ場に戻って来たオーナーの車の中で、木乃香は泣き疲れて眠っていた。他の皆はコテージに戻ったけれど、行きがかり上、遥と紗那は車を出迎えた。遥が引っ張ってきた史郎も一緒だ。
車から降りたオーナーは、遥と紗那を認めると、「さっきは悪かったね」と疲れた顔を向けた。
「追いかけてくれて助かったよ。本当にありがとう」
「いえ、良かったです」
木乃香が眠る後部座席を覗き込んで微笑む紗那の横から、遥は史郎の背中を押した。
「彼が編み物得意なんです。それで、木乃香ちゃんの編みぐるみも直せるかもしれないんですけど」
「本当に? 直せるの?」
目を見開くオーナーに、史郎は手を振った。
「いや、見てみてみないと」
「じゃあ、管理棟の中で」
「でも、寝てる間に勝手に触ったら悪いし、お母さんに直してもらう方がいいんじゃないですか?」
オーナーは少し考える仕草をして、
「夜中に目を覚ましてまた泣かれると困るから、直せるなら直してもらえるかな」
頼むよ、と史郎の肩を叩いた。
管理棟に入ってすぐは広い土間の事務室だ。その奥にある一段高くなっている畳の部屋が仮眠室だった。布団に木乃香を寝かせ、ふすまを開け放したまま、オーナーは応接のソファに戻ってきた。手には木乃香の編みぐるみを持っていた。
オーナーから編みぐるみを受け取った史郎は、遥に「腕って言ったっけ?」と聞きながら、編みぐるみをひっくり返した。
「うん、こっちの……それ」
「ああ、わかった」
史郎は顔を上げずに「これなら、どうにかなるかな」と独り言のようにつぶやいた。
「ほんと?」
「ああ。でも……完全に痕が残らないようにはできないかもしれないんですけど、いいですか?」
史郎は遥にうなずいてから、オーナーに聞いた。
「いいよ。大丈夫」
「気になるようなら、腕だけ作り直した方がいいと思います」
「へえ? そんなことできるの?」
「たぶん、パーツごと別々に作ってると思うので」
史郎は腕と胴体のつなぎ目を指で撫でる。オーナーは「それはママが帰ってきてから聞いてみるよ」と、開いて座った両膝に手をつくと頭を下げた。
「申し訳ないけど、応急処置をお願いできるかな」
「わかりました」
お茶を淹れてくるからと言ってオーナーが立ち上がると、遥は史郎の手元を見つめた。
史郎がカード入れのようなものを開くと、中身はソーイングセットだった。
「もしかして、それ普段から持ち歩いてるの?」
恐る恐る聞くと、史郎は「ああ」と返事した。遥は隣に座る紗那を見る。「持ってますか?」という無言の視線は伝わったようで、紗那はふるふると首を振った。遥も首を振り返した。
「隼人先輩から毛糸もらわなかったの?」
「もらったけど、普通の手縫い糸の方がいいかと思って」
穴は一センチ角もない。編み目の一段分だった。
史郎は針に黒い糸を通すと、穴のふちの毛糸に慎重に刺す。針を引き出してからまた別の毛糸に刺すのを何度か繰り返し、最後にきゅっと引きしめると、穴が閉じた。
「すごいねー」
紗那も歓声を上げる――仮眠室の木乃香を気にして小声だったけれど。
「わぁ、どうやったの?」
「穴の周りの編み目を拾っていっただけ」
「だけって」
史郎は何でもないことのように言う。
「こう、上、下、上って順に……」
史郎は指を空中で上下させて波を描く。
「それで糸を引いたら、上下の毛糸が伸びて、穴がふさがるわけ」
「うーん、なんとなくわかった、かも」
史郎は遥の理解度に構わず、今度は空中に指で丸を描く。
「穴の周囲をぐるっと縫って、引き締める方法もあるんだけど、今回は穴が横に広がってたから」
「うーん?」
首を傾げる遥に、紗那が「巾着の口みたいな感じかな?」と聞くと、史郎はうなずいた。
糸の始末をして補修した部分を指で整えると、遥に差し出した。
「毛糸が太いから、あんまり綺麗にはできないんだ」
史郎はぼそぼそと言い訳のように付け加えたけれど、受け取った遥は紗那とため息を吐く。
「言われないと穴があったなんて気づかないよ」
「ほんとですよねー」
人数分の湯飲みをトレーに載せて戻って来たオーナーは「もう終わったの?」と驚いていた。
せっかくだからとお茶をいただいていると、仮眠室の方で小さな声がした。木乃香の目が覚めたらしい。
オーナーは慌てて編みぐるみを持って立ちあがった。そのときにはもう木乃香は起き出して、土間に降りていた。
「あ、マドレーヌ!」
目を擦っていた木乃香は、オーナーの手元を見て駆け寄る。
「こら、裸足で!」
オーナーに抱き上げられた木乃香は、編みぐるみをためつすがめつする。
「怪我してたの、どこ?」
「そこのお兄ちゃんが」
治してくれたんだよ、と言おうとしたオーナーを遮って、史郎は言った。
「怪我なんて最初からしてなかったよ」
「え、そうだっけ?」
「そう。夢だよ」
木乃香は不思議そうに史郎を見つめた。
「夢?」
「そのパンダ……じゃなくて……」
遥は小声で「マドレーヌ」と教えてあげる。
「マドレーヌ、怪我なんてしてないだろ?」
「うん……」
「だから夢だよ」
木乃香はマドレーヌの全身をもう一度確かめると、「夢だったんだ」と破顔した。
「良かった!」
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