第三章 湖畔のコードネーム(8)

 外に出て見渡すと、紗那はキャンプ場の隅のベンチに座っていた。テントのグループも寝てしまったらしく、人の気配はしない。代わりに虫の声が異様なほどに響いていた。大きな声は迷惑になると思い、遥はとりあえず彼女の元まで走って近づき、それから小声で呼んだ。

「紗那さん!」

「遥ちゃん……」

 目元を擦るようにして紗那は振り返った。

「優莉さんから、上着預かってきました」

「ごめんね」

 紗那は先ほどから謝ってばかりだ。遥は断りなく、紗那の隣に腰を下ろす。

 明るいのは、コテージのカーテン越しに漏れる灯りと、敷地の反対側にあるトイレと流し場の灯りだけ。空を見上げると降ってきそうなほどの星空だった。天頂から木々と触れるところまで、きちんと暗い夜空は都会ではありえない。

「わ、すごい星」

 思わず声を上げると、紗那も「本当! 綺麗」と顔をほころばせた。

 それに背中を押され、遥はそっと尋ねる。

「弟さん、同じ高校だったんですか?」

 紗那は軽く息を飲んでから、落ち着いた声音で答えた。

「そうなの。……親が再婚したとき、私が三年で弟が一年。もう十月で、卒業まで半年だったんだけど……。私、名字が変わったの」

「それは……変えないこともできたんじゃないですか?」

「うん、わかってる」

 紗那は一度言葉を切って、

「私の実父と母が離婚したのは、私が一歳になる前で、だから母は家庭? 家族? ……父親がいて母親がいて子どもがいるっていう……そういうのに、憧れてたのかも。母が幸せそうにしてるから、言いだせなくて」

「はい……」

「大学に入ったときに一人暮らししてしまえばよかったんだけれど、それも言い出せなくて」

 紗那はため息を吐いた。

「名字が変わって親が再婚したことが知れても、碓井ってそこまで珍しいわけじゃないし、黙ってたら弟のことなんてわからないと思ってた。でも、弟が周りに言っちゃったみたいで、平気で一緒に帰ろうって誘いにくるし……結局、さっきの美咲ちゃんみたいにからかわれたりして」

 自分で思ってたより気にしてたみたい、と紗那は微かに笑みを浮かべた。

「弟も母みたいに、家族に思い入れがあったのかなと思ってたんだけど、なんとなく違う気がして……。もしかして私のこと異性として好きなんじゃないかって」

「何か言われたり?」

「ううん、特に何も。ただ今日みたいに出かけるときは、誰とどこに行くのかしつこく聞かれるかな。いっそ何か言ってくれたら断りようもあるんだけれど、先回りして私の勘違いだったら困るし……」

「何かされたりとかも?」

「それもないから」

「そうなんですね。良かった」

 遥が胸をなでおろすと、紗那はくすりと笑った。

「皆そうだよね、何かあるまで深刻に受け取ってくれないの」

「え、あ、すみません。そんなつもりじゃ」

「うん、わかってる。でもね……」

 紗那は静かに微笑んだ。

「母にとっては家族かもしれないけど、私にとっては結局、義父も義弟も他人なの。男の人が家にいるのが落ち着かない。だって、生まれてからずっと母と二人だったんだもの」

「それで、一人暮らし?」

「何か口実があれば母に言いだしやすいかと思って」

 紗那は遥の手を掴んだ。体ごとこちらを向く。

「ね、お願い。和田君に聞いてみてくれない?」

 その必死の瞳に気圧されるように、遥はうなずいた。

「聞いてみることしかできないですけど」

「いいの、それでも。ごめんね」

 紗那はまた謝った。

 それを指摘しようと思った遥だけれど、ふと視界を何かが横切った気がして、言葉を失う。

 敷地の反対側を走り抜けていった小さな影は、木乃香ではなかっただろうか。

「木乃香ちゃん?」

「え?」

 遥のつぶやきに、紗那も振り返る。

 キャンプ場の出入り口にある看板を照らす小さな灯りが、少女の影を見送ったのがわかった。

「今、外出て行っちゃいましたよね? 木乃香ちゃんでしたよね?」

「たぶん。……どうしよう」

「とりあえず私追いかけますから、紗那さんは誰か呼んで来てください」

「待って、一人じゃ危ないよ」

 紗那は上着のポケットを探って「やだ、スマホ忘れた」と声を上げる。遥も持って来ていない。

「二人ですぐ行って連れ戻してきましょう」

「そうだね」

 遥と紗那はうなずき合って、駆けだした。

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