第三章 湖畔のコードネーム(1)
「おかえりなさーい」
日曜の夕方、帰宅した
「ただいま」
博司が返事をすると、案の定、遥は驚いた顔で振り返った。
「わ、お父さんか。お母さんだと思ってた」
「お母さんは?」
「買い物」
長女の
遥は南と同じ新山大学に進学した。同じ学部だ。同じサークルにも入ったと聞いたときには、さすがに何か言おうかと思った。ずっと借りっぱなしだった南の部屋――大学に通うのに南は一人暮らししていた――を遥に見られてしまったと、美穂から相談されたのは四月の終わりだった。それで二人の間に何があったのか詳しくは聞いていないけれど、お互いに探るように気を使って会話をしていたのが、少しずつ変わっていっているようだった。
ずっと伸ばしていた髪を切り茶色に染めた遥を、南と見間違えることはなくなった。顔の造作は似ていても雰囲気が違う。
美穂も、あまり南の部屋に行かなくなった。代わりに平日に近所のスーパーでパートを始めた。
やっと本当に時間が動き出したような気持ちで、博司はほっとしていた。逃げるように休みのたびにゴルフ練習場に出かけていた自分を反省もした。最近は早く帰るようにしている。
「今度は何を作ってるんだ?」
手を洗ってリビングに戻ると、博司は遥の手元を覗き込んだ。
遥が編み物を始めたのは知っている。いつもリビングで編んでいるからだ。自室に籠りがちだったのが嘘のようだ。――いや、籠りがちだったときが異常だったのだ。もともと遥は何でも家族に話すタイプだった。
逆に、南は学校で起こったことや交友関係をあまり家で話さなかった。友人の名前もわからず葬儀の連絡に困ったし、編み物をしていたのも事故のあと部屋を見て知ったくらいだ。
「ヘンプ編み」
手を止めた遥は、作っているものが博司に見えるように少し体をずらした。一端に重しのペットボトルが載せられた青っぽい紐の束だ。五センチほどが模様に編まれていた。
「ヘンプ編み?」
「ミサンガ。ブレスレットだよ。こういうの」
遥はテーブルに広げた本を指差す。デザインがだいぶ洗練されているが、昔流行ったミサンガと同じものだろうか。
「誕生日に
「史郎君……」
そう、遥は何でも話してくれる。頻繁に遊びに行っている友だちが男なのも知っている。本当に友だちなのかと聞きたくなることが何度もある。父としては複雑だ。
茶でも淹れるか、とその場を離れようとしたら、遥に呼び止められた。
「あのさ、こないだ結婚式行ったでしょ?」
「ああ」
件の
これまた複雑だ。家族ぐるみで娘によくしてもらっているのは理解している。だが、気づいたら娘を持っていかれていたなんてことになりそうで気が気じゃない。
「
「ほらみろ」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
軽く咳払いをする。
「お父さん、どう思う?」
「お前はどうしたいんだ?」
「うーん、大学に近くなるのは便利だと思う。できれば一人暮らししてみたいかなぁ」
「遥がしたいなら一人暮らしすればいいと思うが……史郎君の家に甘えっぱなしはどうだろう? 南の部屋は?」
「お姉ちゃんの部屋はダメだよ。私は使えない」
遥はきっぱりと拒絶した。博司は少し驚いたが、そうか、とうなずく。
南の部屋を残しているのは美穂のためだった。南を悼む気持ちはあれど、博司は、美穂や遥の今とこれからを守る方が大事だ。美穂が南の部屋を必要としなくなる日がくればいいと思っていた。遥が一人暮らしをしたいならいい機会だと思ったのだが、遥も南の部屋に思い入れがあるのだろうか。
「私が一人暮らししたいって言ったら、お母さんはなんて言うと思う? 反対するかなぁ」
不安げにこちらを見上げる遥に、博司は、
「それは聞いてみなきゃわからんな。でも、遥。お母さんが反対しても、説得せずに勝手に出て行こうとするんじゃないぞ」
「わかってるよ」
遥は真剣な顔で続けた。
「もうちょっと考えるから、お母さんには黙ってて」
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