第5話

 卓袱台を押しのけるように身を寄せ合って、夢中で互いの口唇の感触を確かめ合う。窓から差し込む陽光が茜色を帯び始めた部屋の中には、なまめかしい水音と微かな吐息だけが響いていた。

 畳の上に組み敷かれた詠史を見下ろす尊人の瞳にも余裕の色はない。あるのは雄の獰猛どうもうな光と、激しく燃え盛る渇望かつぼうほむらだけだった。獲物を前にしたえた瞳に、詠史の奥底にくすぶっていた官能の熾火おきびも呼応したように激しく燃え上がる。

 まるで性を覚えたばかりの若者のように、貪るようにお互いを求めあった。



 すっかり夜のとばりが降りた部屋の中は、射し込むほのかな月明かりで、まるで海の底にいるかのように濃藍のうあいに染まっている。

 部屋の中央には重なり合ったふたりの躰が黒くうごめき、輪唱のようなふたつの呼吸と微かな衣擦きぬずれの音だけが響いていた。

「――大丈夫か?」

 深く息をいて呼吸を整えた尊人の声が、甘く詠史の耳朶じだを揺らす。

「……大丈夫かって……言われたら……全然、大丈夫……じゃない、よ」

 ぐったりと畳の上に両手を投げ出した詠史から、整わない呼吸のままに途切れ途切れの掠れた声が小さく返された。

 激しく上下する詠史の胸が、体重をかけすぎないように自重を腕で支えた尊人の胸に触れては離れてを繰り返している。

「……初めてのときより……しんどい…‥」

「加減ができなかったからな。おまえがこの10年、誰も受け入れていなかったなんて、理性が吹っ飛んでも仕方ないだろう?」

 悪びれもせずにしれっと返される言葉に滲む歓喜が、羞恥を煽った。

 まだ汗で濡れた背中に腕を回し、引き寄せた程よく筋肉を纏った引き締まった胸に顔を埋める。しっとりと肌を濡らす汗が頬を湿らせるけれど、それすらも愛おしくて、胸板の中央を走る微かな溝に舌を伸ばしてちろりと舐めあげた。

「おまっ、またかされたいのか?」

 焦ったような尊人の言葉にほんの少し溜飲りゅういんが下がる。あの嵐に舞う木の葉のように翻弄ほんろうされる熱も悪くはないと思うけれど、今はただ、こうして胸の奥から直接耳朶を打つ鼓動を味わっていたかった。

「もう若くないから無理だって。それに、さ、こうして腕の中にある重みが幻じゃないって実感していられるのが嬉しいんだ」

 子猫のように頬を擦りつける詠史を抱き寄せて、畳に躰を横たえる。

「おまえの部屋もあのまま残してあるんだ。――帰ってくるだろう?」

 尊人の胸から直接響く言葉が、鼓膜を甘く震わせた。

「――うん。尊人の隣に帰りたい。……でも、余所者のボクを優しく受け入れてくれた人たちに、ちゃんとお別れをしてからでいいかな? さっきの瑛子さんもだけどさ、みんな本当に温かく受け入れてくれたんだ。だから……」

「当たり前だろ。詠史の気が済むようにしてから戻ってくるといい。10年も待ったんだ。そのくらい待てるさ」

詠史の言葉尻を奪い取ってそう言い切ると、大きな手でわしゃわしゃと、汗にしっとりと濡れた詠史の髪を搔き乱す。

「うん。ありがとう」

 胸元から顔を上げた詠史が、そっと尊人の左手をとって鈍く光を放つ指環に口唇を落とした。

 薄いレースのカーテン越しに射し込む月明かりに、片割れを取り戻した指環たちが絡ませあった指の上で淡く光を放つ。

 夜の静寂しじまが優しくふたりを包み込んでいた。

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