第4話

 玄関に入ればすぐに台所と続く6畳の部屋が視界に入る。あとは閉ざされたドアの向こうに風呂とトイレがあるだけの詠史の城だった。

 部屋の中央に小さな卓袱台ちゃぶだいが置かれただけの質素な部屋。

「座布団はないんだ。そこに座って」

 先に部屋に入った尊人が卓袱台の前に胡坐あぐらをかくのを確認してから、小さな冷蔵庫を開けて洗いかごに伏せてあったグラスとマグカップに麦茶を注ぐ。尊人の前にグラスを置いて、マグカップを手に向かい側に腰を下ろした。いつの間にかからからに乾いてた喉を麦茶で潤して、半分ほどに中身の減ったマグカップを卓袱台に置く。

「で、今更話ってなに?」

 早く済ませてしまいたいと口火を切る詠史をじっと見つめる尊人が、ゆっくりと口を開いた。

「おまえを迎えにきた」

 オマエヲムカエニキタ――?

 告げられた言葉に、脳内が混乱して理解ができない。

(こいつは外国語でも話してるのか?)

「えっと……意味が分からないんだけど……」

「実家を説き伏せたんだ。名家の女を嫁にしなくても揺るがない成果を叩きつけてな」

 にやりと悪い笑みを浮かべる尊人の言葉は、やはり聞きなれない外国語を話しているようにしか聞こえなかった。

「おまえが出て行ったあと、おかしいと思って実家に電話をしたんだ。安西……実家の執事からおまえにした仕打ちを聞いて突然の別れ話の意味がようやく理解できたよ。すぐにでも連れ戻したかったけど、今連れ戻してもまた同じことを繰り返すと思った。だから、誰にも文句を言わせないように成果を出すのが先だと思った。まさか10年もかかるとは思わなかったけどな」

 言葉を切った尊人が目の前のグラスを手にする。その指で主張する指環がきらりと窓から差し込む光を受けて輝きを放った。

「それ……結婚してるんだろ?」

 視線の先にあるものに気づいた尊人は、見せつけるようにグラスを卓袱台に戻した左手を詠史に向かって差し出す。 

「してるよ。――おまえとな」

 目の前に差し出されたそれは、あの日手放した詠史の指環の片割れに間違いなかった。一生ものだからちゃんとしたものを贈りたくてオーダーメイドで作ったと言っていた指環。告白されたときに満開だった桜の下での始まりをいつまでも忘れないようにと、桜の花が刻み込んであった。

 きちんと手入れされていたのだろう、鈍い輝きを放つプラチナには忘れられない花弁の文様がある。

「おまえの気持ちはこの10年で変わってしまった? 永遠を誓った言葉がまだ有効なら、俺の隣に戻って来いよ」

 身を乗り出した尊人が、突き出していた左手で詠史の左手を掴み上げた。スーツの胸ポケットを探っていた右手が取り出したものに目をみはる。

 自分の意志で外して突き返した、詠史の指環だった。

「これをもう一度ここに嵌めてくれないか?」

 薬指の先で止められた指環。

「ほ……ほんとにいいの……?」

(尊人の為を想ってのこととは言え、裏切った自分にこの指環をもう一度嵌める権利があるのだろうか)

「俺が添い遂げたいと思ったのはおまえ以外居ないんだよ、詠史。だからおまえが受け取ってくれないなら、俺の指環は片割れを失くしたままだ。これからもそれは変わらない」

 ずっと忘れられなかった相手から変わらぬ想いを伝えられて、それでも突き放せるほど詠史は強くはない。

 胸の奥底から込み上げてくるものが、熱い雫となって詠史の頬を滑り落ちた。

「ご……めん。ごめん尊人。ボクも尊人の傍に居たいよ」

 次々と零れ落ちる涙が視界を遮る。滲む世界の中心でほっとしたように笑みを浮かべた尊人の手によって、するりと指環が嵌められた。力強い腕に引き寄せられた躰がきつく抱き締められる。濡れた頬に擦れる上質なスーツの生地の感触。布地越しにじわりと滲んでくる懐かしい体温と鼻腔をくすぐる尊人の香りが、掌から零れ落ちたはずの幸せを再び手に出来たのだとようやく実感させてくれた。

「長い家出だったな」

 胸から直接響く低い声に、止まらない涙もそのままに何度も頷く。わずかに緩んだ腕の囲いの中から見上げれば、まぶし気に見下ろす尊人の顔がゆっくりと近づいて、溢れる雫を厚みのあるかたちの良い口唇で吸い取っていった。

 閉ざされた長い睫毛まつげを舌先で擽って、頬を滑り降りた口唇が嗚咽おえつこらえてきつく結ばれた詠史のそれと重なり合う。

 ついばむように数度軽く触れた接吻くちづけが深いものに変わるのに、そう時間はかからなかった。

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