年上の女

別府崇史

年上の女

「子供、好き?」


 褥を重ね終え、冷たい床にへばりついていた私に貴美さんは言った。


「好きですよ」

「本当に?」


 たぶん私は怪訝な目つきをしていたと思う。女と話している中では良くあることだが、持ち上がった話がどこへ向かっているのか、予想がつかないときがある。


 彼女は艶やかな両目でいつもどおり私を眺めていた。

「私の子はね、それは素直でいい子なんだけど。他の子供は一切駄目。気持ち悪い」

 血が繋がっていればいいの? と聞くも曖昧に首を振る。

 私は話の続きを待つでもなく適度に相槌をうった。

 おいで、と招かれ布団の上へ転がった。

 彼女が私の頬を撫でる。

 眠気があった私は、きっとこの話を聞いている最中に寝入ってしまうだろうと思っていた。その時は。



 貴美さんが小学生の頃。

 夏休み終了間際のことだったという。

 西東京の郊外。同じ都内とはさすがに地元民すら呼べない場所だ。

 口うるさい母親に夏休み中『やっつけられ』鬱屈とした気分だった貴美さんは友人に誘われるまま、数人でコックリさんを行ったという。


 帰路につく頃にはすっかり日も落ちていた。


 街灯の少ない道を歩いていると先ほどまでの禁止された遊びが思い出され、薄気味が悪かった。お調子者の友人が『コックリさんは ほんとは クズなの?』なんて質問を投げかけたことが今さらながらに、なにか取り返しのつかないことをしてしまったようで、身震いがする。


 電柱と電柱のわずかな間、影が生じる。


(なにかそこから出てきそう……)

 自然と急ぎ足になった。

 とりあえずこの一本道を抜けてしまおう、貴美さんはそう考えた。

 顔を上げると、道の先から誰かが歩いてくる。


(うわ……嫌だな)

 相手を確認することはできなかった。

 曲がりたがったが長い一本道である。


(神様ごめんなさい神様ごめんなさい。もう二度と変なことしません。ゆるして下さい、ゆるして下さい)

 貴美さんは必死に祈りながら歩く。

 地面だけを見つめていたが、ついに視界に相手の足元が入った。


「貴ちゃん」


 見かけたことのある近所のお姉さんだった。接点はないので話したことはない。

「こ、こんばんは」

 名前も知らない大人に話しかけられる緊張と、だけど大人と一緒になったという安堵から貴美さんは泣き出しそうになったという。


「ねぇ、あの。大丈夫?」


「はい……大丈夫です。ほんと大丈夫です」

 泣いてなんていません。泣いてなんかいません。手の甲で目尻をぬぐいながら首を振った。

「そお?」

 貴美さんは恥ずかしさを隠すように何度も頷いた。

「じゃあいいんだけど。まぁ、私に関係ないし。あのね、向こうから歩いてくる時にずっと見えていたんだけど。貴ちゃんの後ろから、ずうっと、

「え?」


 ――今ね、電柱に隠れてこっち窺ってる。頭が三角に変形した真っ黒のガキ。手ぇ、ないね。


 お姉さんは眉をひそめた。

「私、すれ違うの嫌だから、そこの友達のアパート寄っていくから」

 ばいばい。

 そう手を振るお姉さんを、貴美さんは訳もわからず手を振りながら送りだしたそうだ。

 絶望が襲ってくるまで一秒もかからなかった。



「それから?」

「どうやって帰ったのか覚えていないの」

 タオルケットを身体にまきつけ、彼女はメンソールの煙を浅く吸い込んだ。

「気がついたら自分のおうち。布団にくるまっていた」

「ふうん」

「お母さんにね、すごく叱られた。ただいまの挨拶ができない子って。大きな声で何度も」

 ちがうのちがうの。すごく怖いことがあって。と貴美さんは説明を試みたが話の着地点はビンタと三日間の外出禁止令だった。

 それでも家から締め出されなかっただけマシ。外には絶対に出たくなかったから。と貴美さんは乾いた声で言った。

「これでも子供が好き?」

「まぁ、ええ。いやどうだろう」

 私はふと意地の悪い気持ちになった。

 彼女のどこか試すような口調が癪に触ったのだろう。「けど貴美さん、その訳のわからない何かを、直接見たわけじゃないよね?」

 煙草を消し終えた時、彼女の顔には何か新しい種類の表情が浮かんでいた。



 語られたのは高校生時代の話だった。

 時期ははっきりと覚えている。卒業間際だったそうだ。

 場所はやはり西東京の郊外だ。流石に小学生の頃からは開発が進んでおり、電灯が少ない地域も少なくなっていた。

 まだ日の高い道を友人と帰宅していた。

 国道の脇を入った民家もまばらな細道。普段は車も止まっていない駐車場にダンボールが置いてあった。

「子猫かな?」

「どうかな」

「空けないとまずいよね?」

「やめようよ……もし猫でも、あんた飼えないでしょ。うちも無理だもん」

 貴美さんは高校を卒業後、大学に進学するため一人暮らしが決まっていた。

 でも、と食い下がる貴美さんに友人が告げた。

「そういうのって、はっきり言って偽善だよ」

 言葉少なく二人は帰路に立ち戻った。


 一旦家にカバンを置いてから、貴美さんは駅までの道を戻った。

 友人から放たれた「偽善」という言葉がひっかかっていた。

 ある種のタイプの人間は「人として善きとされる」正論を一方的に言いたがる。そうすれば自分が人として正しいと思ってもらえると錯覚しているかのように。

 貴美さんは「育てくれた両親には感謝しなきゃ」系の鬱陶しい正論を聞き飽きていたのだ。反発していたのだ。

「ほんっと大きなお世話」

 この言葉は今でも貴美さんの口癖だ。


 道を歩いていると春を全身で感じる。来月からは大学生だ。

 ――新生活はどうなるかな。

 期待に胸を膨らます。

 呪いのような親の支配下から逃れ、自分を取り戻すことができるかもしれない。

 私は私のやりたいように、やりたいことをやるべきなのだ。

 ダンボールに入っている何かを確認し、猫がいればその時考えればいい。

 仮に猫が死んでいたとしたら粛々と土に埋められればいい。

 ――後から考えればこの時の貴美さんは意地になっていたのかもしれない。  

 決心はしていたが、いざダンボールを目の当たりにすると怯む。

 箱に耳を近づけたが音はしない。

 猫の死骸か、あるいは引越しで捨てられた猥褻物の類か。

 ダンボールの天面に手をかける。

 微弱だが突き上げられる感触があった。

 まるで胎動のような感触だったと現在の貴美さんは語る。 

 だがその時は猫の安否が気がかりで――、

 一気に天面を開いた。



 光から逃げるように黒い影が動いた。

 ゴキブリ? 

 だがサイズが違う。

 ――え?

 箱の底を覗きこむが、もう何もいない。

 逃げた? 

 逃げる?

 瞬間、上腕に重みを感じた。


 真っ黒な赤ちゃん。焦げたパンのよう赤子。 


 その物体が墨に染まっていたのも数刻で、陽射しがあたっていると日光写真のように姿が浮かび上がってくる。

 頭部がミミズのように目がなかった。

 裂けんばかりの唇を開くと、顔全体にかかっている粘液が糸をひくやいなや、アイスが溶けるように頭の部分がぽたりと落ちた。

 お好み焼きの玉を落としたような音が聞こえたのと同時に貴美さんの意識が遠くなった。

「だから」

 以後の記憶は自分で作った可能性も否めない、と貴美さんは言う。

「記憶が曖昧になるほどショックだったから。けれどわたしの意識に残っているイメージは……」

 それは、なにか、無数の糸ミミズが絡まっているようにも見えた。

 動きは派手でなく、じゅるじゅると静かに蠢いているのが、なお気持ち悪い。

 子供の頃ふいにのぞいたドブに、蠢いていた塊を頭の大きさに固めた感じだったという。

「なんなのよ……」

 貴美さんの呟きとともに、塊は土の中に次第に溶けていったそうだ。

「なんなの」

 呟きにすらならない唇の動きは、近所のお爺さんに肩を叩かれるまで続いていたという。



 膝枕をされながら、つらつらとそんな話を聞いた。私も煙草に手を伸ばした。

 

 四十を過ぎる彼女はその時苦笑いを浮かべていた。

 この話はそのことへの返答なのだろうか。

 嘘ではないのだろうか。接している限り、彼女は嘘を好むタイプではないと理解している。拒絶はストレートに伝えるタイプだと理解している。では真実なのだろうか? それとも私の理解が狂っているのだろうか。


「子供が生まれてから、二つ決めたことがあるの」

 彼女は私の頬を撫でながら言う。その手は慈母のように優しい。

 一つはママみたいな教育方針にはしない。

 もう一つは自分の子供が真っ黒になってしまったら、私が責任とること。

 お化けでも?

 もちろん。私が全責任をとるの。



 そう言い放つこの年上の女のヒトが、いまだ知れない。

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年上の女 別府崇史 @kiita_kowahana

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