第5話

「朔太とは数ヶ月前に公園で会った。あの女につけられた火傷の傷を冷やしていたよ。かわいそうに。この子は親に虐待されていることを信じられないようだ」

「…どういうことだ」

「それは虐待のことに対してか、それとも私に対してか?」

「後者だ」

ヒラカズと名乗る目の前の少年は、机上で指を組み、低く通る声で答える。「私は朔太によって形成されたもう一つの人格だよ」

「意味がわからない」

「多重人格というのはご存知ですか」

朔太とヒラカズの態度は全く異なる。朔太は少し大人びてはいたものの気弱で大人しい。ヒラカズはそうではない。大人びた口調で冷静沈着、そして高坂を下に見ている。

「朔太は実の母親から虐待を受けて、酷く精神を病んでしまったようだ。虐待されているという現実を受け入れることができなくて、逃避するために形成されたのが私だ」

「…なら、母親を殺したのは朔太くんなのか?」

ヒラカズは首を横に振った。

「違うよ。この子は母親を殺すことはできなかった。優しい子だからね」

それからにんまりと笑んだ。

「だから代わりに私が殺した」

高坂はヒラカズから目を離さずに質問した。

「どうやって殺害した」

「家にあった包丁で、背中を刺したよ。柄の所まで深く。それから中で捻った。血が溢れ出てきたよ。あの女は苦しんだかな? 前屈みになっていたからわからないよ」

「…なぜ殺した」

するとヒラカズは立ち上がり、服を脱ぎ始めた。肌着も脱ぎ、上半身裸になった。

「……」

言葉を失った。

あばら骨が浮いているほど、体はやせ細っていた。皮と骨しかない細い腕。そして無数の青痣。健康とは程遠い体躯。

ヒラカズは眉間に皺を寄せ、高坂を睨んだ。

「見てみなよ、この体。まともに食事をとっていないから痩せ細っている。平均の小学四年生の体重をはるかに下回っている。身長も低い。この細い体にあの女は暴力を振るった。抵抗できないことを知っているのに。朔太はやられるがままだった。このままじゃあ、餓死するか暴行によって殺されるかだ。助けてくれる人は誰もいない。本来守ってくれるはずの親に暴力を振るわれ、朔太の精神は限界だった。だから、殺した。この子を守るために」

「…そうか」

机に脱ぎ捨てられたシャツを、ヒラカズに渡す。

「服を着なさい」

「痛々しい体を見せつけて悪かったね。けど見てもらわないとわからないかなって」

シャツを着終えて、椅子に座る。

高坂は彼の発言を信じられなかった。

多重人格? ドラマや小説のフィクションでしか聞いたことがない単語。そんなものを信じろと? 精神病は専門外の高坂には理解できないことばかりだった。

同じ肉体に人格が二つ。一つは主な人格の朔太。もう一つは虐待を受けて、逃避するために形成されたヒラカズ。現代では、未成年の別人格を法に裁くことは、不可能に近いだろう。このような症例が全くないからだ。

専門医を呼んだ方がいいのか…。そう考えていると、ヒラカズは小さくため息をついた。

「信じてないようだね」

「悪いが、そう簡単には信じられない」

「私の存在は信じてもらわなくて結構。専門医も呼ばなくていいよ。必要ないからね。私は、ただこの子に起きた悲惨な出来事を誰かに伝えたかっただけだから。それにもうあの女は死んだ。もし仮に朔太が犯人として捕まったとしてもこの体を見せれば裁判員は同情するだろうね」

実親から受ける虐待に抗った幼い少年。彼はどう見ても被害者だ。

忘れかけていたことを高坂は訊ねた。

「母親を刺した凶器はどこにやった」

朔太は肩を竦めて、鼻で笑った。

「さあ。捨てたのかもしれないし、誰にも見つけられない場所に隠してあるのかもしれない」

嘲笑うように高坂を見る。凶器が見つかったとしても、ついている指紋は朔太のものだ。ヒラカズを犯人にすることは、イコール朔太を犯人にすることになる。

「この会話は、朔太くんは聞いているのか?」

「いいや。朔太は眠ってるよ。この子が眠っているから私はこうして刑事さんと話ができる。けどそろそろ終わらせよう。朔太が起きる」

朔太の母親を殺したのはヒラカズ。本人が自白している。しかし、ヒラカズは朔太が形成した一つの人格で、存在はしていない。戸籍もない。ヒラカズという人格が、朔太の躰を使って母親を殺した。

上にどう説明をする? 少年が多重人格でもう一つの人格が殺しましたと説明するのか? 頭がいかれたと思われる。

「あまり考え込んでも意味が無いよ。どうせ死んだのは虐待していた加害者だ。それにこの事件はなかったことにされる」

眠そうに目を擦りながらヒラカズは言う。

「なかったことに? それはどういうことだ」

ヒラカズは最後に満面の笑みを浮かべた。

「それは秘密」

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