14.天ぷらと意地(前編)
年々、夏は暑くなり、かといって暑さに慣れるわけでもなく。いかに空調を効かせた家の中だろうと、室温が高めな台所で揚げ物をするのは大変だろうに、お盆の会食のメニューはひやむぎと天ぷらと決まっているから、今年も母親は大量の天ぷらを揚げて、息子夫婦と孫を待っていた。
幼馴染みだった彼女と家庭を持ち、息子が生まれ、その頃から急に母親は誠が子どもの頃の思い出話をするようになった。
ああだった、こうだったとあれこれ話を振られても、幼馴染みとのあれこれ意外はあまり記憶にない誠にはぴんとこない。
和樹はあの頃のあんたにそっくりだ、と言われてもとてもそうは思えない。和樹が自分に似ているだなんてことはない。血のつながった子どもとはいえ和樹は自分とはまったく別の人間だ。日々強くそう感じる。
それなのに母親は誠と和樹を同一に見たがる。女親とはそういうものなのか、そういうものなのだろう、きっと。
その孫の和樹が「おばあちゃんの天ぷら美味しいです」などと口をすべらせたばっかりに、実家での食事は天ぷらと決まってしまった。一度気を利かせて寿司やオードブル料理を手土産に持って来たことがあるが、事前に伝えておいたにもかかわらず「和樹はおばあちゃんの天ぷらが良いんだもんね」とやっぱり大量の天ぷらが用意してあった。
「あんたもひやむぎのつゆで一緒に天ぷらを食べるのが好きだった」
今また母親に話を振られて、誠はあいまいに頷く。この母親はもともと子どもの世話をあれこれしたがる人ではなかったはずだ。一人っ子の誠のことなど「放任主義」で自分の好きなことだけをやるタイプであったのに、孫ができたとたんに家庭的な主婦を演じるようになったのだから、一般的にそういうものなのだろうと思うしかない。
「イカが柔らかくて美味しいです」
求められたわけでもないのに、和樹はまたそつなく感想を述べる。
そんな息子の向こうで、妻はおとなしく小さくなって座っている。らしくない殊勝な様子に笑いそうになるが必死に堪える。今だけの我慢だ。
食卓を挟んで正面では、誠の父親が怖い顔のまま晩酌をしていた。そろそろその厳めしい顔つきを保つのは難しいだろうに、嫁の前では何としてでも表情を崩そうとしない。こちらも意地なのだ。
美登利が不義の子ども(世間的には)を出産したと聞いたとき、誠の父親は激怒した。当然の反応だ。
生まれたのは女の子で、男親がひとりで育てると言っているのだから、一ノ瀬家には関係のない話だ、と誠が説明すると、まるで見知らぬ怪物を見るような目付きで見られた。何を今さら。父親という立場の人は、いつも気づくのが遅い。
おまえが甘い顔をしているからやりたい放題されるんだ、と罵られたが、それも今さらだった。父親自身よく知っているくせに。
同時期にこの高台の住宅地に越してきた同じような中流家庭同士、宮前家も交え長年親しくしてきた間柄だ。そして力関係は、どちらかといえば中川家の方が強い。
中川の義父は、学生の頃に両親を亡くし、保護者であった祖父母も成人前に他界したそうだ。苦学生で働きながら大学を卒業し、いよいよと金融界に躍り出た。
規模は小さいが堅実さで信用度が高い地元銀行の渉外係として着実に成績と階級を上げ、常任理事という役職までのぼりつめた。
誠実で忍耐強く穏やかな人柄の義父はどこへ行っても信頼される。そこはまるで違うが、天涯孤独な生い立ちは村上達彦と重なると誠はずっと思っている。口に出したことはないが。
義母の雪絵は旧家の出身でその縁故も侮れない。
そして何より兄の巽の存在は大きい。天才と名を馳せる地元の有名人、現在の動向はヴェールに包まれているが影響力は計り知れない。
トンビがタカを産んじゃった、とは雪絵がよく口にする言葉だが、父親がツメを隠したタカなのだから当然だ。
そして兄がタカであるなら妹はクジャクだった。美しくて獰猛なクジャクだ。でもそれも不思議ではない、中川家は美形の一家としても有名だから。
そして懇意にしている間柄の一ノ瀬家と宮前家には息子がひとりずつ。どちらが中川家の愛娘を嫁に貰うか、当の本人たちが幼少の頃から両家はけん制しあっていたわけである。特に母親同士が見えない火花を散らし合っているのになんとなく気づいてはいた。
美登利を挟んで本人同士もライバル意識を持っていたのは間違いなく、誠は随分と宮前仁に嫉妬したものだ。口に出したことはないけれど。
だから誠と美登利が入籍したときには両親は有頂天だった。父親はまだそれほどでもなかったが、母親は「どうして式を挙げないの? みどちゃんの花嫁姿見たかったなあ」と雪絵と同じレベルで残念がっていた。
であるから、婚家を裏切る嫁のしでかしに激怒するのは当然だ。心情的にも世間体的にも。
世間体については、産後の弱った体をさらして本人が涙ながらに謝罪と反省を述べ、その両親も伏して娘の不徳を詫びた(美登利にとっては父が自分のために頭を下げたことが何よりつらかったようだ)ことで体面は保てた。当事者たちが丸く事を納めようとしているのにいい年をした親がいつまでも怒っているのも時代錯誤で格好が悪かろう。
そして心情的には。
「そういう子だって知っててお嫁に貰ったのだものねぇ」
誠の母親がこぼしたセリフがすべてだ。
尋常でない女なことはよく知っている。誠自身はとっくに覚悟はしていたし、そのことで彼女や池崎正人を責めるつもりもない。むしろそんな醜態をさらせば負けを認めるようなものだ。村上達彦に鼻で笑われてしまう。
それに少なくとも、美登利は当初、誠との子どもしか望んではいなかった。いつになく強硬な正人の願いに折れたのは誠も一緒だ。
とすれば、彼女ひとりに悪役を押し付けるのは卑怯なのかもしれない。彼女が何かと仕事を理由に不在になるようになったのは、庇ってやれない男たちのふがいなさのせいかもしれない。
でもそれも、彼女が決めたことだから。それに対して手を抜くつもりはない。我ながら歪んでいるとは思うが。
今日もまた、殊勝な様子で美登利は誠の父親の前に座っている。矢面に立つこと、それが和樹の母親としての意地でもあるのだ、きっと。一歩でも引いたとたんに立場はなくなる、いちばん崖っぷちにいるのはいつだって彼女なのだ。
最初の一年は、こうして美登利が御機嫌伺に来ても門前払いだった。騒動がピークだった頃、和樹はまだ二歳だったが、どこかでおぼろげに憶えていたりはしないだろうかと誠は思う。自分の例を振り返っても子どもの記憶力は侮れないので。
母親が先に態度を軟化させ、父親もこうして顔を合わせるようにはなったものの、嫁の前では厳めしい顔つきを崩さない。元々が理性的であまり感情的になるタイプではない父がここまでするのも意地でしかない。とうに怒りは喉元をすぎて、花梨が生まれた数年後、駈の誕生を一応知らせたときには、気を呑まれて呆けたようになっていたのだから。
「お母さん、エビ食べるでしょ」
今では状況を理解していてもおかしくない年頃の和樹が、母の取り皿にそっと海老の天ぷらを乗せる。
「そうそう、みどちゃんは海老が好きだものね。まだたくさん揚げてあるから遠慮しないで」
美登利は控えめに微笑んで礼を言い、上品に箸を取って天ぷらを口に運ぶ。中身はどうあれ所作は良家の子女のようだ。
嘆息を堪えるように口をモゴモゴしている父親のグラスにビールを注いでやる。父は誠の方を見もせずにそっと肩を落とした。
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