13.カシの木の下(後編)

「あいにく、息子さんとは結婚はできません。私、夫と子どもがいますから」

 きっぱりと彼女が言い切った時の親父の顔は傑作だった。後から思い出せばそうも笑えるが、実際その場ではどうなることかと冷や冷やだった。前もって床の間の日本刀を隠しておいたほどだ。それくらい、この父親はいざとなったら何をするか分からないのだから。


 やがて顔を真っ赤にした父親が喚き散らす罵詈雑言にも、巽の妹は微動だにしなかった。

「申し訳ないとは思ってます」

 何を言われても辛抱強く繰り返す彼女の横で、正人はずっと項垂れていた。流れ弾のように正人に対して父親が「こんな奴は息子じゃない!」と怒鳴りつけるなり、巽の妹はすっと立ち上がった。

「それなら、私がもらって帰っても問題ないですね」


 行こう、と正人の手を引っ張る彼女に父親は口をぱくぱくさせ、再び腹の底から声を押し出そうとしていたが、巽と同じ、あの得体の知れない威圧感を展開されて、口と目を見開いたまま座敷を出て行くふたりを見送った。


 あれは魔物だ。悪女なんて可愛げのあるもんじゃない。大声を出して押えつければ相手が言うことを聞くと思っている田舎の小金持ちが敵わないのも仕方ない。魔物に息子を攫われたと諦めるしかないだろう。実際、母親はそんな境地だったらしく、ずっと台所に引っ込んでいたのだから。


「駅まで送るよ」

 車のキーを持って庭先まで追いかけていくと、巽の妹は勇人に向かって小さく微笑んだ。

「すみません」

 数多のニュアンスが詰まっていそうな口ぶりだった。


 駅までの車中、彼女と並んで後部座席に座った正人は、一言も声を発さないまま青ざめて震えていた。バックミラーで時々様子を確認していた勇人は気が付く。

 先程、あんなに彼女が責めらていても、正人は一切弁護しなかった。先んじて勇人に説明したときのように彼女を庇わなかった。

 目線を流すと、鏡越しに巽の妹と目が合った。彼女はやっぱり、勇人に向かって微笑んだ。……つまり、前もってそう決めて来たのだろう。その証拠に別れ際、巽の妹は勇人にこっそりと言った。


「子どもが生まれたら折をみて、とりなしてもらえますか? 孫の顔を見れば気持ちも変わるだろうから」

「ああ。そのつもりだよ」

「すみません」

 わざわざ挨拶などに来たのは、標的になって自分ひとりが悪役になるためだ。生まれてくる子どもと正人をいずれ受け入れてもらえるように。悪いのはあの女で、正人と子どもは悪くない、と言い訳ができるように。




 そして今では、正人は花梨を連れて正月には里帰りする。愛くるしく人見知りしない花梨は親戚の中でも可愛がられている。これだけ多くの親類縁者が集まれば、どの子が誰の子かなんて気にするのも面倒で、いちいち「お母さんは?」なんて確認されたりもしない。噂話で知られているかもしれないが、当の花梨はのびのびと池崎家で過ごせているのだから良いのだろう。


 あの時の自分は、そこまでのことを考えていなかったと正人は反省する。ひたすら我を通そうとする正人に対して、美登利も誠も冷静だった。冷静だったから見捨てないでいてくれた。今ならよく分かる、あの時の自分は切羽詰まっていた。


 その数年前、誠との子作りを宣言され、正人は彼女と会えなくなった。その期間の村上達彦が妙に正人に親切だったのは、彼と比べて自分にまったく余裕がなかったからだ。不甲斐ない、そう自覚する余裕もなかった。だからこそ、あんな願望が出てきてしまったのかもしれない。


 和樹が生まれて、それまで彼女に対して刺々しさを拭いきれずにいた誠の顔つきが変わった。子どもを得たことで美登利を見る目も柔らかくなった。目の当たりにした変化が大きすぎて、ただただ驚いた。

 自分も変化が欲しい。願ってはいけないことだったのに思ってしまった。

 美登利は、自分は勝手に決められないからと誠も交え、何度も何度も話し合った。結果、それこそ子どものような頑なさで正人が押し切った。

 美登利も誠も腹を決めればあとは強い。肝心の自分がいちばん弱かったのだ。


「今日から三日間が勝負だよ」

 それでも、お泊りセットを持って正人の部屋に来た彼女とふたりきりで過ごせた一週間は夢のようだった。

「ほんとは逆立ちするといいって言うのだけど」

「誰が?」

「百合香先輩」

 冗談みたいなことを言いながら、壁に脚をかけて寝そべる彼女と夜更けまで話をした。学生時代に戻ったみたいだった。


 朝には「いってらっしゃい」と見送られて、急いで帰れば「お帰りなさい」と出迎えてもらえる。美登利が順調に懐妊したことで、そんな生活は二度とは訪れなかった。目的よりも過程に目が眩んでいた。そういう自分に気が付いて、やっぱり後から猛省した。




「お父さん、見て見て!」

 明るい声に見下ろすと、墨がまだ黒々した半紙を両手で掲げて花梨が笑っている。正人が物思いにふけっている間に勇人は戻ってしまったようだ。カシの大木の下にいるのは正人と花梨だけ。


「料理?」

「うん!」

 半紙には、上手ではないけれど元気いっぱいの文字が躍っていた。

「今年の目標をみんなで書こうってなったの。わたしは〈料理〉。お母さんは料理ができないから、花梨は料理が上手になってお父さんを喜ばせてあげてって、お母さんが言ってたの」

「そうか。嬉しいな」

 自分でもだらしなく口が綻ぶのが分かる。


 ――約束してね。この子のお父さんはあなただけなんだから。

 どんなに歪で我儘な想いの結果でも存在の尊さは変わらない。自分は、この子のことをいちばんに考えなければならない。愛しい人に損な役割を押し付けてでも。

 でもそれも、あなたがそう望んだから。自分にとっての罰だとしても受け入れる。愛しているのはあなただけ。

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