55 幸せになる権利1

少しだけ残酷なシーンがあります。



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怖い、痛いと泣き叫んでも男は暴力を止めなかった。体を殴られ、蹴られ、時には腕や背中をナイフで傷つけられた。体がボロボロになるまで蹂躙じゅうりんしたところで飽きたらしく、私は男に捨てられた。ただ帰りたかった場所も失った私に残されたのは憎い男の子供だけだった。




 悪夢にうなされて目が覚めたディアナは暗闇の中でのろのろと体を起こした。暖炉に火が付いていても真冬の室内の空気はひやりと冷たい。悪夢でかいた汗が冷えて体をブルリと震わせた。

「今更……どうして……」

 彼女の立場を理解し、支えてくれる人が居るおかげで忌まわしい記憶の夢はこの1年ほどは見ることは無かった。それなのに幸せになることは許されないのか、まるで呪いの様にあの記憶が彼女をがんじがらめにからめとっていた。

「バート……」

 汗を拭き、寝間着を着替えて寝台に戻ると幼い我が子は健やかな寝息を立てていた。夏に全身に及んだかぶれは痕を残すことなく完治した。全ては聖域から来たグルース医師のおかげだ。あれ以来、息子はグルース医師を尊敬し、弟子になると公言している。あの男の血を引いているとは思えないくらい真っすぐに育ってくれている。

 バートはまだ真実を知らない。知らない方がいいとも思っている。ディアナの今の最大の懸念は望まぬ形で彼に真実が知られてしまう事だ。結局眠ることが出来なかった彼女は、暗い気持ちを引きずったまま朝を迎えた。




「どうしたの? 元気ないわね」

 仕事の前にバートを預けにドレスラー家に寄ると、ディアナの姿を目ざとく見つけたジーンが声をかけて来る。急いでいるからと逃げようとするが、そんなごまかしは彼女には通用しなかった。

 勤め先である竜騎士宿舎の食堂には休む旨を伝える使者が送られていた。バートはニコル達と一緒に勉強部屋に行き、残されたディアナはジーンに引きずられるようにして彼女の部屋へ連れて行かれた。

「さて、話してもらいましょうか?」

 お茶を淹れてもらった侍女を下がらせると、早速ジーンに追及される。ただ、悪い夢を見ただけと答えたのだが、それだけではごまかされてはくれなかった。

「悪い夢を見てしまうほどの何かがあったんでしょ?」

「……」

 図星だった。前日に仕事から帰るところを恩人であるキリアンの恋人だという女性に待ち伏せされていた。彼女はいきなりディアナを突き飛ばし、蔑みの言葉を投げかけた。そして春になる前に彼の前から消えるよう言ったのだ。

 彼に好意を寄せられているのは分かっていた。自分でも気づかないうちに浮かれているのだろう。その女性の言葉は彼との身分の違いをまざまざと思い知らされたのだ。そう、あの男に穢された自分は彼に相応しくないのだ。

「バカねぇ。その女の言葉なんか信じちゃだめよ。今のあいつにディアナ以外の女性に目を向ける余裕なんてないわよ」

「でも……」

「自信を持ちなさい。確かに、何年か前まではヤンチャしてたけど、今はキッパリ関係を絶っているわ。そうでなければ私もリーガスも貴女に近づくのを認めないと宣告している。きっと、諦めきれない誰かが貴女の存在を知って短絡的に事に及んだのでしょう。後はこちらに任せて頂戴」

 ジーンは自分の事の様に怒っている。彼女も今まで何度も助けてもらった恩人なのだが、巻き込んでしまうのは何だか申し訳ない。

「あのね、突き飛ばされたのでしょう? その手の傷はその時に出来たのではなくて? しかも侮辱するだけでは飽き足らず、脅してきたのでしょう? これはね、もう立派な犯罪なの」

「ジーン卿、でも……」

 怒り狂うジーンはディアナの消極的な反論を認めなかった。その場で夫に宛てて事のあらましを綴った手紙をしたためていた。あとはこの手紙を使用人に届けてもらうだけである。人を呼ぼうとしたところで、先程ディアナの休みを知らせに行かせた若い使用人が戻って来た。

「奥様、大変です。今しがた総督府で聞いた話ですが、東砦の管轄で大規模な討伐が行われ、竜騎士方にも負傷者が出たとの事です」

 現在、東砦はキリアンが受け持っている。すぐにそれに思い至ったディアナは血の気が引いてくる。

「他に何か情報は?」

「指揮系統が機能しなくなる恐れがあると、総督府からも応援が向かいました」

「それって、まさか……」

 ディアナの脳裏に最悪の事態がよぎる。このまま会えなくなるのは嫌だ。そう

思った彼女はジーンに必死になって頼み込んでいた。

「あの、ジーン卿、私を東砦に連れて行ってください!」

「良いわよ」

 あっさりと了承したジーンは、驚くほどの速さで全ての手配を済ませ、ディアナを連れて総督府へ向かった。子供達には悪いが、後はジーンの両親が見ていてくれることになった。




 厳冬の最中に初めて飛竜の背に乗ったディアナは、その寒さに震えながらも必死に彼の無事を祈っていた。やがて慌ただしさが未だに残る東砦に到着すると、ジーンに手を引かれて砦の中へずんずんと歩いていき、やがて重厚な扉の前に着いた。

 中からは緊迫した空気が伝わってくる。いてもたってもいられず、ディアナは自分で中に飛び込んだ。

「キリアン様は?」

「え? あれ? ディアナ?」

 中には確かにキリアンが居た。上半身裸の彼の肩には痛々しく包帯が巻かれているが、机の淵に座って目の前にいる竜騎士達を叱責している最中だったらしい。いきなり現れたディアナに驚き、目を丸くする。

「け、怪我をしたかもと聞いて……」

「あ……かすった程度だ。問題ない」

「でも、指揮系統が機能しないって……」

「こいつらが変に争ったからな。今、説教していたところだ」

 叱責されていた竜騎士達はバツが悪そうに項垂うなだれている。どうやら自分の早とちりだったと気付き、安堵したとたんに力が抜けてその場に座り込んだ。

「ディアナ?」

 キリアンは慌てて駆け寄ってくる。そして彼女を抱き上げると、今まで叱責していた部下達を邪魔だから下がれと蹴り出してしまった。

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