73 未来への決断3
翌日の午後、エドワルドは
予想通り今日も随分と肌寒い。行き交う街の人々も外套を着込んでいる人が目立つ。
「まあ、エドワルド殿下」
いつもと違い、日の高いうちに現れた彼の姿を見てエルデネートは驚く。
「急に来てすまない。どうしても顔が見たくなった」
「嬉しい事を仰られる」
エルデネートはエドワルドから外套と帽子を受け取り、1階の居間へ通す。暖炉に火がくべられており、彼女は今までここで編み物をしていたようだ。彼女は現れた家令に帽子と外套を預けると、エドワルドに席を勧める。
「これがやっと来た。一緒に飲もう」
エドワルドはワインの瓶を彼女に見せる。皇都で酒屋のマルクに貰ったブレシッド産のワインを詰めてきたのだ。
彼はこのワインの輸送には気を使っていた。夏の間は城の貯蔵庫で保管させ、涼しくなってから船で輸送するように手配していた。それがつい先日、ロベリアに到着したのだ。
「かしこまりました」
エルデネートは家令に命じてすぐに酒肴を整えさせる。贈り物の類は一切受け付けてこなかった彼女だが、酒豪のエドワルドが自分で気に入ったワインを持って来て一緒に飲むことは幾度となくあり、このワインも届いたら一緒に飲む約束をしていた。
「では、乾杯」
テーブルには酒肴が並べられ、用意された杯にワインを注ぐ。軽く杯を合わせ、先ずは香りを楽しむ。
「いい香りだ」
「ええ」
そして口に含むと舌で転がすようにして味わう。幾度かブレシッド産のワインを味わってきたが、それらとは比べ物にならないくらい美味である。
「言葉にできないな、これは」
「本当に、こんなにおいしいワインは初めて頂きました」
「まだある。さあ、飲もう」
エドワルドは手ずからエルデネートにワインを注ぎ、自分にも美酒を満たす。そしてしばらくの間はとりとめのない話をしながら2人で杯を傾けた。
「マリーリアの事、ありがとう。助かった」
「お役に立てたのなら良うございました」
エルデネートを尋ねた後、目に見えて上司への反発も少なくなり、護衛を渋る事は無くなった。まだまだ表情に乏しく、彼女の中に蟠る問題も打ち明けられてはいないが、頑なだった心に何らかの変化が訪れたのは明白だった。全てを打ち明けられるにはもう少し時間はかかるかもしれないが、一歩を踏み出せたのは確かだった。
「君には本当に世話になりっぱなしだ」
「好きでしていることでございます」
エドワルドは最後の1杯を飲み干した。
「エルデネート」
急に改まった口調で名前を呼び、彼女を見つめる。
「今日は、今までの礼と詫びに来た」
「はい」
今日姿を現した時から、それとなく彼女も分かっていた様子である。彼女も姿勢を正してエドワルドを見つめる。
「そなたに会うのも本日をもって最後とする」
「かしこまりました」
エドワルドは一度立ち上がると、エルデネートの側に跪いて頭を下げる。
「エルデネート・ディア・ガレット、今までの献身的な愛情に対して礼を述べると共に、私個人の我儘により、契約後もこの地に引き留めたことをお詫びする。エドワルド・クラウス・ディ・タランテイル、この御恩は生涯忘れないであろう」
「エドワルド殿下、どうぞお立ち下さいませ」
エルデネートは跪く彼の側に膝をつく。
「私の方こそ、楽しい夢のようなひと時をありがとうございました。この思い出は私の宝となりましょう。ですが、殿下はどうぞ私の事はお忘れくださいませ。お嬢様の為にも、奥方様になられる方の為にもその方がよろしゅうございます」
そうきっぱりと言い切る彼女にエドワルドは顔を上げて見つめる。
「本当に君という女性は……。だから別れ辛くなる」
エドワルドは立ち上がると、彼女にも手を貸して立たせる。
「もうクラウディアの時の様に引きずる事は無い。忘れるなどとんでもない。そなたと過ごした日々は良き思い出として残しておく」
そう笑いながらエドワルドは彼女の顔を覗き込み、最後の口付けを交わした
「これは少ないが今までのお礼だ。受け取って欲しい」
エドワルドは懐から巾着を取り出すと、エルデネートに渡す。普段使う物と違い、金糸を使った豪華な巾着はずしりと重みがある。
「殿下、それはいただけません」
エルデネートは巾着をエドワルドに返そうとする。
「それこそこれが最後だ。頼む、受け取ってくれ。あって困るものではない」
エドワルドはそれを押し止め、エルデネートに巾着を握らせる。
「……分かりました。殿下、ありがとうございます」
彼女はようやく頭を下げて巾着を受け取った。
「では、これで失礼する」
エドワルドは丁寧に頭を下げる。エルデネートは家令を呼んでエドワルドの外套と帽子を持ってこさせると、それを手に玄関までついていく。そして彼に外套を着せ掛け、帽子を手渡す。
「ありがとう」
「お気を付けてお帰り下さいませ」
エドワルドは帽子を被ると、家令が開けた扉を潜ってゆっくりと外に出る。
「お元気で」
「殿下もどうかご健勝で」
エルデネートは深々と頭を下げる。エドワルドは既に用意されていた馬の背に跨り、彼女に手を上げるとそのまま馬を歩かせ始める。
「エドワルド様……」
やがて通りを行く姿は角を曲がって見えなくなる。エルデネートはとうとう涙をこらえきれなくなり、自分の部屋に駆け込んで寝台に伏して泣き始める。こうなる事を望んでいたはずなのに涙が止まらない。最初は生活の為に断われず、仕方なしに始めた関係だったが、いつの間にか彼女は彼を愛していた。
エルデネートはこの日、部屋から出て来る事は無かった。
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