絵月とトマト
水谷なっぱ
絵月とトマト
八重はトマトが嫌いである。なので絵月はいつもトマトを一人で食べている。
絵月自身はトマトに思うところはない。可もなく不可もない夏野菜であり、たまに食べたくなる程度だ。嫌いな人が多い野菜だとは思う。八重もそうだが、弟の湖月もトマトが嫌いだったはずだ。くせがあるのでしょうがないのかもしれない。
ある休みの日の昼食に絵月はトマトを買ってきた。近所のスーパーで安売りをしていたのと、トマト売り場においしいトマトの食べ方レシピが展示してあったからだ。
そこにはトマトのバジルサラダの作り方が書いてあった。それはいかにもおいしそうだったし、絵月はバジルが好きなので一も二もなくトマトとバジルを買ってきたのだった。
「オリーブオイルに塩とバジルを入れて、そこに切ったトマトを入れます」
レシピの写真を見ながら絵月はトマトを切る。完成したトマトのバジルサラダは写真通りにおいしそうだったものの、トマトを2個まるごと使ったそれは少し量が多い。かといって残したり分けたりする絵月ではないので全部皿にあけてフォークを伸ばした。
「おいしい」
ちゃんとおいしいトマトだった。トマトの味とバジルの風味と塩気が絶妙である。多いと感じたサラダは数分で絵月の胃袋に収まった。
その日の夜、絵月の部屋に八重が遊びに来た。来たのだが、一歩入ったところでなにやら悲しそうな顔をして立ち止まる。
「今日の夕飯トマト?」
「違うよ」
「でもトマトの気配がする」
「昼ごはんに食べたから」
ならいいや、と八重は部屋の中に入ってきた。どれだけ嫌いなのかと絵月は少し心配になる。人間好き嫌いの一つや二つあっても構わないが、気配で悲しくなるほど嫌いだと生活に支障をきたすのではないか。生き難いのではないか。
「トマトの気配がわかるの?」
「わかるよ」
「スーパーとかコンビニでも気配を察して悲しくなるの?」
「ちょっと」
水場の気配を察する砂漠の動物みたいだなと絵月は笑いを堪えた。世が世ならそれだけで仕事になっていたかもしれない。
「トマト以外の気配はわかるの?」
「他は牡蠣くらいしかわからない」
そういえば八重は牡蠣も苦手だった。苦手なものばかり感じ取ってしまうのは大変ではないのか。それ以前にトマトと牡蠣がどのような気配を発しているのか絵月にはわからないのだが。
「トマトと牡蠣で気配は違うのかな」
「違う。トマトはざらっと青臭くて、牡蠣はぐにゃっと磯臭い」
八重の表現はやはり絵月にはよくわからなかった。それはもうそのまんま、食べたときの感触ではないのか。その感触がトマトや牡蠣と同じ空間にいるだけで伝わってくるということだろうか。そうなったら絵月もちょっと嫌だ。
「大変じゃない?」
「慣れた。閉鎖空間じゃなければ大丈夫」
「そ、そうなんだ」
それ以上のことを絵月は聞けなかった。とりあえずトマトや牡蠣は八重と会わない日に食べることにした。
八重についてはともかく、絵月はたまにトマトを買うようになっていた。時期的に安いからである。だいたい以前にスーパーで見かけたバジルサラダくらいしか作らない。他のレシピを調べるほどトマトに興味はないのだ。しかし多少工夫はしていて、にんにくやチーズを入れてみたり、作ってから少し冷やしてみたりはしていた。面倒くさがりであるが、おいしいものは好きなのだ。
面倒くさがりだから一度美味しいレシピを見つけると繰り返し食べ続ける。おいしいからしばらくは問題がない。とはいえ同じレシピばかりでは飽きる。そういうことを繰り返す絵月である。
だいたい仕事から帰ってきたときや休日は疲れていることが多い。なので簡単でおいしいものがいい。
そこにトマトはぴったりだった。なんだったら塩をふってまるかじりでもいいのだが、さすがにそこまでトマトが好きなわけではないので止めておく。最低限マヨネーズくらい必要だと思う。もっとも絵月の家にマヨネーズはない。一人で生活していると調味料を使い切ることができずに賞味期限や消費期限が切れてしまい、捨ててそのまま買わないことがよくあるのだ。食べることは好きだが料理するのは面倒な絵月にはよくあることだ。
しかしトマトとバジルにも飽きてきた。
そこで絵月は八重にメッセージを送る。
『家に使ってないマヨネーズある?』
すぐに返事が来る。
『ない』
八重は料理をしないのだ。食事はだいたいコンビニかスーパーで買っている。
『醤油ならあるよ』
『それはうちにもある』
『マヨネーズ、今度買っていこうか?』
『お願いします』
その後のヒアリングによると醤油とラー油とサラダ油はあるとのことだった。油は調味料ではないと絵月は思ったが黙っていた。塩すらないそうだ。料理をしないのであれば困らないのかもしれない。なによりマヨネーズを自分で買いに行くことすら面倒で彼氏に買ってきてもらう絵月には他人の家の調味料についてとやかく言う権利はないのだった。
かくして絵月はマヨネーズを手に入れた。少しはトマトライフが充実した気がする。
乱切りにしてマヨネーズをかけただけのトマトがやけにおいしい。やはりバジル味ばかりでは飽きるのだ。
絵月は絵月なりにトマトに対して慎重に接するようにしていた。あまり近寄りすぎてはいけない。食べすぎて飽きて牡蠣フライの二の舞いにしたくないし、なによりトマトを食べすぎることでトマトに近づきたくない。あまりに同じものを食べていると自分がその食べ物に近づく気がするのだ。加えて、八重がトマト嫌いである。牡蠣フライのときはなにも言わなかったが、牡蠣よりトマトに敏感な八重なので、あまりトマトの気配を家に残さないほうがいいだろうという乙女心でもあった。
その甲斐あってか八重はトマトについてなにも言ってこない。八重と会う日にトマトを食べなければ大丈夫であろう。
そう思っていたのに、ある日八重が遊びに来たときに聞かれてしまった。
「バジルってなにに使うの?」
「トマトにかける」
はっとしたときにはもう遅い。嘘がつけず、反射的に答えてしまった。八重は悲しい顔をしている。
「もしかして、この間のマヨネーズも……? だから最近トマト感が……」
「え、ごめん。……トマトかん?」
八重がなにを言っているのか絵月にはよくわからない。トマト缶は置いていないのでトマト……感? ということか、最近の絵月の家にはトマトの気配が濃厚だったということだろうか。
「うん。ちょっと青臭いなって思ってた」
「それって消臭剤を撒いたら消えるのかな」
「わからない」
八重にわからないものは絵月にもわからない。なにしろ絵月にはトマトの気配などわからないのだ。
「八重には出さないから」
「うん。食べない」
きっぱりと八重が答える。もはやトマトに対してトラウマかなにかあったのかもしれない。絵月は聞きたい気もしたが嫌いなものの話を続けるのも悪かろうということで聞かないことにした。人間、知り得ないことの一つや二つあってもいいのだ。
でもトマトと牡蠣の気配については知りたいと思う。食べ物の夢は見るが、さすがに気配は察せない。
感性が鋭い八重が羨ましいようなそうでないような複雑な絵月だった。
しかし、そろそろ絵月もトマトを食べすぎた気がしていたので、しばらくトマトを食べるのはやめることにした。はなからそこまでトマトを好むわけではないのだ。
八重とトマトを比較するなら八重を選ぶ。
そういうことだ。
絵月とトマト 水谷なっぱ @nappa_fake
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます