二十二.もう戻れない! 優人と由香利の苦しみ

 由香利が学校に行くと、五時間目の授業が終わっていた。こんな時間に来ることを珍しがったクラスメイトたちが、由香利に好奇の視線を向ける。しかしその中には、他の意図がある視線が混じっていることに、由香利は気づかなかった。

「由香利!? だいじょうぶなのか?」

 恩が慌てた様子で由香利のそばに駆け寄る。由香利を気遣う表情の中に、なぜか戸惑いが見えたのが気になった。

「いいの、ちょっと用があったから」

「用? くそ、おじさんか早田さんに言っとけばよかった。とにかく、今は来ないほうがよかったのに」

「えっ?」

 恩が声を潜めて言った意味が分からず、由香利はきょとんとした。

じゃん」

「よかったじゃん、元気じゃん。榊乃

 教室のどこかから、男子たちの声が聞こえてきた。言葉の中にあった「」「榊乃」という、小馬鹿にした言い方が引っかかり、思わず隣の席を見た。

 優人がいた。前よりもぼろぼろになった教科書を手に、耐えるような横顔が見えた。

「付き合ってるんでしょ、天野さんと榊乃クン。だって天野さんって、榊乃クンのストーカーだったじゃん、あっ、これ言っちゃいけなかった? ごめんね~」

 今度は女子の声だった。クスクスと笑う声が聞こえてきて、声のほうへ顔を向ける。彼女は、四年生のときに由香利をいじめた中の一人だった。

「いいじゃんヘンジン同士、気が合うじゃん」

「ヒューヒュー、お似合いですよー」

「いつから付き合ってるの~? どっちからコクったの~?」

 ストーカー、カノジョ、付き合った、コクった……周りが勝手に決めつけて面白がる様子が、不愉快で仕方なかった。

 恩が由香利に「来ないほうがいい」と言った意味が、だんだんと分かってきた。

 だけどここで下手に言い返せば、もっと面倒なことになる。由香利はぐっとこらえた。

「おい、お前らいい加減に」

 恩が身を乗り出すが、由香利は慌てて止め、首を横に振った。

「私、知ってる。神崎さんって四年生のとき、暴力ふるって他のクラスに入れなくなったんでしょ」

「うっそ、私知らなかったんだけど」

「あの子、合気道やってるんだよね、男っぽいなって思ってたけど、そういうことなんだ」

 今度は女子数人のひそひそ話す声が聞こえてきた。ちらりと恩を見ては、申し合わせたように声を潜めてしゃべる。わざと聞こえるように言っている。同じことを四年生のときにもやられた。

「卑怯者。あんなの気にしないから」

 恩は小さな声で言った。本当は言い返したいのに、それを抑えていてくれた。

「なあ、聞こえてねえの、榊乃クン。カノジョ、泣いちゃいそうだよ~」

「やめろよ、その前にカレシのが泣いちゃうだろ、ハハ」

「なあなあ、チューしたの? なあ、したの~?」

 男子の数人が、優人をほうきの柄でつつきながら意味のない質問をしていた。

 優人は耐えていた。しかし、今にも爆発寸前なのは、目を見れば分かった。

 実際にはやし立てているのは数人でしかないのに、クラス全員が優人の敵みたいだった。残りのクラスメイトは関わらないようにしているだけだ。由香利だって、優人や恩がターゲットになっていなければ、同じようにしていたかもしれない。

 けれど今の由香利は、どうしよう、どうしようと、頭の中の選択肢を選んでは消し、選んでは消していた。そして、一つの結論を出した。

(自分の気持ちには、嘘つけない)

 由香利は勇気を出して、男子の持つほうきを無言で取り上げた。

「なにすんだよ」

 いやそうな顔をした男子に吐き気すら感じたが、我慢した。

「やめてよ、こんなこと」

 声が震えて仕方なかった。でもこれで、注目は自分に集まった。そうすれば、優人や恩に矛先が向かなくなるはずだ。

「なんだよ、ちょっと聞いてただけじゃん。文句あんのかよ、偽善者ストーカー女子!」

 最後の言葉に、一斉に笑いが起きた。

 どうやらそれが、由香利のあだ名らしい。由香利は、自分もいじめのターゲットにされていたことがはっきりと分かって、一瞬にして頭に血が上がった。今すぐにでも変身して、この教室を壊し、燃やしてしまおうかとも思った。それくらいの怒りを感じた、そのときだった。

「いい加減にしろ」

 ぼそりとつぶやかれた声で、教室が一気に静かになった。

 それは椅子から立ちあがった優人の声だった。今まで反撃らしい反撃をしたことのない彼の初めての行動に、クラス全員が一瞬言葉を忘れる。

 その瞬間、開けっ放しにしていた窓から、強い風が入った。

 そして、晴れた空のはずなのに、台風がこの場にいきなり現れたような暴風が窓を叩きつけた。

 びりびりと震える窓に驚いて、由香利と恩の悪口を言った女子数人が積み木倒しのように転んで倒れた。

 優人のそばにいた男子三人が、窓から入ってきた強風で足元をすくわれて、柱の角で頭を強く打った。

 優人と由香利に意地悪したクラスメイトが、ことごとく倒れたり痛がったりして泣き出した。

 突然の出来事に、ほとんどのクラスメイトが驚いて、やがてパニックになった。

「せ、先生、呼んでくる!」

 被害のなかった恩が先生を呼びに走った。由香利は一瞬、自分がやってしまったのかと思ったが、力を使った感覚はなかった。怒りが治まり冷静になってくると、ある事実に気がついて、言葉を失った。

 優人と目が合う。その目は紫に光っていた。クリスタル・ベータとの共鳴で、由香利は胸に強い痛みを感じた。

「榊乃くん!」

 優人は、黙ったまま教室から出て行った。

 異変に気づいた他クラスの生徒や先生が騒ぐのを横目に、由香利は優人を追いかけて走り出した。



 クリスタル・ベータの共鳴を頼りに、由香利は学校の廊下を駆け抜けた。

 学校の裏庭と呼ばれる林の前までたどり着くと、あたり一面に植わっている林が、ズタズタに切り裂かれていた。こんなことができるのはたった一人しかいない。

 見上げればつむじ風が、優人の体を宙に浮かせている。その力は、明らかにロスト・ワンのものだった。

「榊乃くん! 戻ってきて!」

 優人は由香利を見ると、驚いた。

「どうしてここに? もしかして、君もまたあの痛みを……ううっ!」

 優人は胸に手をあてがい、苦しみだした。

「だめ! 力を使わないで!」

 由香利は優人に向かって叫んだ。これ以上、優人が壊れる姿を見たくなかったし、被害も増やしたくない。

「ああ、夢は本当だ、ったんだ。僕、は、ほんとうに、怪物だったん、だ……!」

 頭を抱えて苦しむ優人の言葉に、由香利は強く首を振った

「違う! 怪物なんかじゃないよ、榊乃くんは榊乃くんだよ、だから降りてきて! まだ間に合う!!」

 由香利は叫ぶ。そして、届かないと分かっていても手を伸ばした。この手を取って欲しかった。しかし。

「だめ、だ。僕は……」

 優人は由香利を見て、ぎこちない微笑みを浮かべた。そして、よわよわしく首を振った。

「僕は、本当に怪物、なんだ。だから――さよなら」

 その言葉に、由香利の全身は凍りついたように固まった。その間に、優人はつむじ風に体を包み、姿を消した。残ったのは、ズタズタに切り裂かれた林と、由香利ただ一人だった。



 教室へ戻ると、授業は中止になっていた。怪我をしたクラスメイトは病院に運ばれ、他のクラスメイトは、保護者の迎えで下校することが決まっていた。

 教室以外の場所にいなさいと言われたので、図書室へ行こうとした。

 その途中、騒がしい職員室から、先生たちの会話が聞こえてきた。

「榊乃優人の母と連絡が取れない」「あそこは携帯に」「昼間はいると資料にはあるが」「あの人、お水系ですよ」「今電話出たけど、だめだ、話にならないよ。ありゃ、酒飲んでるな」「どうする」

 頼りにならない大人たちの話を聞きたくなくて、逃げるように図書室へ急いだ。

 図書室には司書の先生がカウンターに座っているだけだった。

「大変だったね」

 司書の先生は事件を知っているのか、由香利を慰めてくれた。静かで低い、優しい声が、なんとなく優人の声と似ていて、涙が出てきた。

「榊乃くんは一緒じゃないのかい。君たち、よく一緒に通っていたろう」

 先生の言葉に由香利はうなずいた。

 そう、確かに一緒にいた。二週間の間だったが、一緒に過ごした時間があった。

「そうだ。彼に伝えてくれないかな。宮沢賢治の新しい本が入ったよって」

「宮沢賢治の?」

「榊乃くんはたくさん本を読むけれど、特に賢治の本が大好きなんだ。昔の小説家だけど、今でもいろんな人が絵本にするからね。今回入ってきた本は、彼が好きなお話なんだ」

「それは、どのお話ですか?」

 由香利も小さい頃、宮沢賢治の物語をよく読んでもらった。早田の優しい声で語られると、とても不思議な気持ちになったり、逆に怖くなったりして、重三郎のベッドに駆け込んだりもした。

 セロ弾きのゴーシュ、銀河鉄道の夜、注文の多い料理店、そして――。

「『よだかの星』だよ。きれいな絵だから、きっと榊乃くんも気に入ると思うよ」

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