十八.どうして逃げるの? 優人の拒絶
優人に追いついたのは、げた箱だった。まだ雨が降っているのに、彼は傘も持たずに外に出ようとしている。
「榊乃くん!」
優人の足が止まる。肩で息をする由香利は、急いで靴にはき替え、優人のそばに駆け寄った。
「榊乃くんは、だいじょうぶ? あの、さっきの」
さっきのことをどう表現したらいいのか分からず、由香利は困っていた。
優人は口を閉ざしたまま、由香利を無視して外に出た。
「ま、待って!」
由香利は傘立てから自分の傘を取って、優人を追いかける。びしょぬれになりながら歩く優人に追いつくと、傘を差しかけた。
「濡れちゃうよ。途中まで、一緒に帰ろうよ」
優人の歩みが止まった。由香利は、びしょぬれになった優人の髪が気になった。ポケットからハンドタオルを出すと、そっと水滴を拭う。由香利は、いつも家族にやってもらっていることを自然にしただけだった。けれど。
「触らないで」
鋭い言葉がナイフのように胸に突き刺さった。同時に、優人は由香利の手から逃げた。
強い拒絶に、呆然となる。
「もう、いいから」
追い打ちをかけるように言い捨てた後、優人は走り去った。由香利は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしていた。
*
雨でぐちゃぐちゃになった処分場で、優人はランドセルを抱えてうずくまる。服も気分も、なにもかもぐちゃぐちゃだった。ゴミでバリケードを作る余裕さえなかった。荒い息もおさまらず、落ち着かない。
指が触れた瞬間の、雷のような衝撃を優人も感じていた。その後、一瞬記憶が飛んだ。気づけば、目の前には由香利の姿があった。戸惑いと恐怖の入り混じった顔で、優人を見ていた。
(あの子、僕を怖がってた。まるで、最近よく見る、夢みたいに)
GWが明けた頃から、毎晩夢を見るようになった。それは、自分ではない姿――成長した自分の姿のような青年――に変身し、人々を襲う夢だった。襲われる人たちはみんな、自分を怖がっていた。
しかし、その夢は居心地がよかった。強い力を持つ自分は、だれからもいじめられないからだ。そして、どこからか聞こえてくる優しい甘い声が、そんな自分をほめてくれるのだ。
(夢の中に行きたい)
強く唇をかんで、優人は願った。夢の中なら、こんなに苦しい思いはしない。
(でも、夢の世界にあの子はいない)
雨を拭ってくれた、ハンドタオルの柔らかい感触がよみがえり、優人は頭に手を伸ばした。
本当はうれしかった。追いかけてきてくれたことも、傘を差しかけてくれたことも。けれど。
(僕は、そんなことをされる人間じゃない)
優人は自分の傘を持っていない。あの家に彼の傘はないのだ。
濡れた体を拭く、柔らかなタオルだってない。それは母のものであり、優人が使うことは許されなかった。
優人のものはなにもない。唯一、母が教えてくれたことだった。
(僕のことは、だれも気にしないし、だれも好きにならない。だから僕も、だれのことも気にしないし、だれのことも好きにならない……なっちゃだめなんだ)
なのに、なんで、あの子の怖がった顔を見た瞬間、辛いと感じたのか。
「なんであの子は僕を追いかけた! 僕を呼んだ! 僕に触った! 僕を、きらいになればよかったのに!!」
感情が抑えられず、優人は叫んだ。それはやがて、泣き声に変わった。
そして、さらに大きな声で叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間、胸に激痛が走った。全身をバラバラにされるような痛みに、優人は気を失った。
*
由香利の頭の中では、優人の声が繰り返し響いていた。『触らないで』――刺すような言葉。『もう、いいから』――押し戻されるような言葉。思い出すだけで暗く悲しい気持ちになって、傘を差すことも忘れて雨の中を歩いた。
いつの間にか家に帰ってきていた。家に入ると、由香利に気づいた重三郎が居間から顔を出した。
「お帰り由香利……って、あれ!? なんでそんなずぶ濡れに!? タオルを持ってくるから、そこで待っててくれ!」
全身びしょびしょの由香利に驚いた重三郎は、ふかふかのタオルをたくさん持って再び現れた。そして、優しく由香利の頭を包んだ。嗅ぎ慣れたタオルの匂いと柔らかい感触。
とたん、優人の拒絶を思い出して、由香利の目から涙があふれだした。そして、大声で泣いた。
「よかったら飲みなさい」
居間のソファに座る由香利は、重三郎が差し出したマグカップを手に取った。雨で冷えた体にはちょうどいい温かさだったが、すぐに口をつけたい気分ではなかった。
しばらくして、ぽつりぽつりと、先ほど起きたことを話し始めた。重三郎は黙ってそれを聞いてくれた。
「私がしたこと、迷惑だったの? 榊乃くんにとっては、とてもいやなことだったの?」
彼を助けたいと思った。それはユカリオンに変身して、異次元モンスターから人々を守ることにも似ていた。自分にしかできないのだと思っていた。
「由香利。優しさや愛……感情や気持ちすべてを、相手に伝えるのは難しいんだ。由香利なら、分かるはずだ」
由香利はこくりとうなずいた。伝わらないから、傷つけたし、いじめられた。この世界はそんな風にできているのだ。
「勝手に構って、うるさかったのかもしれない。私の気持ち、伝わってなかったんだ。もう、なにもしないほうがいいの?」
また涙を浮かべる由香利に、重三郎は困ったような顔をした。
「うーん、まだそうとは言い切れないな。だって、人を寄せつけない子が、隣に座ることを許していたんだろう? 本を選んでくれていたんだろう? いやな相手に、そんなことしないと思うし、それが彼にとっての、気持ちの表し方だったんじゃないかな……と、お父さんは思うんだけど」
「どうして?」
「お父さんも子供の頃、そんな感じだったからさ。優しさは、暴力よりも深いナイフのように突き刺さることもある。優しさだと分かっていても、痛いときがある。優しさだと分かっているから、逃げ出したくなる」
重三郎は遠くを見るようなまなざしで、ひとりごちるように言った。
「分かっているのに、逃げ出すの?」
「うん。怖いからね。その子を好きになって、もし裏切られたとしたら? 離れていってしまったら? そのときは、もっと悲しいから。でも、僕は逃げられなかった」
重三郎は照れくさそうに笑った。
「なんで?」
「お前のお母さんが、僕の世界を変えてくれたんだ。だから、逃げるのを忘れちゃった。そして僕は、そんな由利のことが今でも大好きだよ」
「世界を、変える……」
母がいたからこそ、今の父があるのだろう。ほがらかに笑う重三郎を見て、由香利は「世界を変える」という言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
「由香利がやったことがすべて正しいかどうかは、分からない。それが、誤解を生むことだってある。人によっては、偽善者と呼ぶだろう。でもね、由香利……」
重三郎が由香利の涙を手でぬぐう。そして、しっかりと目を見て、言葉を続けた。
「由香利が逃げたら、その、榊乃くんという子は本当にだめになってしまうと思う。だから、彼を信じなさい。とても難しいけれど、お前にはできると思うんだ。信じないで後悔するよりも、信じて後悔したほうが、よっぽどいいと思う。お父さんはそう思うけど、どうだい?」
重三郎はにっこりと由香利に笑いかけた。明るい笑顔は、いつも由香利の背中を押してくれた。
手に持ったマグカップにやっと口をつけた。ほのかに甘いミルクティはとても美味しくて、気持ちがほぐれていく。
「私も、信じてみたい。後悔しないために」
言葉にすると、勇気が出てくる気がした。明日会ったら、前と同じように声をかけよう。応えてくれなくてもいい。自分の気持ちに嘘をつきたくなかった。
「それでこそ私の可愛い娘だ! そういえば、もうすぐ早田が買い物から戻ってくる頃なんだけど……」
そのときだった。どくん、と由香利は胸に痛みを覚え、思わず胸を押さえた。由香利の様子に気づいた重三郎の顔から、すっと笑顔が引く。
【奴らの気配だ!】
「お父さん、異次元モンスターの気配がする」
「なんだと!? しかし……」
「うん、だいじょうぶ。もう平気。私、行くよ」
由香利は涙を拭い、笑った。いつまでもメソメソしていられない。もう、すぐそこまで危機が迫っているのだ。
「分かった。どの辺りだ」
「西のほう。そんなに遠くないはず。だから走っていくよ」
「よし、近くまで一緒に行こう。そうだ、早田に連絡しないと」
二人は素早く戦いの準備をして、家を飛び出した。
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