十七.優人のやさしさと共鳴の痛み

 意外にも、優人の声は優しかった。ぼそぼそとしゃべる声しか知らなかった由香利は、胸がドキドキした。

「じゃあ、そうする」

 そっと隣の椅子に腰掛ける。本を読み始めるが、優人との距離が近いことに改めて気づくと、また大きく胸がドキドキとした。

(ドキドキ、する。でも、なんだか……)

 普段の優人からは考えられない、とても柔らかい雰囲気だった。だから、隣にいても、ちっともいやな気分はしない。むしろ、温かい気持ちになった。

 やがて時は過ぎ、最終下校の音楽が流れ始めた瞬間、由香利はやっとページをめくる手を止めた。

「あっ、下校時間だよ、榊乃く、ん?」

 隣に座っていたはずの優人の姿がない。いつの間にか、帰ってしまったらしい。

(用事があったのかな。もしかして、気を遣ってくれた?)

 由香利は急いで読みかけのページにしおり紐を挟んで立ち上がった。ランドセルを乱暴に引っつかみ、早歩きで一階のカウンターへと向かう。貸し出し手続きの間に優人の姿を探したけれど、夕日が入り込んだ図書室にはその姿は無かった。

「気をつけてお帰り」

「はい、さようなら」

 本を受け取ると、急いでランドセルの中にしまいこみ、背負いながら図書室を出た。渡り廊下を歩きながら、由香利は優人の言葉を思い出す。『君の、好きにすればいい』すっと心に入り込むような優しい声に、胸がじんわりと温かくなった。

(なんか、不思議、この気持ち)

 恩とも、家族とも違う、どこか引かれ合うような、説明のつかない温かさに戸惑いながらも、由香利は口元に笑みを浮かべた。


 *


 真っ赤に燃える夕日の中、優人は、破れた金網をくぐって処分場に入り込んでいた。人に見つからないように、廃棄物でバリケードを作り、ランドセルを抱えるような格好で座る。

(あの子、もう、話しかけないと思ったのに)

 由香利が頻繁に声をかけてくること自体、不思議でしょうがなかった。そもそも教科書を貸してくれたことだって、優人にとっては奇跡に近かった。他のクラスメイトと同じように、からかっているに違いない。そう思っていた。

(でも、今日は)

 図書室で交わした会話を思い出す。まさか、本のある場所を訊かれるとは思っていなかった。あまつさえ、お礼を言われ、そして。

(一緒に本を読むなんて)

 信じられなかった。こんな自分が、だれかのそばにいるなんて、ありえなかった。大体の人は、自分をきらって離れていくからだ。

「あの子、温かかった」

 小さなつぶやきが漏れた。あの子……天野由香利という女の子の雰囲気は温かくて、居心地がいいと思った。だから、冷たくするのを忘れてしまった。

 だけど、あまりにも居心地がよすぎて、自分が自分でなくなる気がした。だから、そっと先に帰った。読書に夢中になる彼女に気づかれないように。気配を消すのは、得意だった。

(あの子は僕のことをいじめないかもしれない、でも……)

 うれしかったのに、優人の胸が痛む。だれかと一緒にいることが、急に罪のように感じられた。

 母の言葉が脳裏に浮かぶ。あんたは役に立たない、生きていても無駄なクズだ、あんたなんか死んでしまえ、あんたなんかいらない――昨日、母から殴られた場所が痛んだ。

(あの子が僕のことをいじめないなんて、どうしてそう思ったんだろう? そんなこと、あるわけないのに)

 優人の胸の痛みが増した。それは、単なる痛みではなかった。

(なんで、こんなに胸が痛いんだろう)

 まるで胸の中に、別のなにかがあるみたいな感覚だった。しかし、それがなんなのかは、まったく分からなかった。

 痛みは優人の全身に広がっていく。そしてまた、日が落ちていくと共に、優人の意識も落ちた。


 *


 夜を迎えた工業地帯は、まばらに人が歩くだけで、昼間の活気が嘘のように静まり返っている。

 その中でもひときわ人気のない路地裏で、男性が短い悲鳴を上げて倒れた。そのかたわらには、ロスト・ワンの姿がある。

「もうこれで五人目ネ、可愛い坊ヤ。今日は調子がイイのネ」

 ロスト・ワンの隣に、突如サルハーフが現れる。日が落ちてからの三十分で、ロスト・ワンは五人の人間を襲っていた。

 紫の光で切り裂く『かまいたち』と、生体エナジーを巻き上げる『つむじ風』を使う彼の攻撃は、風のように速く、静かで、だれにも気づかれることは無かった。

 サルハーフは触手を動かし、ロスト・ワンの頭から足のつま先までを丁寧に撫でる。物言わぬロスト・ワンの意識を読み取ろうとしていた。

「あら、アナタ、今日はとても心が乱れているのネ。でもいいのヨ。フェイク・クリスタル・ベータは、それこそが、力の源。アナタが不安や悲しみを感じれば感じるほど、その力は強くなるノ。そうやって成長なさイ。愛しいあの方のために、ネ」

 サルハーフの言葉を最後まで聞かず、ロスト・ワンは次の獲物を探しに飛び立っていった。


 *


 放課後、由香利は図書室の二階にいた。

 椅子に座り、しとしとと降り出した雨音を聞きながら、本を読んでいた。隣には、同じように無言でページをめくる優人の姿がある。

 異次元モンスターに再び襲われてから、二週間が経った。

 その間にも異次元モンスターは町のあらゆる場所に現れ、由香利はそのたびに飛び出していく。ユカリオンに変身して戦うことにも慣れつつあった。訓練も欠かさず続けている。だれかが襲われるのは許せなかった。

 そんな生活の中で、新たな習慣ができた。放課後に時間があれば、図書室で本を読むことだった。

 優人は相変わらず、教室では話をしない。けれど図書室にいるときだけは、人を寄せつけない雰囲気が和らいでいる。

 最近では優人の隣に座り、彼におすすめの本を訊くようにすらなった。いやがられるかと思ったが、彼は本棚まで黙って案内し、本を指さして教えてくれる。

 そして、人のいないときを見計らって、小声で感想を話した。うまく言葉にできなかったけれど、そのたびに優人の頬がほんの少し緩んでいる気がして、うれしかった。宇宙人と友達になる話を読んだときは、まるでお父さんと早田さんみたいだという感想を思わず漏らしそうになった。

 雨の降る今日も、同じように本を選んでもらおうと思い、無言で本棚に向かう優人の後を追った。しかし、いつもなら指さすだけの手が、本棚に伸びていた。

(あれ、いつもと違う?)

 戸惑う由香利を気にすることなく、優人は本の背表紙に手をかけた。

「これ」

 そして、手に取った本を由香利に差し出してくれた。思わず優人の顔をまじまじと見てしまった。いつもと同じ無表情。だけど、うれしかった。優人からなにかをしてくれたことが、うれしかった。

「ありがとう!」

 由香利が手を伸ばしたそのとき、お互いの指先が触れた。その瞬間。

(えっ!?)

 雷が落ちたような衝撃が由香利の体に走った。そして一瞬、指先を通じて、優人とつながったように感じた。思わず優人の顔を見る。瞳が一瞬だけ、妖しく紫に光った。とても暗く、恐ろしい光だった。

(今のは、なに?)

 思わず後ずさりし、手を離す。本が床に落ち、静かな図書室に響いた。

(あの光、とても怖い)

 由香利の手は震えていた。

【ユカリ、だいじょうぶか!?】

 アルファも由香利と同じように動揺していた。

 おそるおそる優人を見る。彼は、目を見開いたまま由香利を見ていた。このときには先ほどの妖しい光は消えていた。

 しばらく二人ともその場に立ち尽くしていたが、先に動いたのは優人だった。彼はランドセルを背負うと、図書館から出て行った。なにも言わず、由香利を一回も見ず、まるで逃げるようにして。

「待って!」

 由香利は慌てて優人を追いかけた。

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