十六.恋って、どんなもの?

「榊乃くん、おはよう」

 教室に入ると、由香利は真っ先に優人へ声をかけた。しかし、優人が応える気配はない。黙々と本を読み続けている。

(今日もダメかあ)

 初めて優人と言葉を交わしたあの日から、毎日一言でも彼へ声をかけると決めた。少しでも彼に近づきたかった。ただ、一方的にしゃべってきらわれたくないので、「おはよう」と「さよなら」の二つだけにしているのだが、それでも優人は返してくれる気配がない。

(これで三日目なのになあ)

 少しだけ気落ちしながらランドセルを片づけると、いつも通り恩の席に向かった。

「おはよー、恩ちゃん」

「おはよ。今日はどうだ?」

 由香利が無言で首を振ると恩は、

「そっか。ま、がんばって」

 と、励ました。

「がんばる……ようなことかなぁ?」

 恩には優人との一件を話してあった。恩も優人の置かれた状況を知ってはいるが、前のことを教訓にしているのか、下手に手を出そうとはしない。

「こういうのって、地道な努力が必要なんだろ? まあ、私には恋なんてよく分からないけど」

 恩はにやり、と少しからかうような笑みを浮かべて言った。

「えっ?」

 由香利は突然出てきた『恋』という単語に驚き、まじまじと恩の顔を見た。

「え、違うのか?」

「っていうか、そんなの、考えたこと……」

 会話の途中で、チャイムが鳴り響いた。チャイムの音にせかされるように慌てて席に戻るが、それでも『恋』という言葉が、由香利の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。



 由香利にとって『恋』とは、少女漫画のようなロマンチックなものだった。

 かっこいい男の子に憧れてがんばる女の子、運命の相手と出会うお姫様と王子様……それらは、あまりにも自分とはかけ離れた存在だった。それに、男子とはあまり話したことがないし、むしろ苦手だった。

【ユカリ、意識が授業から遠のいている。だいじょうぶか】

(あ、ごめん、アルファ。ちょっと、恩ちゃんに言われたことが気になって)

 慌てて黒板を写し、先生の話に耳をかたむけるが、頭の中で『恋』の文字が浮かぶ。

(榊乃くんが気になるのは、恋だから? 私にも、分からないよ)

 ちらりと横をみれば、暗い表情の横顔が見えた。

 この三日間、優人を見ていて気づいたことがあった。

 まず、口を開く回数が極端に少ない。先生にさえ「はい」か「いいえ」で答えている。先生もなにも言わないところを見ると、お互いに諦めているのかもしれない。

 そして、読んでいる本が毎日違う。読書のスピードが速いのだろう。漫画ばかりで本を読む習慣があまりない由香利とは大違いだった。

(あと、体育がとっても苦手なところ)

 それだけは由香利が共感できるところだった。由香利もバトン以外の運動は得意ではなく、体育の授業は大きらいだ。

(でも、そういうのとは違うところで、なんか、私と同じようなものを持ってる気がする)

 もっと優人を知れば、もどかしさの正体が分かるかもしれない。それまでは、恋なのかどうかは考えないようにしよう。由香利はそう思った。



 放課後、由香利は図書室へと向かった。優人が今日読んでいた本が、今年の夏に映画化するファンタジー小説で、興味が湧いたのだ。

(なんか、ストーカーみたいだけど……ううん、気にしない、気にしない!)

 渡り廊下の先にある、第二校舎の一階と二階が図書室だった。

 自然の光が入る、白っぽくて明るい図書室は、学校の中では一番きれいで静かな場所だった。いつもいる男の司書の先生は、とても厳しい。大きな声で騒いだり、ふざけていたりいようものなら、低い、落ち着きのある声で叱りつける。

 でも本が好きな生徒にはとても親切だ。タイトルや内容がうろ覚えでも、すぐにどこにあるか教えてくれる。検索する機械はあるが、大半の生徒が先生に直接尋ねるくらい、司書の先生は好かれている。

 早速お目当ての本の場所を訊こうと、司書の先生を探したが、彼は低学年の生徒たちに囲まれていた。仕方がないので検索機を使おうとしたら、機械には『調整中』の張り紙が。

(自分で探せ、ってことかあ)

 司書の先生と話ができないのは残念だったが、仕方がない。記憶を頼りに、自分で探し出すことに決めた。

(えーと、どこだっけ? 二階かな?)

 由香利はらせん階段で二階へ上がる。本で埋まった本棚がぎっしりと並ぶ二階は、落ち着いた雰囲気が漂っている。

「えっと……」

 背表紙を指と視線でなぞりながら、由香利は本棚に沿ってゆっくりと歩く。

 すると、だれかにぶつかってしまった。慌ててごめんなさい、と謝りながら顔を上げると、ここ数日で見慣れた少年の横顔があった。

「榊乃、くん?」

 由香利の声がして、やっと優人は顔を向けた。ふと目が合った瞬間、由香利は顔が赤くなるのが分かった。

(なんで顔あっついの!?)

 由香利が戸惑っている間に、優人は視線をそらす。無言のまま、由香利から離れるように後ずさった。

「待って、榊乃くん。あの、私、聞きたいことがあるの!」

 我に返った由香利は、思い切って優人に声をかけた。応えてくれるだろうか。緊張で胸がドキドキする。思わず「お願い」と祈るようなつぶやきを漏らした。

「聞きたいことって、なに?」

 少しの沈黙の後、優人のぼそぼそとした声が返ってきた。

 視線は合わなくとも、答えてくれた。ただそれだけで由香利はうれしかった。

「あ、あのね。榊乃くんが、今、読んでる本の一巻、どこにあるか教えてほしいの。あの、映画化する、長いやつ。先生も忙しそうだし、検索機も使えないし、ここ、本たくさんあるし」

 言い訳をたくさん並べて、どうにか理由をつけようとする自分が少し浅ましいと感じた。本を探しているのは嘘じゃないけれど、優人と話す、なにかしらのきっかけも欲しかった。なんだか、自分が少しずるい子になってしまったみたいだった。

「こっち」

 優人が別の本棚を指差して歩き出した。迷わず本棚に沿って進んでいく。由香利は控えめに揺れる優人のランドセルを眺めながら、その後を追った。

「ここ」

 少し奥まった本棚の一角を優人が指差す。その先には、探していた本がずらりと並んでいた。

「ここだったんだ。ありがとう、榊乃くん」

 感謝をこめてお礼を言う。優人は無言のまま、由香利が一巻を手に取る様子を眺めていたが、なにか問いかけたいのか、少しだけ口を開いた。しかし、本を抱えた由香利が優人を見た瞬間、彼は口をきゅっと閉じた。

 由香利は優人の様子には気づかず「見つかってよかった」と微笑む。優人はそんな由香利へ、戸惑いの表情を見せた。

(あ、こんな顔もするんだ)

 由香利は知らなかった優人の一面が見られて、またうれしくなった。

 しかし、優人はまた視線をそらす。そして、無言で本棚から一冊手に取ると、壁沿いの椅子に座った。

 背負っていたランドセルを床に置き、ページを広げる。またいつもの様子に戻ってしまった優人に、由香利は思い切って言葉をかけてみた。

「隣、座っていい?」

 壁沿いの椅子は二脚。優人の右隣は空いている。

 優人は由香利を見上げた。さすがに二回目の「お願い」は聞いてもらえないかもしれない。今度こそ、いやがられるかもしれない。少しだけ、怖かった。

 しかし優人は、驚くほど優しい声音で答えてくれた。

「君の、好きにすればいい」

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