十四.気になる男の子と辛い記憶
GW明け、六年生初めての席替えで、由香利の隣になった男の子は、休み時間になるといつも本ばかり読んでいた。
ぼさぼさの頭によれよれの服。だれも近寄らない、むしろ近寄らせないといった様子で、黙々と本のページをめくっている。四月に一回だけ声をかけたが無視されて、それ以来、積極的に声をかけていなかった。
授業のベルが鳴り、友達の席から戻ってきた由香利は、ふと隣の席を見た。男の子は――
ところが、ほんの少しその表情が変わった。
机の上を見れば筆箱とノートだけで、授業で必要な国語の教科書がないのだ。先生が教室に来て号令が終わった後にちらりと横を見たが、やはり教科書は出ていない。
「教科書、忘れたの?」
由香利は思い切って、ひそひそ声で優人に話しかけた。しかし、優人は由香利の言葉に返事もせず、顔もうつむいたままだ。
由香利は困ってしまった。せっかく声をかけたのに、顔すら向けてくれないのだ。このまま先生に注意されちゃえばいいんだ、と一瞬いじわるな気持ちになったが、自分が同じ立場だったらと思うと、そのままにできなかった。
「朗読のときに困るから、一緒に教科書見ようよ」
由香利は優人の返事を待たず、椅子を隣の席に寄せ、教科書の半分を優人の机に広げた。
すると優人の顔が上がり、ほんの少しだが由香利を見た。無表情に見えたけれど、目はびっくりしているようにも見えた。けれどそれは一瞬で、すぐに顔を教科書に向けてしまった。
お礼のひとつもないことに少しだけいやな気持ちになった。しかし、これ以上おしゃべりをするのもマズいと思った由香利は、同じように教科書を見た。
そのとき、後ろの席からクスクスという笑い声が聞こえてきた。後ろの様子を伺うと、クラスメイトの数人が、自分のほうを見て笑っていた。由香利の気分が悪くなった。
なぜ笑われているのか、理由はすぐに分かったが、あえて気にしないようにした。
授業が終わり、由香利は教科書を自分の手元に戻そうと、優人のほうを向いた。彼は相変わらず無表情でノートを片づけ始めていて、机半分に置かれた由香利の教科書には、一切触る様子はない。
由香利はどう声をかけていいのか分からず、結局なにも言わずに教科書を閉じて、自分の手元に寄せた。そのとき、こちらを見た優人と目が合った。ちょっと珍しいこはく色の瞳はきれいなのに、死んだ魚の目みたいな感じがした。
「なんで、教科書貸してくれたの」
すごく小さな声だった。ぽつりとつぶやくような、まるで独り言のような言い方だった。
「困ると思ったから」
むっとして答えた。しかしすぐに、このおせっかいは自分が勝手にやったことだと気づき、少しだけばつの悪い気持ちになった。
優人の瞳が、ほんの少しうるんだ気がしたが、すぐにそっぽを向いて、黙って本を取り出した。けれど、表紙を開いた瞬間、小さく、本当に小さくささやくような、自然に出てしまったような声がした。
「……なんか、どうでもいいのに」
最初の言葉は聞き取れなかった。「なに」が「どうでもいいの」だろうか? 優人の言葉の意味が分からなかった由香利は、黙って本を読みはじめた優人から目をそらした。
帰り道。恩と別れた後、由香利は昼間のことを思い出していた。
あの後、結局一回も優人と話をしないまま放課後になってしまった。帰りの会が終わると、彼はいつの間にか姿を消していた。
由香利はどんよりとした気持ちを抱えたまま通学路を歩く。あのとき教科書を貸したことは彼にとってよかったのか、悪かったのか。同時に、少しだけ昔のことを思い出していた。
【ユカリ、先ほどから君の心が乱れているが、だいじょうぶか】
アルファの気遣う声に、由香利はほっとする。なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくて、小さな児童公園に入った。
公園には、親子であろう女性と子どもしかいなくて、とても静かな時間が流れている。由香利は、ブランコの一つに腰掛けた。
(アルファなら話さなくても、私の気持ちや記憶とかは、全部知ってるんじゃないの?)
少しだけいじわるな聞き方をしてみた。クリスタル・アルファは由香利の体内にあり、由香利の命そのものでもあった。そして、六年前の事件の記憶を封印していたのはアルファだ。しかしそれは、由香利の心を守るためだった。
【君の体の中にいるからといって、むやみに記憶をこじ開け、君の心を乱すようなことはしない。それに、私が君から感じるのは、君が嫌だとか、うれしいだとか、単純な感情の動きぐらいだ】
(そっか。じゃあ、ちょっと話をしたい気分なんだ。聞いてくれる?)
【分かった】
(小学校四年生の秋くらいかな)
自分で鍵をかけてしまった記憶に恐る恐る鍵を差し込んで、傷つかないようにそっと開けた。
由香利は、クラスのある女子グループのリーダー格だった女の子に、突然いじめを受けた。
グループぐるみで「由香利に話しかけてはいけない」というルールを作り、由香利を孤立させようとした。いじめはどんどんエスカレートし、持ち物を傷つけられたり、隠されたりするようになった。
始めのうちはかばってくれた友達も、同じようにいじめられるのを恐れて、由香利を無視するようになった。
このとき、恩は別のクラスで、教室の中で助けてくれそうな子はいなかった。
(なんで自分がいじめられたのか、そのときはぜんぜん分からなかった。だから、最初のうちはね、気づかない振りして、普通にしてたの)
由香利は深くうつむいた。終わったこととはいえ、やはり思い出すのは辛い。
(でも、それがいけなかったのかな。どんどんエスカレートしていって、そのうち私は、なにも言わないように、なにもしないように、なにもかもに怯えて、教室の中で過ごすようになった。だれの声にも耳をかたむけなかった。返事もしないようになった)
そしてひとりぼっちになってしまった。だれも自分のことを気にしてくれない、という不安でいっぱいになった。
それでもなんとか学校に行けたのは、休み時間に、必ず廊下で由香利を待っていてくれた恩のおかげだ。
一回だけ、いじめに激怒した恩が文句を言ってくれたことがあったが、グループの女の子たちが暴力を振るわれた、と、先生に告げ口してしまい、恩は由香利の教室に近づくなと言われてしまった。実際に恩は暴力など振るっていないのに、乱暴な言葉遣いが災いして、だれも本当のことを信じてくれなかった。
(先生に怒られたのに、恩ちゃん、それでも私の味方でいてくれた。勝手に暴力女扱いしたリーダーの子が気に入らないって、言うだけだった。由香利がいじめられる理由なんてないよ、って言ってくれた。だからあのとき、休み時間になると必ず恩ちゃんのクラスの前まで行ってたんだ。一分一秒でも、あの教室にいたくなかった)
そして、四年生から始まったクラブ活動でバトントワリングに打ち込み、教室での悲しくてさみしい気持ちを忘れようとしていた。
(五年生になったら、新しいクラスにはその女子グループはいなくて、ほっとした。後で分かったんだけど、私をいじめた子のお母さんとお父さん、四年生の秋に離婚してたの。お父さんが家を出てったんだって。その子、お父さんがとっても好きだったって。私が、自分の家族のこと、お父さんと、早田さんを、すごく自慢してたから、生意気だったんだって)
思えばあの頃、事あるごとに、父の重三郎がどれだけすごいのか、叔父の早田がどれだけ素敵なのかを周りに話していた。
(私、お母さんが死んだ後、いろんな人から「お母さんがいなくてかわいそう」とか「さみしいでしょ」って言われてた。それに対して、私はかわいそうじゃないよ、さみしくないよってことを、言いたかっただけだったんだと思う。でも、いじめた子には、いなくなっちゃったお父さんを思い出すようで、いやだったんじゃないかなって)
【そうか】
(「自分は幸せです」って言うことが、別のだれかをいやな気持ちにさせちゃうこともあるんだなって、悲しくなった)
由香利は心細くなって、ポケットの中のリオンチェンジャーを握り締める。顔を上げると、空には夕日が浮かんでいた。
夜になれば、異次元モンスターが現れる時間になる。
彼らは太陽の光に弱い。そのため、太陽が見えなくなる時間帯、つまり、夕暮れから現れる。重三郎と早田の研究データからの推測だった。
その推測を裏づけるように、由香利の胸に痛みが走る。
【奴らの気配だ!】
アルファの声と同時に悲鳴が上がった。見れば、公園のど真ん中に全身に漆黒の鎧を纏った、五月人形のような姿をした怪人鎧武者が佇んでいる。
由香利は悲鳴を上げた女性とその子供を公園から逃がし、鎧武者に向き合った。
辺りに人の気配はない。ポケットからリオンチェンジャーを取り出し、胸元で握り締めると、思い切り叫んだ。
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