第11話β 劇場

 一晩明けると、やけに神殿が静かに感じられた。

 わたしの眠気を覚ましてくれた鳥たちのさえずりも、今日はまばらに聞こえた。

 「ピト様、お食事の用意ができました」

 リコが寝室にいるわたしに声をかけてきた。

 その調子はいつになく明るい。

 朝のご飯は、蜂蜜入りの粥汁と天人花ミルテといちじくとオリーブの実、ハーブを煮込んだスープだった。

 普段、水とパンとオリーブくらいで済ませるのに比べると、随分豪勢な食事。

 驚いてリコの方を見ると、彼女は笑顔を浮かべていた。

 「ピト様、今日は食事が豪華でしょ。神殿から不届き者を追い出したので、お祝いにと食材が豪勢になったのです。

 大神官様のお達しによるものらしいですよ」

 おいしいご飯が食べられるのは嬉しいけど、神殿の空気が穏やかじゃなくて、素直に喜べない。

 でもリコはそれが嬉しいみたいだ。

 知ってる人がいなくなってしまうのは悲しい事なのに……。

 そんな事を思いつつも、粥汁を口元に運ぶと、甘さが口の中に広がった。

 「おいしい」

 わたしが頬をゆるめると、リコは満面の笑みを浮かべる。

 でも、リコの膝下を見ると、置かれている容器に入っていたのは透明の液だった。

 「リコは、飲まないの?」

 「それは巫女様のお食事です」

 「リコも飲んだら良いのに」

 「私にはこれで十分です」

 リコはわたしの分を食べようとはしなかった。

 「巫女様……、ピト様は偉い方なのですから、相応の食事を取らないといけません。

 侍女であるわたしと同じ食事をしていたら、みんなから尊敬されなくなります」

 「そういうものなのかな……?」

 「そうですよ。大神官様だって、私の名前は覚えていないはずです」

 言われてみればそうだった気がする。

 それどころか顔もわかっていなかった。

 「巫女様の地位というのはデルフォイでも非常に高いんですよ。

 前の巫女さんは土地を持っていましたし、劇場テアトルに行くと最前列に座れたりするくらいです」

 劇場テアトル……、その言葉を聞いてわたしはあることを思い出した。

 「そういえば、おじいさんがわたしを劇場テアトルに連れて行ってくれるって言っていた気がする」

 「そうでしょう。きっと楽しめると思いますよ」

 「リコは行かないの?」

 「私は劇場テアトルに入る事もできませんよ。そもそも、女は劇場テアトルに入る事はできないんです。

 例外は巫女様か、都市ポリスの王妃くらいでしょう」

 「そうなんだ……」

 そう思うと悲しくなる。リコと一緒に観られると思っていたのに。

 でも、リコはおじいさんの命を救ってくれた。

 頼めば入れてもらえるんじゃあないだろうか。

 「わたし、おじいさんに聞いてみるよ」

 「え?」

 リコは驚いた顔をしていた。

 「リコはおじいさんの命を救ってくれたんだもの。頼めばきっと入れてくれるよ」

 「それは……無理だと思います」

 「むー、聞いてみないとわからないって」

 そう言って、わたしは小屋を後にした。

 

 神殿の中に入っておじいさんを探す。

 いつもいたはずの部屋をのぞくと、そこには誰もいなかった。

 部屋には、地下でかいだようなにおいが充満していた。

 そういえばおじいさんを助けに行った夜もこのにおいがしていた。

 あの時はもっと強いにおいがしていたけど……。

 後ろを振り向こうと一歩足を引くと、頭が何かにぶつかった。

 見上げると、大神官のおじいさんの顔。

 「おじいさん」

 「おぉ、目が覚めたか。そこはもうわしの部屋ではなくなったよ」

 「そうなの?」

 「そうとも。来なさい。こっちだ」

 おじいさんに手を引かれて、神殿の回廊を歩いて行く。

 「ピトよ。わしはお前に助けられた。お前が来なければわしは死んでいたかもしれぬ」

 「そうなの?」

 「そうとも。何かお礼をしよう。わしに出来る事ならなんでもな。何かしたい事はないか?」

 「したいこと? うーん、そう。劇場テアトルに連れて行って欲しいの」

 「なんだそんな事か。それは最初からそうするつもりじゃったがの。助けられる前からの。他にはないのか?」

 「えっとね……。違うの。わたしじゃなくて、リコを連れて行って欲しいの」

 「リコ? 誰かねそれは」

 おじいさんは、眉をひそめた。

 「覚えてないの? あの日の夜、松明を持って、おじいさんを神殿から抜け出してくれた女の子だよ」

 「おぉ……あの者か……。しかし、あの者は端女だろう? うーん」

 「だめなの?」

 「難しいじゃろうな。劇場テアトルは高貴な者たちが集まる場所じゃからな」

 「さっき何でもしてくれるって言ったじゃない」

 「出来る事なら、という話じゃよ」

 「リコはおじいさんの命を救ってくれたんだよ。わたし一人じゃ神殿から抜け出せなかったと思うし」

 「それを言われると弱るが……」

 「おじいさんっ」

 気付くとわたしは、おじいさんを問い詰めていた。

 他の人のために、誰かを怒るなんてはじめてかもしれない。

 今日ばかりは不思議と強気になれた。

 「仕方ない。何とかしよう」

 「ほんと?」

 「あぁ。じゃが、侍女を劇場テアトルに連れていく事は出来ない。リコ、と言ったか。短くて珍しい名前じゃの」

 「あ、リコじゃなくて、本当はリコリスって言うの。わたしがリコって呼んでいるだけで」

 「リコリスか。それなら聞き覚えのある名前じゃの。それで……そのリコリスは、神殿の巫女という事にしてもらおう」

 「え、巫女はわたしじゃないの?」

 「もちろんお前さんも巫女じゃ。じゃが、女で劇場テアトルに入れるのは巫女だけと決まっておる。

 わしと言えどもそも決まりを破ることはできん」

 「うん」

 「じゃからリコリスという娘を巫女だと言うことにして入る事にしよう」

 「え? そんなことできるの?」

 「できるとも。神殿の関係者などほとんど来ておらんからな。リコリスの顔を知っている者はおらんじゃろう」

 おじいさんも覚えてなかったし。

 口元に出かけた言葉を呑み込んだ。

 「でも巫女が二人もいたら変じゃない?」

 「あるいは本当に彼女が巫女となってしまうかじゃが……」

 「え、本当!?」

 突然の物言いにびっくりしてしまう。

 確か、リコは巫女になりたがっていた。

 本当になれるのなら、それはとても喜ばしいことなんじゃあないだろうか。

 「適正があるかどうかはわからん。幸い彼女は神に対する崇敬心は強く持っているようじゃが……それだけでは駄目なんじゃ」

 神さまを敬う心。私はそんなに持っていなかったけど、巫女になれた。

 だからあんまり関係ないんじゃあないだろうか。

 そう思ったけど、口には出さずにおく。

 私がそんなに神さまを敬っていないなんて言ったらおじいさんは怒るかもしれないし……。

 「他にはどんなことが必要なの?」

 「それはお前さんも良くわかっている事じゃろう。神憑きの儀で、どれだけ神に近づけるかという事じゃよ」

 ……神憑きの儀。リコがそれに向いているかどうかは、私には想像できなかった。

 私自身もなんで上手くいったのかよくわかっていないくらいだし……。

 でも……、ひとまずは応援してみたいと思う。

 ただ、劇場テアトルに劇を観に行くという話だったのに、いつの間にかおおごとになってしまったような。

 

 「リコ、おじいさんが劇場テアトルに連れて行ってくれるってよ」

 「え、本当ですか!?」

 リコはいつもよりも大きな声を出して驚いていた。

 よっぽど意外だったのだと思う。

 「うん、本当だよ」

 「劇場テアトルに入れる女性は、王族か巫女様くらいだと思っていましたが……」

 「うん、おじいさんもそう言っていた。だから、リコが巫女さんだということにしようって言ったの」

 「それって……、そんな事ができるんでしょうか?」

 リコは明らかにとまどっている。

 前は巫女になりたいって言っていたのだけれど。

 やっぱり本当は巫女にはなりたくないのだろうか?

 「夜に行けば、劇場テアトルは暗くて、他の観客の顔なんて見えないから大丈夫。っておじいさんが言ってたよ」

 「そうではなくて……、私なんかが巫女を騙って良いのかと思いまして……」

 「……そのことについてだけどね。おじいさんはリコが本当に巫女になったらどうかって」

 「えぇっ!?」

 リコは呆然として、時が止まったかのように、呆然と口を開けていた。

 「いやだった?」

 その様子にびっくりして、悲しげな顔をしてしまう。

 わたしの表情の変化を見て取ったのか、リコは申し訳なさそうに口を開いた。

 「いえ、そうではないんですけど……、ただびっくりしてしまって……」

 「リコ、前に巫女さんになりたがっていなかったっけ」

 「はい……、そうですけど……」

 リコは顔を俯けていたけれど、しばらくすると、何かを決心したかのように顔を上げた。

 その時の顔にはもう迷いの表情はなかった。

 「わかりました。もし大神官様が、私に素質があるとお思いなのでしたら、一度自らを試すべきでしょう」

 

 禁所アディトンに降りる途中の小部屋で私はいた。

 その傍らにはおじいさんが座っている。

 「通常なら、巫女の言葉を記録するのは、プロフェテスの仕事なのだが……、今はもうおらんからのう。わしが代わりを務める事としよう」

 そう。テイレシアスはあの日から、神殿からいなくなった……。

 「他にプロフェテスはいなかったの?」

 わたしはそう尋ねてみた。

 「おったが……、そいつもテイレシアスと同じ邪な考えを持った人間でな……、神殿から追放したのじゃ」

 「そうなんだ」

 だから、今はもうプロフェテスの代わりを務める人がいないらしい。

 神殿から沢山の人がいなくなってしまうと、仕事が増えて、大変そう。

 けれども、おじいさんはすごくしごとができる人のようで、神官の人たちが何かを報告すると、すぐに指示を出していた。

 神殿の中はとても慌ただしくなっていて、それでもおじいさんはリコのために時間を取ってくれた。

 リコが本当に巫女に向いているのかを、神様に最も近いこの場所で、見定めようとしているのだ。

 

 ヤギさんの鳴き声が聞こえた。

 神憑きの儀がはじまる。

 ひんやりと静まった地下の部屋で、かすかに声が、神さまの宿ったリコの声が聞こえ始めた。

 リコの歌声は、か細く甲高いわたしの声とは違って、やわらかく響きのある声に聞こえた。

 意味はよくわからなかったけれど、何かを訴えかけるような、人を必死にさせるような声だった。

 大神官のおじいさんは、視線を一切ずらさずに、神妙な面持ちでリコに目を向けていた。

 

 儀式が終わると、リコがぐったりとして、地面に沈み込んでいた。

 わたしは、リコの腕を取って肩に乗せると階段を一歩ずつ歩き始めた。

 「すまんのう。巫女になる者となれば、それは神の花嫁じゃ。枯れたと言っても、男のわしが触れるわけにはいかぬ」

 おじいさんは申し訳なさそうにそう呟いた。

 「ってことはリコは……」

 「そうじゃな。巫女としての資質を十分備えているとわしは判断しよう」

 「おじいさんっ」

 その言葉を聞いて、わたしは胸が高鳴り、笑みが自然にあふれるようになった。

 早くリコにこの事を教えてあげたい、そう思ったけれど、リコはまだぐったりとして目を覚まさない。

 無理矢理起こしてしまうのもかわいそう。そう思って、リコを小屋の寝室まで運んで、安らかな寝顔を見届けた。

 

 気がつくと、わたしはリコの寝台の上に顔をのせていた。

 どうやら眠ってしまっていたよう。

 顔を上げると、リコは寝台にはもういなかった。

 どこかへ行ってしまったのだろうか。

 通路に顔を出すと、ちょうど神殿と小屋の入り口の間をリコが渡っているのが見えた。

 「リコ。あのね、地下の儀式はね」

 わたしはそこまで言いかけてやめた。

 リコが嬉しそうに微笑んでいたからだ。

 「はい、大神官様から聞きました」

 「ほんと! 良かった。これでリコも巫女になれるね」

 「はい。でも、しばらくはピト様のお世話をし続けると思います」

 「そうなんだ……。でも、これで劇場テアトルに行けるよね」

 「はい、大神官様もそう仰っていました」

 「リコももう巫女さんなんだから、そんな言葉遣いをしなくたって良いんだよ」

 「そんな言葉遣いとおっしゃいますと……?」

 「……わたしのことをピト様と呼んだり」

 「いえ、わたしはまだ巫女になったわけではありませんから」

 「またまたそんな事を……」

 リコはうやうやしげな言葉遣いを変えてはくれなかった。

 これでリコと親しくなれると思ったのに。

 

 

 いよいよ劇場テアトルに行く日がやってきた。

 神殿の侍女が劇場テアトルに行くなんてことは今までに無かったみたい。

 だからそれを知っているのはわたしとおじいさんとリコの三人だけ。

 神殿の人にもそれを知られちゃいけない。

 日が沈んでからずいぶん時間が経った。

 辺りは暗く、劇場テアトルの席に座る人の顔はよく見えない。

 壇の上に置かれたいくつかの松明が、かすかに足元の階段を照らしている。

 わたしはその輪郭を追って、用心深く足を進めていって、一番前の席へと座った。

 わたしは一番階段に近い席に座り、その横にリコ、おじいさんの順に座っていく。

 階段を挟んだ隣に見える人は、腕輪や首飾りを付けた、高貴そうなおばさんだ。

 わたしはじろじろと、ほのかに見える宝石に目を向けていた。

 おばさんは壇上の方へ目を向けてこちらを向く素振りを見せない。

 そうこうしていると、急に松明が消えて辺りが暗くなった。

 かと思うと、壇上の中央から怒りの形相を浮かべた仮面が浮かび上がった。

 その様子に驚いて、肩を引くと、視界が少し横に開けた。

 その片隅にはリコが見える。

 リコは両手を胸の前で合わせて、深刻そうに舞台を見つめていた。

 リコは緊張して、舞台に集中できないんじゃないかと思っていたけれど、そんなことはなかった。

 わたしの方が、リコのことを気にして、舞台に集中していないくらいだった。

 リコが舞台にのめり込んでいるのを見届けると、わたしも安心して、壇上の動かない顔から語られる声に耳を傾けた。

 


 「ピト様、ありがとうございます。劇場テアトルに足を運ぶ事ができるなんて、夢にも思っていませんでした。

 それも一番前の席なんて……。一生の思い出にしますっ!」

 劇が終わって、神殿に戻ると、リコは顔を隠していた頭巾を上げてそう言った。

 「思い出……? リコはもう巫女さんなんだから、いつでも観に行けるんだよ」

 「私はまだ資質を認められただけで、本当の巫女ではないですよ。本当の巫女様はピト様だけです」

 「そうかもしれないけど……、すぐになれるよ。おじいさんが認めてくれたんだから」

 「そうでしょうか……」

 「そうだって」

 「でも、巫女様にはお世話する係が必要です。ピト様が巫女でいらっしゃる限り、私は侍女を務めますよ」

 リコは微笑みながらそう言った。

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