第2話 洗髪

 夏の夜、皆が帰り支度を始めた仕事場で何かの拍子に怪談が始まることがある。きっかけは些細なこと。前日の晩やっていたテレビの話題や、最近聞いた不思議な話などだ。


 数年前に、そんな場で聞いた。


【洗髪】

 後輩Aが話していたもの。


 Aの出身地の奈良には、あまり知られていないものの、結構な数の心霊スポットがある。北部の廃病院、屯鶴峯(どんづるぼう)、生駒山など枚挙に暇がない。


 彼の実家の近所にも、スポットとして名の知れたお寺があった。仮にD寺としておく。何でもその場所に夜中に行くと女性の幽霊が現れ、願い事をされる。それを断ると死ぬのだという。


 Aが小学校高学年のころ、いつも仲のよい友人二人とつるんでいた。幼馴染のBと、仲はよいが、祖父が地元の有力者であるため、学校で態度の大きいCだ。


 五月、ゴールデンウィークも終盤の土曜日の夜。三人して家を抜け出せたので、いつも噂をしているD寺に向かうことにした。交通手段は自転車だ。


 ポツリポツリと等間隔で並ぶ街灯が国道を照らす。一面に広がる田んぼからはカエルの大合唱が聞こえていた。D寺は、国道からあぜ道を五分ほど行った先にある。あぜ道には自転車が入れないので、国道の街灯の下に停め、そこからは徒歩で向かう。


 そのまま肝試しに行っても面白くないので、AはBと事前に打ち合わせをしていた。自転車での移動中、片目を閉じてあらかじめ暗闇に目を慣らせておき、国道の街灯の下で自転車を停め、あぜ道に入って暗がりになった途端、慣らしておいた目を開けて駆け出し、Cを置いてけぼりにしようという作戦だ。


 企みどおり、D寺へのあぜ道に入った途端、AはBと駆け出した。後ろで「待ってくれ」というCの声が聞こえたが、気にせず走り続けた。しばらくすると、Cの声は聞こえなくなった。道は一本道なので待たずに寺に向かった。


 D寺は、無住の寺だった。さびれた山門を入ってすぐ右側に手水場があったが、手押し式の井戸の水を利用するタイプであり、手入れがなされていないためか、土やコケなどでひどく汚れていた。手を洗わずにそのまま本堂の裏までぐるりと見て、入り口まで戻ってきた。狭い寺なので、境内が一目で見渡せるうえ、数分で一回りしてしまえる。


「結局、何も出んかったな」


「ほんまや。あれ、結局Cは来てへんのか。根性ないなー」


――などと言葉を交わしながら時間をつぶしたが、Cが現れる様子もないので、自転車を停めた場所まで来た道を戻った。


 国道につくと街灯に照らし出されたのは自転車三台だけ。つまり、Cは自転車で家に帰ってないし、その場にもいない。


 しばらくすると、D寺へと続くあぜ道の向こうから声が聞こえてきた。何を言っているのか分からない。


 二人とも驚いたが、暗がりの中で目を凝らすと、Cだった。あーだとか、わーだとか意味のない言葉を発しながら、全力でこちらに向かって走ってきている。


 街灯の下にいるAとBの姿を見つけると、一目散に駆け寄ってきて、その場にうずくまった。肩で息を切らし、何事かつぶやいている。服は汚れ、顔も涙でぐしゃぐしゃだ。


 しばらくして、落ち着いたころを見計らって、Aが声をかけた。


「C、どうしたんや?」


「なんでD寺に来うへんねん! 幽霊見てしもたやないか」


「いや、俺ら行ってたけど……」


 話を要約するとこうだ。Cは暗闇に目が慣れずに、AとBを追いかけきれず、後から一人でD寺に向かった。寺に着き、二人の名前を呼んだが誰もいない。とりあえず、手水場に向かうと、後ろから女性に「ねぇ。髪を洗って」と声をかけられた。


 驚いて振り向くと、白い服を着た女性が立っている。視線はなぜか合わない。見回しても髪を洗うものは手水場の井戸しかなかったので、恐ろしさに涙しながら、井戸水を手押しポンプで汲み上げ、手水場で女性の髪を洗った。(C曰く、「死ぬのはイヤだから」と言うことだ)


 もちろん怖くて直視はできない。しばらく顔を背けて洗っているうちに、女性の気配がなくなったので、こちらに向かって全速力で駆けてきたのだという。Cの服は水に濡れ、コケのような黒い汚れでべっとり汚れていたのだそうだ。


 あぜ道は、一本道。どう通ってもどこかですれ違わなければならない。また、見渡す限り田植えが済んでそれほど時間の経っていない田んぼの中では、身を潜めるスペースはない。しかし、AとBはCの姿を見ていない。その日はそのまま帰ったそうだが、Aはその状況で女性を洗髪した、Cの心の強さに感心したそうだ。

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