第8話

 ちょうど寝室から出たチカが、後退りながら、そっと扉を閉めるところだった。

「お早う」

 チカの背中がビクリと固まる。

 ガウンの裾から素足が覗いている。よく見れば、スリッパを小脇に挟んでいる。

「コーヒー入れてきたぞ」

「ああ、ありがとう」

 サイドテーブルにマグカップが三つ乗ったトレンチを置き、ソファに腰をおろす。やや遠慮がちに、隣にチカも座る。

 なかなか神妙な態度じゃないか。

 ここは趣味の空間で、あるものといえば、ギターとアンプ。それに音響機器。

 とはいえ、音楽を聴こうと思えば、一階の居間に立派な機材が揃っているので、簡易的なものばかり。

 静かなのも微妙なので、iPadから適当なプレイリストをランダムで再生する。

 スピーカーから流れてきたのはDiablo Glande(※1)のShades of Grey。


―― I was awake, lost in the shadows……


「まずはアンタの言い分を聞こうじゃないか」

 マルボロに火をつけ、煙を吐き出す。

「うん」

 チカもJPSを咥え、紫煙を燻らせる。

「ごめん」

「それだけか?」

「うん。覚えてないから」

 チカは覚えていないことについては謝らない。

「なんだよ。そんなに飲んだのか?」

「そんな覚えはないんだけどね」

「あっちの家に行ったのに、なんでわざわざ帰ってきたんだか、まったく」

「そうなの?」

 これは珍しい。

 そのうち思い出すかも知れないが、ここまでスッポリと忘れてるなんてことは、今までなかったな。

「薬でももられたか?」

 そうなると、お相手は確信犯ってわけだ。

「俺も知ってる子か?」

「うん、メグルちゃん。起きたら横で寝てた」

「あの巨乳ちゃんかよ」

 この様子じゃ、何もできちゃいないだろうけどな。

 まだ寝てるあたり、図太い子だ。

「どうすんだよ?」

「どうしようかね?」

 遊ぶのは構わないけど、ちょっとお痛が過ぎる。

 チカが多感な年頃の娘と暮らし始めたことは、あの店の常連は知っている。当然メグルちゃんも含まれるわけで。

「起きたらお説教だな」

「そんなとこだね」

 それっきり会話もなく、コーヒーも冷め、灰皿に吸殻が何本か転がった。

 何を思って組んだプレイリストなのか、統一感のない曲たち。クレイジーケンバンドが横須賀の海に電気クラゲを見出したところで、寝室の扉が開いた。

「ああ、全部邦楽なのか」

 チカも同じことを考えていたみたいで、そんなことを呟いた。

 扉は開きかけで止まっている。

「お早う、お嬢さん。すっかり冷めちまってるけど、コーヒー飲むかい? 熱いのがきゃ淹れなおすぜ?」

 俺が声を掛けると、勢いよくドアが開いた。

「え! なんでヒロさんがいるわけ?」

 思わず目を背ける。

 やってみたかったんだろうけど、シーツを巻いただけのあられもない姿。髪はボサボサだし、化粧も中途半端に残ってるしで、色気もクソもあったもんじゃない。女の子が恋人でもない男に晒して良い格好じゃない。

「なんでもいいから、何か着てこいよ。多分、鏡も見た方が良いと思うけどな」

 派手な音を立てて扉が閉まったと思うと、向う側から悲鳴が聞こえ、ウルフルズのファンクな前奏に乗っかる。ロッキン50肩ブギウギックリ腰(※2)。

 男性ヴォーカルばかり。このリストを組んだ時、俺は病んでいたに違いない。しかも何をぶち込んだのか、まったく記憶がない。

 こんな状況で筋肉少女帯でも流れた日には、目も当てられない。

 早々にプレイリストを切り替えれば良いのだけど、つい聴いちゃうんだな、これが。

「面白い選曲だね」

 そんな感想欲しくない。

「アンタも相当だな」

 メグルちゃんは出て来るのに、時間が掛かりそうだ。

「コーヒー淹れ直してくるわ」

 そう言って立ち上がると、シャツの裾を引っ張られた。

 チカが捨てられた子犬みたいな目で見上げている。

 何か言えよ……。

「すぐ戻ってくるから」

 グイっと引っ張られて、再びソファに座らされる。

「アンタなあ、子供じゃねえんだから」

「怖い」

 あのなあ。

 なんだ、これ。

 オッサンがそんなことしても、可愛くもなんともねえんだよ。

 ねえんだけどさ。

「わぁかったよ。どこも行かねえから」


―― ファスナーをおろして 強く強くHold me tight 女は獣さ 君には必要ない


 うわ、このタイミングでイエモンのSuck of Life(※3)とかないわ。

 それだけはないわ。

 慌ててiPadに手を伸ばして、スキップ。


―― 愛の歯ブラシセット 朝が待ち遠しいわ 白いコップに 仲良く二つ並んでる


 米米CLUB、愛の歯ブラシセット(※4)……。

 iPadのやつ、悪魔かっ!

「ぶふっ……」

 アンタが吹き出すな!

 ダメだ、このプレイリスト。






※1……Diablo Grande/骨太な大人ロックバンド。2016年解散。Shades of GreyはアルバムNail Downより。

※2……ロッキン50肩ブギウギックリ腰。悲壮な歌詞とノリノリのファンクが、中年のやる気と現実のギャップを表現しているウルフルズの名曲。続けて「手の平を太陽に」を聴くと泣ける。

※3……説明は要らないはずだ。

※4……だから要らないだろ?

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