第7話
「ユカー、飯の用意できてっぞー」
「はーい」
バタバタと階段を駆け下りてくるユカは、今日も元気だ。
「ねえねえヒロ!」
キッチンにいる俺に駆け寄ると、そのままぶら下がるようにして、しがみ付く。通常運転。
「どうした?」
「パパの部屋、誰かいる」
そう。
いるのだ。
共有の居室を挟んだ、俺の部屋の向かい。そこがチカの寝室。
普段、部屋にいる時はドアを閉めない。もちろん寝る時もだ。部屋を出る時に閉める。それは俺とチカの暗黙のルールというか法則で、別に決まりがあるわけではないけど。
今朝は間違いなく部屋で寝ているのだけど、ドアが閉まっていた。開けて欲しくないということ。だから開けない。
居室には甘い香りが残っていた。
うん。女だ。
「後でお説教だな」
「うん……。ねえ、怒って出て行ったりしないよね?」
心配そうに見上げて来る瞳。俺の腕は胸の間に抱え込まれる。
「誰が?」
「ヒロ」
「なんで?」
「だって、ヒロがいるのに」
なるほど。
そこんとこを勘違いしているのか。
「別にユカのパパが誰と寝ようと関係ねえぞ。俺もそうしてるし」
「え?」
「なんだよ。俺に彼女がいちゃおかしいか? まあ、彼女ってほどのもんはいねえけど」
「そうなの?」
「ほら、飯食っちゃえよ。朝からする話でもねえだろ。そういう話は日が暮れてからするもんだ」
ユカはしぶしぶ俺の腕を離し、キッチンのカウンターに座った。頬を膨らませて、俺を睨みながらシリアルのボールにヨーグルトを投入する。
朝飯といっても、グラノーラにフルーツ(フレッシュが無ければドライフルーツ)をぶち込んだだけ。後はヨーグルトと、オレンジかグレープフルーツのジュース。
楽なもんだ。
それにしても、ユカの表情はコロコロ変わる。分かりやすいというか、表情や仕草で表現するから、見ていて飽きない。
チカは何をしても顔色をほとんど変えないから、本当に親子なのか疑わしく思うことがある。
母親似なのか、海外育ちの賜物なのか。
「ねえ、どんな女だった?」
まったく、なんて言い方だよ。
「こら。『女』じゃねえだろ。せめて『ひと』って言っとけよ」
「だって……」
「俺も見てねえし」
「そうなんだ。……あれ? じゃあ、パパどうやって帰ってきたの?」
おっと。言われてみれば。
チカはこの家の鍵を持ってない。
いや正確には、持っているけど身に着けていないというか。テラスハウスに置きっ放しだ。
店を閉めて帰ってくると、俺が鍵を開けるのだ。
折角一緒に住んでるんだから、「お帰り」って言って欲しいんだと。
大概起きてるから良いんだけど。
そんなこともあるから、テラスハウスに誰か連れ込む時でも、無断外泊ということはない。必ず連絡してくる。
「まあ、今考えても仕方ねえよ。後で直接聞きゃ済む話だ。それより早く食っちゃえって。遅れるぞ」
「はーい」
まあ、鍵を取ってくれば良いだけのことだ。そうしたんだろ。
俺はトーストしたパヴェ(※1)にバターとマヨネーズを塗って、レタスとベーコン、トマト、スクランブルエッグ(のマヨネーズ和え)を挟む。
もう一つ。そっちには塩とブラックペッパーを利かせたクリームチーズ、茹でたエビ、ちょっと苦みのある皮入りレモンジャム。仕上げにハチミツ。
再生クラフト紙でできた容器に入れる。この容器、内側に水分が着かないから、パンがぐちゃぐちゃになり辛い。使い捨てだけど、美味しく食べられるほうが良いし、帰りは捨ててこれるから荷物も減る。弁当箱洗うの面倒だしな。
ユカは朝食を食べ終わると、せっせと後片付けをする。
うん。良い子だよ。
「うし、行くか」
チカは放置して、ユカを学校に送る。
途中、コーヒースタンドに寄って、グランデサイズのラテをマグに入れてもらう。
最近の学生はお洒落になったもんだ。
目黒にあるインターナショナルスクールまで三十分弱。
黒いフェアレディをオープンにして乗り付ける。これはユカの希望で、頑として譲ってくれない。
真っ赤なベンツで同じことをするよりはマシかと、諦めている。
「帰りは?」
「遊んで帰る!」
「おう。気をつけてな」
ユカは遠慮のないハグと、啄むようなキスをかまして車から降りていく。
ったく、俺は一応保護者だっての!
どうも外人さんの文化にゃ、着いていけない。
ユカは中学生だけど、特に門限とかは決めてない。外食する時は連絡するように言ってあるけど、ファーストフードで食べて来たくらいなら、家での夕飯もしっかり食べる。
学校が終われば、俺とチカのスマホは、ユカのSNSメッセージで埋まる。
一々報告しなくても良いって言ってるが、好きでやっていることらしく、友達の口紅の色を選ばされたりする。そんなことは彼氏とやってくれと思うのだが、同世代の男の子ではとても満足できないらしい。
いつもなら、このまま奥沢の作業場に向かうのだけど、来た道を引き返す。
どうにも、チカらしくない。
俺のことは兎も角、ユカと暮らす家に女を連れ込むなんて。
そんなことを考えながら、一国を走る。
鍵のこともある。
何かが引っ掛かる。
結局、もやもやしたその正体を掴めぬまま帰宅した。
チカはまだ起きていないようだ。
普段から午前中に起き出すことは稀だから、そこは不信ではないのだが。
俺はキッチンでコーヒーを三人分用意すると、それを持って二階の居室に向かった。
※1……パン・パヴェ 石畳という意味の四角いパン。お店によってミルクパンだったり、フランスパン生地を使用したハードパンだったりする。
ヒロは蒲田にあるブーランジェリー・ボヌール梅屋敷店にて購入しているので、ハードパン。
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