8袋目 異世界の虫歯事情
手紙を渡し終えた俺は市場をブラブラしていた。特に買う予定も考えずに歩く朝の市場は新鮮だった。しかし朝の買い物で混雑する時間帯が過ぎて、少し物足りない賑わいだった。目ぼしい物も買い漁られ、残った商品を冷やかすだけだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ジキルの手伝いをしていた時は気付かなかったが、市場は思っていたより規模が小さく、短い。いつの間にか市場の外れにまで歩いてしまった。すぐに回れ右して、また歩き出す。それを3回繰り返したところで、大きくため息をつく。
「なぁぁにやってんだか・・・」
思い返せば、俺はこの世界で生きる為、仕事にかまけて趣味の時間を無くしていたようだ。いや、昔は趣味くらいあったんだけど何が趣味だったか思い出せないだけで、確かに何か夢中になっていたことがあったはずだ。確か・・・そう! 映画! ――――映画なんて無いよこの世界。・・・そうだ、ゲーム!・・・タブレットPCと携帯アプリしかない。あとは、うーん・・・スポーツ? ・・・だめだ、用具と場所が無い。そもそもここはモンスターを狩るほうが優先だからそんな余裕が無い。
「もしかして、今の俺って・・・無趣味?」
未だ賑わいを見せる市場の真ん中で、俺は疎外感を覚えた。
自分を振り返る余裕があると、自分の余裕の無さがわかる。こういった自分の人生やらなんやらを振り返るのはもうよそう。
「そうだ。ロミオに手紙届けたって報告しよう」
俺は気持ちを切り替える為、ロミオが働く鍛冶場へ向かった。どこが鍛冶場なのかは実は知らないが、遠くから金属を強くたたく音がするから、恐らくそこだろう。
音のする方へ歩いていくと、他の建物から距離をとるように、武具を取り扱う店と鍛冶場が一緒になった建物にたどり着く。剣と金槌が交差する円形の吊り看板はいかにもファンタジーの世界観を漂わせていた。
足踏み式の
「・・・・・・・・・」
「・・・話しかけづらい・・・」
真剣な顔で炉の中を見つめるロミオ。仕事中にプライベートな事を話しかけるのはちょっとどうかと思い、“後で”にしようかと思案する。
「おいアンタ、そこでなにやってんだ?」
声をした方を振り向くと、額の汗を手拭いで拭きながら、こっちに近づく男がいた。男はずんぐりとしていて短く刈りそろえた髪と無精ひげ。服装はチュニックに分厚い皮エプロンと手袋。武骨な作業靴。半袖という以外は肌を露出していなかった。
「ああ、いや、今朝ロミオに手紙を渡すように頼まれて・・・ちゃんと渡したってことを伝えようと思ったんですが、ああやって真剣にやってますと、ね?」
「・・・ああ、昨日までうわの空で、今朝からは身が入ってるのはそのせいか」
男は呆れたように嘆息して、ロミオを見る。
少しの沈黙の後、男はもう一度俺に話しかける。
「アンタ見ない顔だな。トーマスが言ってた最近この街に来た砂金採りで良いアイデア出してるエイトってやつか?」
「ええ、まぁ・・・提案してる数が多いのは私ですね」
「今日は魔狼が出たってそうだが、アポロン騎士団が戻ってくるまで休みか?」
「はい。それでラブレターを渡すのを頼まれてさ――――」
ここで男の気色が悪戯っ子っぽく変化するのを、俺は見逃さなかった。
「ほほう? やはり女か?」
「ラブレターは普通異性に、ですからね」
「相手は誰だ? 野菜売りのコーリアか? 羽集めのクラウディ? ユステフの娘はまだ小さいし・・・」
「墓場の館に住んでいる人ですね」
男の顔から血の気が引く。
「――――そ、そうか、これ以上は聞かないでおこう・・・。
ああ、それと手紙を渡したってのは伝えといてやるよ」
「そうですか、よろしくお願いします。では私はこれで・・・」
男にお辞儀をして俺は鍛冶場を去る。これで今日やれることはやった。
宿屋に戻ったら、倍増袋の増やす項目をもう一度洗い直そう。それから今ある資金も数えて購入する順番も吟味しよう。とにかく、今は大事な準備期間の初動なんだ。
宿屋にて、俺はロビーで女将に呼び止められる。
「丁度よかった。あんた今日は暇なんだってね?」
「エ? ああ、はい」
「ちょっと頼まれてくれないかい? この子を・・・」
女将はエリンを手招いて、俺にエリンを押し付ける。
「ちょいと教会まで連れてっておくれよ。教会はエリンが知ってるからさ。
いいでしょ?」
「はぁ・・・教会って、礼拝ですか?」
女将が笑って手をひらひらと上下させる。
「そうじゃないさ! この子ったら歯の生えかわりが始まってさ。いま教会で新しく入ったシスターが、タダで治癒魔法使ってくれるそうだから、それで連れてってほしいのさ! なぁいいだろアンタうちの客にしては珍しく娘と仲いいし」
「ほーん・・・歯の治療は魔法で・・・」
初耳だが、納得した。こういった時代の虫歯治療はどうしていたのか少し疑問だったので、魔法で治すというのは合点がいった。
虫歯というのは、今は保険証を持って歯医者に行けば多少の痛みと金銭で治してもらえるが、昔はそうもいかない。江戸時代の質素な生活を送っていた庶民は歯医者に行けず、神社仏閣にお参りし神仏に祈願する。お祓いや願掛けをしたり、お札(お守り、護符)を購入して、つまり歯の治療は神頼みだった。歯医者の治療を受けられた一部の上流階級の人も治療を受けられたとはいえ、基本は「虫歯はとにかく抜歯」だったので、麻酔なしで歯を抜く筆舌に尽くし難い痛みを味わうのだ。江戸時代の死亡原因の1位が虫歯だったから、仕様がない所なんだろうけど。
妙に馴れ馴れしい女将の頼みを受けるか考える前に、膝をついてエリンと目線を合わせる。エリンは両手で口を防いでいた。
「グラグラするか?」
「んー・・・グラグラするー・・・」
「前歯だったら見っともないな。抜いた歯は屋根に投げないとな」
「みっともないー・・・やねってなんで・・・?」
「ハハッ、ここじゃ生え変わった歯は投げないか」
俺は立ち上がって、エリンの頭をガシガシと撫でる。
「わかったよ女将。連れてくだけでいいんだな」
「ああ、頼んだよー!」
予定を変更して、俺はエリンを教会に連れて行くことになった。宿屋を出た俺とエリンは手をつないでエリンに引っ張られる形で教会に向かう。
「まっすぐ教会に向かってるな? 寄り道しちゃだめだぞ」
「んー・・・」
「グラグラしてるところ以外にも虫歯があったら治してもらおうな」
「んー・・・」
「ところで虫歯の治療に魔法っていうのは初めて聞くが、痛くはないのか?」
「ん・・・わかんない・・・なる前に・・・見てもらう・・・」
「そうか、予防が万全なら痛みなんか最小限だわな」
俺なんか基本別の予定を優先して放置だ。放置したおかげで何度も歯医者に通って、余計な金と時間を歯医者に費やしてしまう。とくに虫歯の治療のため邪魔だった隣の親知らずを抜いたときは最悪だった。横に生えていたから麻酔を2本打って、それからハサミみたいなもので肉をジョッキンと切って、普段と違うドリルでゴリゴリ抉る(削るじゃない、抉るだ)。抜歯して縫ったあと2日ほど血が止まらなくって、胸糞悪い気分で仕事をしていたものだ。抜糸してからはいつもの生活に戻ったけど。
昔の痛い目にあった思い出が蘇って少し憂鬱な気分になる。というか思い出すたびに元の世界の事を思い、郷愁にかられる。ここへきて俺はまだ元の世界の事を気に掛けている。やれ仕事帰りに消えた俺を会社の人たちは心配してないか。やれ働いて貯めた銀行口座の金はどうなるか。やれ両親はこれから先大丈夫なのかと。
トラトスの街北東、墓地にほど近い場所に教会はあった。砦の中にあるというのに未開拓なのかと首を傾げたくなるような森の中に、ぽつんと教会があった。街の賑わいとは無縁の静寂さの中で鎮座する教会を見て、どこか淋しさを感じる。
はて、この協会の屋根の
「ここが教会?」
「うん・・・」
「シスターは中かな?」
俺は教会の大きな扉を開けようと手にかける。重い扉を片足を踏ん張って引っ張り開け、体を半分中に入れる。
「ごめんくださーい」
訪問の声が質素な作りの教会内に響く。十字架と長椅子。あとは曇ったステンドグラス。やはりひっそりとしていて、この街の住人はあまり熱心な信者じゃないのだろうかと窺わせる。
「はいー、どちら様で――――」
奥から一人のシスターがやってくる。白黒を基調としたシスター服。こことは不釣り合いな若い女性。突然の訪問にも自然体な笑顔で応対する。
俺は見覚えのある人物が現れたことに声を上げる。
「あっ、シスター・エレミア」
「あら、エイトさん」
思わぬ再会に俺は不用意に教会の中に入り、エリンもそれに続く。
話を聞いたところエレミアは身を引いた前任者の後を継いで布教活動をするため、この街に派遣されたそうだ。
「奉仕活動の一環として回復魔法の無償提供を行っております」
「そうか、じゃあ早速・・・」
俺はエリンをエレミアの前に立たせる。
「歯の生え変わりらしくて、グラグラするんだと」
「まぁ、それは辛いでしょう・・・」
エレミアが優しくエリンの両手を取って、口の中を調べ始める。
「えうー・・・」
「我慢だ」
俺はエリンを両肩を掴んで固定する。エリンは不快そうに顔をしかめながら、エレミアに身を任せる。
「はい、はい・・・グラグラしているのが2本、虫歯は無し」
エレミアが指を一本目の前に出し、何かを唱える。
すると“ポゥ”と指先におぼろげな光が生じ、それをエリンの口の中に入れる。
「うう・・・ぺっ」
エリンが眉を
「はい、終わりました」
ニッコリと微笑みながらエレミアがエリンの頭をなでる。エリンが撫でる手を遮って、俺の後ろに回り込む。俺はそれを気にせずエレミアの手際の良さに感心する。
「すごいな回復魔法。それに治療自体も慣れている」
小さな子供が歯の治療と聞いても平然と自分から教会に向かうのも納得だ。
「はい。ずっとやって来た事ですから」
「それじゃあ用も済んだし、これで――――」
エリンを見ながら言っていたので、俺はエレミアの接近を許していた。
突然“ガシッ”と両肩を掴まれて俺はぎょっとする。
「さぁ、ついでにあなたの歯も見てみましょう」
「えっ」
「大丈夫です。タダなんですから」
「え、いや、ちょっと!?」
「おおー・・・みてもらえー・・・」
エリンが俺の腰に手を回してぎゅっと抱きしめるように拘束する。俺は女子供相手にみっともない真似はできないと観念して、エレミアに歯を見てもらう。
「これでいいか? ああー・・・」
大きく口を開けて、エレミアに見てもらう。すると。
「まぁ、歯を銀で詰めているんですね。それに歯石もあります」
そう言って懐から小さい瓶を取り出す。
「まずこの聖水で口の中を洗浄しましょう。さぁどうぞ」
「のめー・・・」
俺は黙って聖水の入った瓶を受け取り、瓶を開ける。初めての聖水なので、においを嗅いで大丈夫な物なのか念入りに確かめる。そして意を決して口に含む。
「それではそのまま口に含んだまま洗浄します。やり方は簡単。流動を司る水の魔法の基礎を口の中で行いながら洗浄に必要な浄化の魔法を並行して使います」
俺の両ほほに手を添えて、何かを唱える。
ぎゅるんっ
「――――んっ、んん!! んん!!」
口の中で聖水が暴れはじめる。嵐のように荒まじい闖入者が刃物を持ってところ構わず――否、的確に歯の沁みる部位に突き立て――グリュグリュと口の中を旋回する。無防備な口の中を蹂躙され、カクテルを作るシェイカーのようにお手軽に口の中で聖水と汚れが混ざり、新品の鋭利な刃を装備したミキサーが、設定を強にして歯の表面を削るような痛みと錯覚。歯の隙間を分子単位で削り取れる切断用の糸で刻む様は檻の中を行きつ戻りつする動物のよう。とにかく口腔が洗濯機の如く痛みが回る。
手負いの獣のごとく身をよじらせ始める俺を見たエレミアが困った顔になり、エリンはギュッと力を込めて拘束する。
「んんんっー!!!――――げぇ!!」
エレミアが用意した桶に聖水を吐き出す。聖水は血に染まり白濁と解けた小麦粉色の何かが斑点状に混ざっていた。つまり俺の口の中は綺麗な赤色なんだな!
「ぜぇ・・・ぜぇ・・・」
「これはひどいです。どうやらここに来たのは神のお導きのようです。こうなったら徹底的に歯の治療を施しましょう。大丈夫です。タダですから」
「おぉー・・・よかったなー・・・」
エリンがうなだれる俺を体重をかけてのけぞって、エレミアに向けなおさせる。
「ちょ、ちょっとま――――」
エレミアが力強く俺の下あごを掴み、また違った風の詠唱を始める。
すると、俺の口の中に変化、あるいは痛みといったほうがいいか。
異世界の歯の治療が始まる。
パキッ――――パキッ――――
まずは前歯あたりの、詰めていたセラミックが剥がれる。この「食事中にやってしまった音」は何度聞いても血の気が引く。
――――いや待て。なぜはがす必要があるんだ・・・!?
「ん?! んごっ!」
口の中が唾液で満たされ始める。それも異常な速さで分泌され、口の中で膨らむ。
「大丈夫ですよー。まずは異物を全部取っちゃいましょう」
次は銀歯だった。硬い物をかみ砕くとき、硬くて鋭角なものが歯と銀歯の間に当たってそのまま噛んだ時の、あの「てこの原理」で取れちゃう感覚を思い出す。強力なはずの接着剤が無抵抗に剥がれ、銀歯が口の中で泳ぐ。
「んん!! んんん!!」
何やら奥の方でじんわりと痛みが蘇ってくる。これは、そう、親知らず・・・?!
どうやら手術で取ったはずの神経が蘇り、口の中の痛みが一つ、また一つ増え始める。確か俺が神経を取った個所は、全部で・・・。
「ガァッ!!? ご、オエェ・・・!!」
今度は下あごの感覚がおかしくなる。骨が軋んで伸びる異音。歯が大地震に揺れるビル群かの如くうねって、元の世界で治療済みの歯が浮いて、痛みを伴うことなく抜け落ちた。そしてここからが常軌を逸していた。
「――――エアッ!! がぁぁえ!!!」
抜けて隙間ができた穴の奥底から、懐かしいようなおぞましい様な感覚が鋭く襲ってくる。そう、新しい歯が生えてきたのだ。
グリッ
隣り合う歯がぶつかる事無く生えたそれはまさに新品。長年の食事生活で酷使し痩せ衰えた歯ではなく、若いころの歯そのものだった。
しかし奇妙なことに、親知らずが横に生え――――
「!? んん!! ンヒィ!!!」
いや、横に生えていた親知らずが、神の見えざる万力によって縦に並び変わろうとしている。ゴリゴリゴリゴリと歯の根元が移動する痛みは、脳に危険信号を強く発し続ける。が、特に抵抗できる事無く正常な位置(?)に旋回し、移動していく。
「ンゴゴゴゴゴ!!!!」
5分後。そこには、教会の床に突っ伏して滂沱の涙を流して悶絶する俺が居た。
余りの痛みに大の大人がのた打ち回るほど、この世界の歯の治療は壮絶だった。しかしこれにより歯は完璧に治っており、しばらくは虫歯の心配は無くなった。
「大丈夫ですか?」
「おー・・・起きろー・・・」
返事ができなかった。治癒の為の魔法が痛みを伴うモノなんて聞いてないぞ。
「回復痛ですわね。回復魔法による体の修復のスピードが速いと、神経が過敏に反応するんです。ここまで放置されていた歯を全部治癒したのですから、しかたのない事なんです。ですからそろそろ起きて・・・」
そうは言うが、口の中はまだ痛みで満たされている。まず神経を生き返らせる前に歯を並び替えるという器用なことは、できなかったのだろうか。
「起きろー・・・帰るぞー・・・」
さっきからエリンが俺の体をつんつんする。俺は麻酔が無いこの治療に憮然としながら、何とか立って見せた。
「・・・・・・痛かったが、お礼は言います。ありがとう」
「無理はしなくていいんです。まさかあれほどまで苦しむとは思わなくって」
エレミアが申し訳なさそうにするが、もう終わったことだからと言い残して、俺はエリンと手をつないで帰る事にした。
しかし歯の痛みと苦しみがまだ抜けきっていない俺は、教会の外で落ちてあった、エリンの背丈ほどある大きな木の枝を支えにして、見っともない姿で帰っていくのであった。
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