第3話 そして、今回のテーマはツボカビ症……ではなく

「すると紗原くん、君は家族から見捨てられた状態というわけだ」

「いえ、見捨てられたというわけでは」

 獲物を見つけた博士は嬉しそうににんまりする。その目には狂気が宿り……


 研究所へ行く途中、僕は、家で一人暮らしをしていることを、種野なる人物には絶対に教えてはいけないと決めていた。僕の想像力もいろいろな不幸な予測をしていた。

 それはそうだ。得体の知れない人物に、一人暮らしだということを教えては、いろいろとヤバイ。それこそ、『僕を犠牲者にしてください』と言っているようなものだ。

 時間は、三時近くになっていたが、僕は、途中、四時過ぎには帰らなければならないという話をしておいた。

 種野研究所?は、本当のところも近かった。以前、何度か横を通ったことのある高い塀に囲まれていたのだ。

 正直、見知らぬところへ連れて行かれることを警戒していた僕は、ちょっと安心した。

 だが、塀の内側にはたくさんの樹木が茂っており、中がどうなっているのかを僕は知らなかった。これまで、高い塀のある道という認識しか僕にはなかった。

 中の見えないスチール製の門扉が開くと、高い塀の中には、ガウディ建築のように曲線の使われた建物が見えた。門の右には守衛がいるボックスが置かれていた。

 建物は小学校の体育館ほどはありそうな大きさだった。地下にも何かがあるらしい。庭には、幾つかの排気口が出ていた。


「ここが研究所、大きいですね」

「研究所でもあるし、私の家でもあるよ。ほれ、左手に離れがあるじゃろう。私は、あそこで暮らしておる」


 古びた和風建築がたしかにあった。そして、家の入り口には、嬉しいことに助手らしい娘が立っていた。肩まで伸びた髪、化粧っ気のない顔、でも、僕よりは年上に違いない。

もしかしたら、高校生。


「彼女は、奈楽ならくさんじゃ。さっき言った助手じゃ」

「こんにちは、奈楽 有惈ゆかです」

「はっ、はい、初めまして。紗原 貢次郎です」


 種野博士の言ったことはウソではなかった。無理に見開かなくても大きい目をもったきれいな娘、年は高校生ぐらいかもしれなかった。

 僕の好みのタイプがそのまま実体化していた。

 嬉しいことに手を差し出してきたので、握手してしまった。ぎこちなく手をそっと握った。こんなふうにきれいな女の子と握手したのは初めてのことだ。ドキドキに意識が飛びかけた。

 玄関を入った左が応接間になっていて、八畳ほどのフローリングの部屋にソファーが置かれている。いつの間にか、僕は、そのソファーに座っていた。

テーブルには、ケーキとアイスティーが置かれ、僕の右手に種野博士、左手に奈落さんが座っている。油断すると彼女の方にばっかり目が向いてしまうので、交互に顔を見るように意識した。


『かわいい娘には酷い目にあうから気をつけろ』

頭の中では、セキセイインコから教えて貰った言葉がちらついたが、僕の口からは、この夏の自分のかわいそうな境遇がこぼれ出ていた。

 言わないつもりだったが、奈楽さんの気をひきたくて口が動いていた。


「まあ、家族代わりがセキセイインコだなんて、信じられない。貢次郎さん、かわいそうじゃない」

「ちょっとひどいでしょ」

「ひどい、ひどい、ひどい」

「それは都合がいい」

「都合って?なんですか」


 僕のことで心配そうな表情になった奈落さんを見られたのは、嬉しかった。

 だが、僕の一人暮らしだということに、博士のほうは都合がいいと言った。博士の目がギョロリと大きくなり、口がにんまりとした。

 言わなければよかった。どうやら、僕の予想は正しかったようだ!博士が赤ずきんちゃんを待ち受けていた狼に見えた。


「ということは、紗原くん、先ほどの四時には帰らなくてはならないというのは、もしかしたら勘違いかね。もう、すでに四時だが」

「四時、いえ、帰ろうかな」

「だって、ゆっくりできるんだろう。君には夏休みの宿題しか待っていないんだから」

「ええ、本当のところそうです。

 あっ、そうだ。博士がどうして歩道でうろうろとされていたかも聞きたいです」

「まあ、博士、またツボカビ調査をされていたんですね」

「感染した蛙がいないかと思ってな」


 僕がウソを言っていた話に焦点が行かないように話題をそらした。

 ツボカビ症という言葉は、僕も聞いたことがあった。でも、まったく興味はなかった。たしか蛙の病気だった。地球上の蛙絶滅という話もあった。でも、近頃聞かない話だ。蛙が気になる人間はそうはいない。


「ツボカビって、もう終わった話じゃないんですか」

「たしかに、近頃はマスコミで騒がれん。でも、感染すれば九割の確率でその両生類は死ぬ病気だがね」

「なんでもカビが原因でしたよね。でも、家の周りにも蛙はいるし、蛙が滅びたという話も聞きませんよ」

「そう、カエルツボカビなる病原菌で起こる病気じゃ。そして、日本の今のところは滅びておらん。というのも、幸いなことに日本の蛙はカエルツボカビ菌への抵抗性をもっているらしい。

 だが、菌は進化するものだ。このところ、より強力な菌になる気がしておってな。それで、時々調査しているのじゃ」


 博士は胸の「Save the day」を指さした。蛙を救うことが『日を救う』なのかと思うと「Save the day」の意味はいよいよ分からなくなった。


「そんなに蛙が大切なんですか」

「あら、蛙がいるってことは、蛙は何を食べている?」

「……バッタとかの、虫ですか」


奈楽さんが話に入ってきたので、僕は慎重に答えた。彼女は、じっと人の目を見ながら話す癖があるらしい。見つめられていると思うとドキドキしたが、正解だったらしく、彼女はにこっとした。ホッとして、肩の力が抜けた。


「蛙は虫を食べ、蛙の捕食者もいるということよ。だから、食物連鎖の鎖が切れてしまう」「そうか、そういう意味なんだ」


 大切だということと興味が湧くということとは違う。蛙の話には気が向かなかったが、彼女の真剣な表情を見ながら話を聞くことは嬉しかった。


「それに、変な話だけれど、種野博士は予感が、時々、当たるのよ」

「予感が当たるって」

「ふと頭に浮かんだことが本当になるのよ」

「そんなことってあるんですか」


 僕は改めて、プラスチックの眼鏡に長い顔、白髪交じりの無精ひげとぼさぼさの髪の毛、細身の体の人物を見た。ちょっと厚ぼったい唇がにんまりとして、顔が頷くようにゆっくりと上下した。


「君ぐらいの年の頃には、予感がたいてい現実のことになった。ほとんど百発百中じゃった。一メートルも離れていない場所から射的の的を狙うようなもんじゃ。

 だが、いつの間にか、外れたり、そもそも予感が浮かんでこないことのほうが多くなった。年と共に何かが鈍くなったのかもしれん」


 この話には興味があった。僕はちょっと怪しいことが嫌いではない。いやいや、怪しい話だの不思議な話を簡単に信じる癖があった。予感が本当になるなんて、僕にも欲しい力だった。


「ところで君も私の助手をやらんかね。実は、今日、新しい助手と出遭う予感がしていてな」

「それが僕ってわけですか。助手って、蛙調査ですか。僕は、鳥冷房の実験中なので」


 蛙が病気に罹っているかの調査は、たとえ、食物連鎖の鎖が切れてしまうかもしれない大事なことでも気乗りがしない。そもそも蛙は好きではないのだ。


「いやいや、ツボカビではないよ。どうしても調査活動をしたいなら別だがね。

 ちょっとした縁で、奈楽有惈さんには、住み込みで私の手伝いをしていただいているが、君も協力してみんかね」


 また、ボクの気持ちを見透かしたように博士が奈楽さんカードをちらつかせた。


「じゃあ、どんなことをやるんですか」

 エサに飛びつきそうになったが、なんとか説明を求めた。


「夢の話だ」

「僕、将来の夢なんて決まっていませんよ」

「いやいや、眠って見る夢だ」

「夢は見ますけど、博士はその中に出てきませんでしたよ。いえいえ、そもそも、夢を僕ほとんど覚えていないですよ」

「そう、夢を覚えていないことが今回の研究テーマなのだ」


 種野博士は、目をつぶると黙り込んだ。研究のことを考え始めたのかもしれない。そして、嬉しいことには有惈(ゆか)さんが話を続けた。


「博士は瞑想に入ったみたいなので、私が続けるわね。

 貢次郎さん、夢の特徴は、覚えていない意外に何があると思う」

「夢は、……断片的で、話がつながらない」

「そう、話がつながらないし、覚えていないことが夢の特徴ね。」


 いよいよなんだか分からなかったが、彼女の口から出てくる言葉を聞くだけで、僕は満足だった。


「そこで夢を忘れず覚えていて、話がつながっていくとしたらどうかしら」

「分からないな。つながったって夢は夢じゃないですか。あっと、そもそも夢の特徴ってもう一つありますよ。本当じゃないということです。だから夢で実験したって何の意味があるですか」

「いや、違うぞ」


 瞑想していたはずの種野博士が乱入してきた。


「紗原くん、君はだいたい何時間眠る」

「まあ、八時間前後ですかね」

「すると一日二十四時間の三分の一ということになる。これって人生の三分の一、君は惰眠をむさぼっていることになる。

 ……君の短い人生でこれはもったいないと思わないかね」

「短い人生と決めつけないでください。でも、たしかにもったいないです。

 でも、だからって寝ないでいるなんて僕には無理ですよ。中学生は眠いんです」

「そう、中学生は眠い。だから、貢次郎くん、君に頼みたいんだ、眠り世界を創る実験を」


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