【ゲリラ豪雨記念短編】『不測の事態』は突然に

ボンゴレ☆ビガンゴ

【短編】『不測の事態』は突然に

 奴はいつも忘れた頃にやってくる。

 白いフレームのメガネに撫で付けた七三分け、白と赤の派手なチェック柄のスーツという、ちんちくりんな格好の奴は、いつも知らぬ間に背後に立っていて《よっ! おひさ!》と軽い口調で肩を叩いてくる。

 空気を読むことなどしない自由奔放な奴が現れると、決まってろくなことは起きない。本当に厄介な奴だ。

 できれば奴には合わないまま人生を穏やかに過ごしていきたいのだが、やはり奴は忘れた頃にやってくるのだ。


 ☆ ★ ☆

 

 学校の帰り道。

 奴は突然、現れた。


 ついさっきまで雲ひとつない快晴だったというのに、急に分厚い雲が青空を覆い始め、みるみるうちに雲は空一面に広がった。

 あっという間に太陽が隠れ、辺りが暗くなる。

 これはバス停に着くまでに降り始めるかもしれない。そんな予感がして早歩きを始めた矢先のことだった。


《よっ! 久しぶりぃ!》


 ぽんぽん、と肩を叩かれて振り向くと、人を小馬鹿にしたような紅白柄のスーツの男が立っていた。べったり髪を撫でつけたそのヤサ男は白いフレームのメガネの奥でいたずらっぽく瞳を輝かせていた。


 返事を待たずに奴の言葉は続く。


《元気にしてたかぁ。久しぶりの登場の『不測の事態』ちゃんでーす!》


 くねくねと身をよじらせ奇怪なダンスを踊る奴が楽しげに言う。

 すると、それを合図に空に雷が響いた。


 くそ、油断していた。こんな時に奴が現れるなんて。奴の登場を待っていましたとばかりに、大粒の雨が激しくアスファルトを叩き始めた。

 俺は奴を無視し、カバンを傘代わりに慌てて駈け出した。


《おーい、ちょっと待ってくれよー》


 奴も慌てて俺を追いかけてくる。

 雨の勢いは奴の足音に合わせるように激しくなっていく。


 ツイてない。もっと早く学校を出ればよかった。

 友達の馬鹿話に付き合って時間を潰さなければ奴に出会うこともなく余裕でバスに乗れたのだろうに。

 むくむく沸き上がる後悔の念を押し込めて田舎道を走る。

 干からびたアスファルトに大粒の雨が叩き付けられて、むわっとした雨の匂いが立ち上る。沿道の枯れかけた紫陽花が力なく揺れている。

 雨は激しさを増し、視界のすべてに滝が降り注いでいるかのような猛烈な勢いになってきた。


《慌ててますなぁー。もうそこまで濡れたら走ろうが歩こうが変わらないんじゃない?》


 ずぶ濡れで駆ける俺の横で、一切濡れていない紅白模様のスーツ姿の奴は涼しげな顔で言う。

 奴の言葉は無視して走る続ける。


 人生は偶然の連続だ。こちらにはこれっぽっちも落ち度がなかったとしても、あらゆる対策を立て準備を万端にしていても『不測の事態』は思いもよらぬ方角から現れる。

 そんな奴にいちいち腹を立てていても気持ちが沈むだけだ。

 人生は思い通りに行くことの方が少ないのだ。不測の事態など適当に受け流せるようにならねば。


《まー平凡な人生じゃつまらないからなー。こうやって、たまには『不測の事態』ちゃんが来ないと、スパイスに欠ける人生になっちまうもんなー。はっはっは。学校帰り、土砂降り、駆ける若者。いーじゃん、いーじゃん。うん、こりゃ青春ドストライクだね》


 汗ひとつかかず、雨粒ひとつ弾かず。奴は俺の横を並走して適当なことを言う。


 無視し続けてバス停へ急ぐ。

 奴も隣を走っているが、ムカつくので速度を上げ、奴を引き離す。


《おーい! ちょっとー! もう少しゆっくり走ってくれよー》


 などと泣き言を言う奴を置き去りにして、俺は走り続けた。

 バス停は屋根があるので、たどり着きさえすればこの豪雨を防ぐことはできる。

 ま、すでにこれだけ濡れてしまったら屋根があろうがなかろうが関係ない気もするが、このまま奴に付きまとわれるのはまっぴらごめんだった。


 奴を引き離し、姿が見えなくなった頃、前方にボロボロの小屋が見えてきた。

 戦前に建てられたと言われても信じてしまいそうなボロボロの小屋、それが目指したバス停である。


 よかった。これで奴ともおさらばだ。安堵しながら小屋に駆け込む。

 電気もない寂れた小屋。申し訳程度の防腐加工しかされていない木塀は、隙間が見えるほど歪んでいるし、雨粒のマシンガンをダイレクトに受け止めている薄い屋根には何箇所も穴があいていて、あちこちに水たまりを作ることになる。


 そんな狭い小屋に奴はいた。


《よっ! 意外と遅かったな》


 ヒョイっと手を上げてちんちくりんな紅白スーツのヤサ男が笑う。


「な、なんで……」


 思わず、声が出る。


《そんなに、驚くなって。不測の事態ちゃんは時も場所も選ばず、君の前に登場しちゃうんだぜぇ》


 したり顔でほくそ笑む奴。


《それに、実は今回は特別ゲストがいるんだぜー!ジャジャーン!》


 思わせぶりな言葉を吐き、ヘラヘラ笑う奴が無駄にステップを踏んでダンスを踊りながら脇にずれると、その背後に誰かが立っていた。


 思わず息が止まる。

 そこにいたのは、もう何年も話もしていない幼馴染だった。



 白いブラウスも紺色のスカートもびしょびしょに濡れている。

 彼女も俺と同じように慌てて駆け込んできたのは明らかだった。

 濡れた長い黒髪を拭くタオルの隙間から駆け込んできた俺をちらりと見た彼女は、何も言わずに視線をそらし、その濡れた体を拭きつづけた。


 まさか、こんなところであいつに会うなんて。


《久しぶりだろー。凛ちゃんに会うの。な? 不測の事態ちゃんも悪いばかりじゃないだろー?》


 華麗なステップで小屋の外まで出て行った奴は土砂降りの雨の中、くるくると妙な踊りをしながら、せせら笑っている。最悪だ。


 雨は強く降り続けている。俺の心臓の鼓動が極端に激しくなっていることなんか、誰にもわからないだろう。

 バス停の向こうは時に立つ彼女のシャツの袖口から白い二の腕が覗き、濡れたブラウスの下、キャミソールが透けていることに気づいて慌てて目をそらした。


 狭い小屋の端に立つ俺。反対側に立つ彼女。

 無意識を装い、黙ったまま通りの向こうの紫陽花の列を見るとはなしに眺める。


《久しぶりに二人っきりになったのに、話しかけないのかーい?》


 白メガネにクイッと指をかけあざ笑う『不測の事態』は、雨など気にするそぶりも見せず、路肩の枯れかけた紫陽花の褪せた花弁を摘んだ。


《紫陽花の花言葉って知ってるかー? 『移り気、冷淡、無情』なんだってよ。はっはっは。紫陽花の花言葉が似合うのは、お前かい? それとも彼女の方かい?》


 奴の言葉になど反応はしないが、それでも心は激しく動揺した。



 あいつと俺は幼馴染だった。

 幼稚園の頃からいつも一緒に遊んでいた。

 けど、小学校に入り、高学年あたりになると遊ぶ機会は急激に減り、中学校に入ったあたりで会話もしなくなった。


 別に何か喧嘩をしたわけでもない。互いが互いのことを嫌いになったわけでもないと思う。

 それまでは仲の良い友達だったはずなのに、何の前触れもなく突然、一緒にいることに違和感を感じ始めたのだ。

 なんだか胸にざわざわする雨雲みたいなものがかかったみたいだった。

 あいつと話すと、なぜか言葉がうまく出てこなくなったのだ。


 あいつも俺と同じようなことを感じていたのか、それとも俺の異変に気付いたからなのか、時を同じくしてあいつの俺に対する態度もよそよそしくなっていった。

 いつの間にか、あいつは俺のことをあだ名で呼ぶこともなくなった。

 そうして、俺たちは一気に疎遠になった。ずっと一緒にいたのに。


 きっかけがあって疎遠になるのなら、何かの拍子に再び親密になることもできるだろう。

 でも、俺たちは違った。互いに言葉では説明できない『ずれ』を感じて距離が生まれたのだ。そして二人はすれ違ったまま時を重ねてきた。

 あれから、既に5年。

 たまたま同じ高校に進学はしたが、クラスも違ったため、結局一度も話していない。

 この高校では俺とあいつが幼馴染だなんて知ってる人間はいないと思う。


 あいつは成績も良いし、友達も多い。それに美術部で描いた絵画か何かで賞をもらって、大学は美大一本で狙ってるみたいだった。

 それにひきかえ俺はといえば、身長が平均以上、くらいが唯一自慢できるポイントで、あとは外見も中身も成績も中の下だし、将来の夢なんてものもなかった。

 大学なんか行くより手に職でもつけたほうが良い。俺は高校を出たら街の工場に就職しようと思っていた。


 幼い頃は、俺にも夢があったのにな。

 中学生になった頃くらいまでは本気で自分にはサッカーの才能があると思っていたけど、結局レギュラーになることもなく中学を卒業して現実を知った。

 時は人を変えるというけど、あいつとは随分と差がついたものだ。

 あいつは小さい頃から絵描きになりたい、と言っていた。

 幼い日の夢をずっと追いかけ続けることができるのは、多分幸運なんだと思う。


 雨は変わらず激しくアスファルトを叩きつけている。

 バスは来ない。この夕立のせいでダイヤが乱れているのだろうか。


 時刻表を確認しようと身を乗り出したら、あいつも同じ事を考えていたのか、視線が交差し慌てて俺は目をそらした。

 なぜ目をそらしてしまうのか自分でもわからない。でも、もし勇気を出して話しかけてみて、冷たい対応を取られたら、と考えると億劫になる。


 ポケットに手を突っ込み、素知らぬ顔で道路の向こうを見る。

 あいつも同じように知らんぷりすると思った。

 ……でも、違った。


 あいつは何を思ったのか、つかつかとこちらに歩み寄ってきたのだ。


「ねえ」


 声。あいつの声。

 心臓の鼓動が早くなる。

 黙ったままで視線を向ける。

 目が合う。どこか冷たく堅い印象を与える瞳がそこにあった。


「……拭いたら?」


 あいつはタオルを手に持ち、こちらを見据えていた。


「風邪ひくよ」


 つっけんどんにそう言って、有無を言わさずタオルを押し付けてくる。


「あ、ああ。サンキュ」


 内心では動揺するが努めて素っ気ない声で返す。できるだけ自然を装ってタオルを受け取り、身体を拭いた。


「最悪だね。こんな雨」


 どす黒い空を見上げてあいつが言う。


「ああ」


「すぐ止むといいんだけど」


「通り雨じゃねーの、すぐ止むだろ」


 自分の放つ言葉の固さに気づきながらも、ぶっきらぼうな口調を変えられない。


「朝から夕立の予報出てたんだから、折り畳み傘くらい持ってきたらいいのに」


 あいつの口調もどこか硬い。


「荷物が増えるのが嫌なんだよ」


「ずぼらなんだね」


 何がおかしいのか、くすくすとあいつは笑う。でも、笑い声もどこかぎこちない。そんなあいつの横でチンチクリンな紅白スーツの男も俺を小馬鹿にしたように笑っている。

 もちろん、あいつは奴になど気付かない。


「進路は決めたの?」


「就職するよ。大学行くほど金もないし」


 普段話さない同級生同士が、ただ時間を潰すためだけにしているような会話。とても仲の良かった幼馴染同士の会話には聞こえない。

 どうせなら、幼い頃の記憶を消して、一度も話したことのなかったクラスメイトとしてこの場にいた方が会話も進んだと思う。


「……そっちは?」


 関わりのない同級生に対し、お前、と呼ぶのも違うし、昔みたいに名前で呼んで嫌な顔をされたら嫌だし、かと言って二人きりでいるのに苗字で呼ぶのも少し違う気がした。


「うん、美大。絵の勉強しようと思ってる」


「美大かぁ。昔から絵を描くのが好きだったもんな」


 ふと、遠い記憶が蘇る。三つ編みの少女が色鉛筆を握りしめて、似顔絵を描いてくれた時のことだ。実際の俺とは似ても似つかなかったけど、漫画の主人公みたいに剣を持ってドラゴンに跨っている絵だったので、とても喜んだのを覚えている。


「……覚えててくれたんだ」


「ま、まあな」


 そんな昔のことを覚えているなんて女々しいと思われたくなくて、そっぽを向いて答えた。


「描いてくれた似顔絵、まだ家にあるよ」


「え? 本当? まだ取ってあるの?」


「母ちゃんが大事に取ってるんだよ。女の子からのプレゼントなんてあれ以降もらってないでしょって、いまだに冷やかしてくる」


「おばさんらしいね」そう言ってあいつはクスクス笑い出した。


「本当に、その後はプレゼント貰ったことないの?」


「ねえよ」


 ぶっきらぼうに答えると、あいつは吹き出した。


「なんだよ」ムッとして顔を見るが、あいつはよっぽど面白かったのか「だって、ぶすっとしてる顔が昔と全然変わってないんだもん」と、前屈みになって肩を震わしている。


「そんな笑うなや」


 俺が言ってもしばらくあいつは『く』の字のまんま笑ってた。

 その様子を見ていたら、なんだかつられてしまい、つい俺も笑う。


 雨はまだ降り続いている。

 ひとしきり笑って「ねぇ、久しぶりだね。話すの」とあいつが言った。あいつの声が急に柔らかく懐かしく感じた。


「高校入ってからは話したことなかったもんな」


 自分の言葉にまとわりついていた硬さも無くなっていた。


「中学の時もほとんど話さなかったよ。なんでだろね。昔はいつも一緒に遊んでたのにね」


「変わったんだろ……お互い」


 まるで他人事みたいに俺が笑うと、「変わっちゃったのか、私たち……」

 と、あいつもまるで他人事みたいに笑う。


「人間変わるだろ。良い悪い関係なしに」


「そうだね。……でも、私は変わりたくなかったな」


「……え?」


「幼馴染とは変わらずに仲良しでいたかったなぁ」


 ぽつりと、シャボン玉でも飛ばすみたいに、あいつは言った。


「な、何言ってんだよ」


「思ってること言っただけだよ」


 胸の奥がこそばゆくて、またぶっきらぼうに視線をそらしてしまう。


「タイミングが悪かったんだよ」


「タイミング?」


「タイミング。子供から大人に変わる過程で色々な要素が絡み合って、なんとなく疎遠になっちゃったんだよ。別に仲が悪くなったわけじゃないだろ。話さなくなっただけで」


「そうなのかな」


「変わっていくよ。人間だもん」


「……それはそうだけど」


「でも、凛は昔から絵ばっか描いてたもんな。美大に行くってのも納得だよ」


 ぎこちなく名前を呼んだ。下の名前で呼んで、もし嫌な顔をされたらどうしようと不安になったが、凛は特に何の反応も示さなかった。それが少し嬉しかった。


「まぁ、ね……。絵を描くのが一番好きだったから」


 はにかむ顔が幼い頃の彼女と重なる。人間、変わったようで変わってない部分もあるんだな、なんて思った。


「でも、この町を離れて一人ぼっちで暮らすのはちょっと寂しいな」


 少し俯いて言った言葉の意味がわからなかった。


「え?どうゆうこと?」


「私ね、卒業したら……東京に行くんだ」


「……東京?」


「そう。東京の美大に行く」


「東京……」確かめるようにつぶやく。

 そうか。美大に限らず、進学するとなれば、大体の人間はこんな地方の都市からは出て行くことになる。

 少し考えれば分かりそうなものなのに俺は思いつきもしなかった。

 この街で生まれて、この街で就職しようとしている俺にとって、世界とは四方を山に囲まれた小さな地方都市の中だけだった。


「と、東京なんて新幹線で一時間ちょいだろ」


 軽口を叩くが胸を締め付けられるような感覚が襲う。急に濡れた肩の冷たさに気づく。

 東京なんて修学旅行でしか行ったことはないけれど、外国なんかじゃない。地続きの日本なんだ、……なんて思いながらも、心の中の俺は本当を知っている。高校を卒業したら二度と会わなくなる友達もきっといるんだろうなってことは。それが凛である可能性もゼロじゃないってことも。


「じゃあ、遊びに来てくれる?」


 目を伏せたままで、凛が言った。


「……え?」


 思わず聞き返すと、彼女の瞳が寂しげな色に変わった。


「なんでもない。雨、止まないね」


 俺の視線から逃れるように顔をそらした彼女は言う。

 そのまま沈黙の時が流れる。

 聞こえなかったから聞き返したわけではない。あまりに唐突だったから聞き返しただけだ。

 でも、凛は俺の言葉を別の意味で受け止めてしまったのか、すぐに言葉を止めたから、そこから何も聞けなくなる。何も言えなくなる。

 再び沈黙の時が流れる。


「……私さ。好きな人がいたんだ」


 雨の音にかき消されそうな小さな声。彼女の表情は見えない。


「ここ数年、会話もなかったけどね」そう言って自嘲的に微笑む。

「小さい時はなんとも思ってなかったけど、大きくなるにつれて好きだって気づいて、変に意識し始めちゃったんだ。それでだんだん上手く話せなくなっちゃって、そのまま今日まで来ちゃった。もう高校三年生だし、あと半年もすれば嫌でも離れ離れになるって思ったら、このまま自分の気持ちを心にしまったまま別れていくのも仕方ないかな思ってたんだ」


 雨の音はうるさいのに、あいつの透き通った声はスッと耳に入ってくる。


「でも、なんか偶然にも話す機会ができちゃったもんだから、少し浮かれちゃった」


 コツンと自分の頭を叩いておどけてみせる。


「さっき、たっちゃんが言ってた似顔絵だけど。あの絵を描いた時、たっちゃん凄く喜んでくれたんだよ。両手に持ってクラス中に自慢して回ってたの。ちょっと恥ずかしかったけど、私はそれがとっても嬉しくて、それで絵を描くことが好きになったんだ。だから、こうやった絵で賞をとったり美大に行こうって思えたのも、たっちゃんのおかげなんだ」


 弱々しい声。消えてしまいそうな、か細い声なのによく聞こえると思ったら、さっきまで土砂降りだった雨が急に止んだのだった。


「あ、止んだ」


 あいつの声に空を見上げると、流れていく黒い雲の切れ間から鮮やかなオレンジ色の太陽が光を放った。

 突然降り出した雨は、突然止んだ。

 燃えるような夕日は黒く濁る雲を突き抜け、水たまりや、色あせた紫陽花や、濡れたアスファルトを照らし出した。

 眩しさに目を細める。

 黙ったまんまオレンジ色の世界を見つめる。

 重く立ち込めた雲の向こうの輝く太陽。黄昏に染まる空。黙ったまま二人で見つめる。


「綺麗だね」


 つぶやくあいつの横顔が、長い睫毛が、ツンとした唇が夕焼けに染まる。


《お前、凛ちゃんが好きだったんだな》


 いつの間にか傍にきていたチンチクリン男が耳元で囁いた。


 ハッとした。

 驚き奴の顔を見るとやれやれと手を広げ、今更気付いたのか、とため息をついていた。

 そうか。

 そうだったのか。

 俺はずっと凛が好きだったのか。


 友達として接することができなくなったのは、そういうことだったのか。

 俺は凛に恋をしてたのか。


《なーんだ。今頃になって気付いたのか。鈍感な奴め。ま、これも『不測の事態』ちゃんのおかげですなー》


 奴はどうだ、と言わんばかりに胸を張っている。だが、そんな彼に反応する余裕もなかった。


 俺はなんでそんな単純なことに気づかなかったんだろう。

 俺は凛にかっこ悪いところを見せたくなかった。嫌われたくなかった。その気持ちが、本音でなんでも話せていた二人の関係に変化をもたらしたのだ。

 いつの間にか、友情としてではなく恋愛として、彼女のことが『好き』になっていたのだ。

 いつも彼女のことが気になっていた。クラスが違ってもどこかで彼女の姿を探していた。

 そうか。この気持ちが恋だったんだ。


「なあ、凛」


 今度は自然に、口からこぼれたあいつの名前。

 彼女が、いつの間にか随分身長差のついた幼馴染が俺を見上げている。


「俺も、ずっと好きな人がいたんだ。でも、それが恋だって全然気付かんかった」


 俺はずっと凛のことが好きだったんだ。


 その言葉は口元まで出かかっていた。

 でも、夢に向かって進もうとする彼女に、今更気持ちを伝えたところでどうなるのだろう。

 ふっと湧いて出た疑問が、瞬時に俺の言葉をせき止めた。


 そんな俺の心の揺らぎなど気付くはずもなく、彼女は次の言葉を待っている。

 きっと俺が本当に言いたいことと、凛が言ってほしい言葉が同じなんだろうと、ほのかに赤く染まる凛の顔で直感した。けど。

 タイミングが悪かったんだ。


「……東京行っても頑張れよ」


 屋根から滴る雨粒が煌めく。

 好きだから、送る精一杯の言葉だった。


 気付くのが遅すぎた。今更彼女に何が言えるだろう。夢に向かってこの町を出て行く幼馴染に、何を言えるだろう。

 俺はこの町で暮らしていく。多分、ずっと。

 彼女は東京に出て、新しい友達を作ってきっと楽しく暮らすのだ。こんな何にもない街より、都会の方が彼女にはずっと似合う。


 あいつの瞳がわずかに揺れた。そして小さく頷いた。


「うん、わかった。たっちゃんも頑張って」


 彼女の声に柔らかさが消えていた。


「おう」


 俺も硬くなった言葉で返事をする。


《おいおい、マジかよ! それでお前はいいのか?》


 白いメガネをずり落とすほど驚いた様子で奴が言葉をかけてくる。が、無視する。


「……こんなに濡れちゃったらバスに乗るの悪いよね」


 濡れた体を抱いて彼女は言う。


「歩いて帰ろっかな。せっかく綺麗な夕焼けになったし」


 こちらを一度も見ず、寂しそうに微笑む彼女の横顔が、潤んだ瞳が夕焼けをにじませる。


「じゃあね」と濡れた髪を揺らして凛はバス停から出て行った。


 一度も振り返らずに。


 胸の奥を冷たい風が吹き抜ける。


 久しぶりに話せたのに、こんな風になるなんて。

 せっかく縮まった距離が再び開くのを感じた。もしかしたら、もう二度と縮まることはないのかもしれないけど。


 一人残された小屋の中、濡れたままで立ち尽くす。蝉の声が雨に代わって辺りを包み始めた。

 蝉なんて一週間で命が尽きる。夏の間ずっと鳴いてる蝉だけど、来週には今日鳴いてる蝉たちは死に絶えて、また新しい蝉が鳴いているんだろう。

 短い一生、奴らは声が枯れるまで鳴くというのに、俺はこの長い間、何をやっていたのだろう。


 濡れた体が急に寒くなってきた。

 口の中でタイミングが悪かったんだ、と呟く。

 俺があいつと出会ったのも、好きになったのも、あいつが絵を好きになったのも東京の美大に進もうと思ったのも、今更俺が自分の気持ちに気づいたことも。

 全部止められないことだったんだ。タイミングが悪かったんだ。『不測の事態』ってヤツだ。


《落ち込んでるねえ》


 軽い調子だけど、どこか優しげな声が耳元に響く。

 ちんちくりんなスーツの奴は、ため息をついた。


「まあね。でも、仕方ないことだろ。何を言ってみたって半年後には離れ離れになるんだから」


 はじめて奴の言葉に返事をした。


《そうだな、彼女の夢を応援するにはこうするしかなかったかもなぁ。遠距離カップルなんてすぐ別れるもんだしな》


 奴はヘラヘラ笑いながらも、優しく俺の肩を叩く。


《お前の選択は間違いじゃなかったとは思うぜ。未来には笑い話にできるかもな。失恋なんて誰だって経験することだし、気にしないことだな》


 サッカー部でレギュラーになれなかった時も、こうやって突然現れてアドバイスにもならない軽口を叩いてきたなぁ、と三年前を思い出す。


「ああ。そうだね」


 諦めの笑みを浮かべる。彼女の笑い顔が、寂しそうな横顔が胸に浮かぶ。


《お、バスが来たぜ。じゃあさっさと乗って帰りな。不貞寝でもして忘れるこったな》


 奴のがパチンと指を鳴らすと、排気音が聞こえ、ようやくバスがやってきた。


 バス停の前で止まり俺だけのために扉が開く。

 でも、足が動かない。


《お? どうした? 乗らないのかい?》


 奴が唇の端を歪めて笑う。

 バスの運転手は扉の前に立っているのに、一向に乗り込んで来ない俺に不思議そうな顔をしている。


「ご乗車しませんか?」


 運転手の言葉に答えることもできず、ただうつむいて拳を握りしめた。

 少し様子を伺っていた運転手だが、一向に動かない俺を見て首をかしげドアを閉めた。


《いいのか? 乗らなくて》


 奴が聞く。

 俺は答えない。


 俺を残し、オレンジ色の水たまりを弾かせてバスは走り去って行った。

 再び一人になった俺の頬を風が撫でる。握っていた拳の中で爪が突き刺さる。


 タイミングが悪いことって人生にはたくさんある。諦めるしかないこともたくさんある。

 流れに逆らうことはできない。今まで、そうやって生きてきた。


 ……でも。


 溢れ出る想いに急かされ、体が道路に飛び出した。

 夕焼けが山の稜線を焦がしている。見慣れた世界。

 いつもの街並み。長く続く幹線道路を駆ける。


 あいつの家は知っている。ここからのルートも。

 走れば追いつく。なぜか確信があった。


 歩道の雑草はどこまでも高く伸びている。枯れかけた紫陽花が目に映る。

 俺はひび割れたアスファルトを蹴り走り続けた。

 汗が噴き出すが、元からずぶ濡れだ。気にすることもない。


 信号を三つ越したところで見覚えのある後ろ姿が身に映った。


「凛っ!!」


 背中に叫ぶ。

 びくりと肩をこわばらせた彼女が振り返る。


「たっちゃん、どうしたの?」


 駆け寄って、膝に手をつき息を整える。


「あのまま別れるのが嫌で、ごめん。俺、ずっと凛と普通に話したかった、でも、タイミングがつかめなくて、だから、今日、会えて話せて嬉しかった」


 息が上がったまま喋るから途切れ途切れになって、まるで日本語を覚えたての外人みたいにたどたどしくなる。

 でも、凛の瞳は潤んで行く。

 伝わっているのかわからないけど、伝えるのは今しかない、そう思った。


「俺、ずっと凛が好きだったんだ。これからも昔みたいに普通に話したい。卒業するまでの半年だけど……じゃなくて、卒業しても、いや、それはどうなるかわかんないけど、東京でその、お洒落な美大生とかと仲良くなって俺なんてどうでもよくなっちゃうかもしれないけど、でも、あの、俺、東京、遊びに行くよ! あ、でも、迷惑だったら……、いやその……」


 喋れば喋るほど、言いたいことがこんがらがって何を言っているのかわからなくなる。


「あの、だから、えっと……」


 ついには何も言葉が出てこなくなってしまい、しどろもどろになる。

 頭の中がぐちゃぐちゃで言いたいこともうまく言えなかったけれど、このままで離れ離れになるなんて嫌だ。


 要領をえない言葉を羅列していると、次第に聞いていた凛の肩が震えはじめた。

 うつむき肩を震わせている凛。それでも、俺は構わず言葉を続けた。

 届かなくてもいい。今、伝えなければ後悔する。


 そう思った瞬間、凛は吹き出した。


「あっはっは。たっちゃん慌てすぎだよ」


 お腹を抱えて凛は笑っている。


「もうちょっと落ち着いて話してよぉ。あー苦しいっ」


 涙まで流して笑っている。


「ちょ、ちょっと! 笑うなや!」


 顔が火照るのが自分でもわかる。でも、泣くほど変だったかな。

 凛の涙が笑いすぎて出たものなのか、少しわからなかった。


「……はぁ、笑った。笑った」


 凛が落ち着いた時、俺は逆にぶすくれていた。

 せっかく勇気を出して告白したのに。


「ねえ、たっちゃん」


「なんだよ」


 ふてくされてそっぽを向く。


「ねえ」


 甘えた声が俺を馬鹿にしているみたいで癪だった。


「ねえってば」


「なんだよ!」


 怒鳴りながら振り向いた瞬間。凛の顔が迫ってきた。

 柔らかい感触。

 一瞬、なんのことだかわからなかった。


「な、なっ……」


 固まったまま凛の顔を見る。薄い唇。触れたのか、今。


「ありがと。嬉しかった」


 にこりと笑いくるっと回って背中を向ける凛。


《なっ? 不測の事態ってのもたまには悪くないもんだろ》


 いつの間にか隣に立っていたちんちくりんな紅白スーツの奴が、ヒューっと口笛を吹いてニヤリと笑った。


「うるせえ」


「ん? たっちゃんなんか言った?」


「な、なんでもない。帰るか」


 凛の隣に並んで歩き出す。

 すると凛が手のひらを俺に向けて「はいっ」と声をかけてきた。


「何?」


 何かを欲しがるように向けられた手のひらを見て尋ねる。

 あ、タオルを返すのを忘れていたのか。


「ごめん、タオル返してなかったな」


 慌ててカバンに放り込んでいたタオルを取り出すと、凛は首を振った。


「違うよ。手。つないで帰ろ。昔みたいに」


夕日に染まる頬。きらめく瞳。彼女のすべてが綺麗だった。


《おーっと! 大胆だなぁ凛ちゃん! これこそ『不測の事態』でしょー。 おい。どうだ? これでも不測の事態は最悪か?》


 ぴょこぴょこジャンプして奴がはしゃぐ。


(ま、たまには悪くない……ね)


 心の中で答え、凛の手を取った。

 暖かく柔らかい手。

 幼い頃のように、手をつないで歩く二人の影は夕日に照らされ長く伸びていた。




おわり

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